「きみの鳥はうたえる」
佐藤泰志原作ということでチェックしていた作品がAmazonプライムで観られるようになっていたので、観てみました。
きみの鳥はうたえる
作品データ(映画.comより)
監督 三宅唱
製作年 2018年
製作国 日本
上映時間 106分
配給 コピアポア・フィルム
映倫区分 G
あらすじ(シネマトゥデイより)
失業中の静雄(染谷将太)は、函館市の郊外にある書店に勤める僕(柄本佑)と同居していた。ある日僕は、ひょんなことから同僚の佐知子(石橋静河)と一夜を共にする。その日を境に佐知子は毎晩のように静雄たちのアパートを訪れるようになり、三人は酒を飲みながら楽しく過ごしていた。静雄は、キャンプに行こうと僕を誘うが断られてしまい、佐知子と二人で行くことになる。
勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★
感想
まず、すぐに思ったのは、村上春樹の小説のようだな、ということです。
原作者の佐藤泰志は村上春樹と同世代ですが、生前にはあまり評価されず、40歳の時に自死し、その後2010年代頃になって、再評価されるようになった作家ですが、原作は読んでいませんが、佐藤泰志の初期の作品であるこの「きみの鳥はうたえる」が村上春樹の小説を読んだ時と同じように感じたのがとても印象的でした。
真っ先に思い出したのが村上春樹の「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(『カンガルー日和』にある短編)です。
佐知子はまさに「4月のある晴れた朝に(出会うような)100パーセントの女の子」だな、と。
そして、それと同時に、僕の個人的な人間関係ですが、高校(と大学)の同級生を思いました。
高校2年、3年と同じクラス(1人は1年も同じクラス)だった友人たちで、高校の時は、登校時間の1時間も前に登校してるようなバカがいたので、なんとなくそれに合わせ登校し、誰もいない校庭で3人でキャッチボールしたりして過ごしていました。
大学では3人とも違う学部に進みましたが、大学の時もなんとなく3人で飲みに行き、社会人になってからは、2人は割とすぐに関西で勤務することになったので(1人は今も大阪)、彼らが帰省するタイミング(大体年末)に会い、夜中まで呑んで、ビリヤードしたりして過ごしたり、何回かは旅行にも行きました。
その3人でのやりとりを思い出すというか、「あぁ、あれはすごく幸福なときだったのだ」とこの映画を観て思いました。
幸福な時だったと思ったのは、映画に出てくるような、一緒に呑んだり、ビリヤードしたり、一緒に朝ご飯食べたりすることもそうなのですが、それと同時に、映画とは違って、僕らは男だけだったことも良かったな、と(関係は続いているので過去形にするのもおかしいですが)。
3人の内、1人が異性、あるいは同性でも「恋愛感情」が入り込んでしまったら、こんな幸福な時は過ごせなかったな、と思います。
異性がいること、恋愛という要素が入ることで、個人間の盛り上がりのようなものはあるかも知れませんが、同性だからこそ、この関係は幸福な時を過ごせたし、今も関係を続けていけているのだと思います。
「言葉」の学び直し
なんだか、多くの人が暇になってきたからか(時間が出来たからか)、それともそれに伴ってストレスが過多になっているからか、過激な言葉や表現が目につくようになりました。
また、在宅勤務(テレワーク)も進んだ影響で、「文脈以前に言葉そのものが伝わらねぇ」と思うことが増え、僕自身のストレスも増えました。
ということで、いっそ、この際、日本語を学び直そうと思いました。
で、どうしたのかというと、紙の広辞苑を買いました。
広辞苑 第七版
内容案内(PDFリンク)
僕は電子辞書を持っているので、そこには第六版の広辞苑が入っているのですが、紙の広辞苑(めちゃくちゃ高いけど)を買って良かったです。
すごく楽しいです。
その楽しさには、いろんな意味があって、シンプルに「紙」ということ、触れることが出来るということがあります。
そして、もう一つはぱっと開いたところで思わぬ言葉が出てくることです。
今、ぱっと開いてみたら、「しんり」というページ(1530頁)になりました。
そこで最初に載っているのは「心理」という言葉の説明です。
そこにはこう書いてあります。
①心の働き。意識の状態または現象。行動によって捉えられる心的過程をも指す。
②心理学の略。
このように載っていました。
じゃあ、「『心』って何?」と思った僕は「心」のページを開きます。
そこには、こう載っています。
(猛禽などの臓腑の姿を見て「こ(凝)る」または「ここる」といったのが語源か。転じて、人間の内臓の通称となり、更に精神の意味に転じた)
①人間の精神作用のもとになるもの。また、その作用。(以下略)
今回たまたま「心」に行き当たりましたが、最初に調べた言葉は【不幸】というものでした。
そこから【幸せ】に移動し、【心】に行き当たりました。
で、広辞苑を持っている人は是非【心】の箇所を読んでいただきたいのですが、上に書いた箇所だけで既にかなり曖昧です。
なんだ、結局「言葉」も「誰か」、というか、「多くの人」が認識しているものであって、移ろうもの、定まっていないものなのだということを知って、なんだか安心しました。
「あれっ?結局人間って使ってる言葉はかなり適当なんだ」と知ることが出来ました。
ついつい、「言葉が伝わらねぇ」とイライラしてしまいがちでしたが、紙の広辞苑を開くことによって、「そもそも言葉は曖昧である」ということを知ることが出来て良かったです。
(ちなみに、広辞苑の紙の「匂い」は僕の好きな紙の匂いではないので、それが理由で、広辞苑を開くのをためらってしまいますが…)
「否定と肯定 (字幕版)」
観たいなぁ、と思っていた映画が続々と観られるようになって至福の時を過ごしています。
Amazonプライムで観られるようになっていたこともそうですが、僕自身にも時間の余裕があるからこそ観られることが出来て、本当に嬉しいです。
この作品は、いくつかの場面で見聞きしていてチェックしていました。
否定と肯定 (字幕版)
作品データ(映画.comより)
監督 ミック・ジャクソン
原題 Denial
製作年 2016年
製作国 イギリス・アメリカ合作
上映時間 110分
配給 ツイン
映倫区分 G
あらすじ(シネマトゥデイより)
1994年、イギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィング(ティモシー・スポール)が唱えるホロコースト否定論を自著「ホロコーストの真実」で否定していたユダヤ人の女性歴史学者デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)は、アーヴィングから名誉毀損(きそん)で提訴される。やがて、法廷で対決することになった彼女のサポートのためイギリス人による大弁護団が結成され、歴史の真実の追求が始まり……。
勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★
感想
この作品は実話を元にしていて、ホロコースト(ショアー)などなかったと主張し続けている歴史修正主義者に「名誉毀損」だと訴えられた歴史学者を巡る裁判の様子が描かれています。
舞台は英国で、訴えられた歴史学者デボラ・E・リップシュタットはアメリカ人ですが、英国で訴えられます。
英国は被告(訴えられた側)が、アーヴィングに対する行為、つまりアーヴィングは嘘をついていて、歴史修正主義者であるということを立証しなければ「名誉毀損」となってしまう、ということで、アーヴィングがいかに間違っているのかを立証していく、という展開です。
この映画を観ていて思ったのは2つのことで、1つは、どんなに明確だとされていることでも「そんなのなかった」と言い続ける人がいると、それを信じる人が出てきてしまうということ、そして、もう一つは、説明を求められるのはいつだって「マイノリティ」というか「弱い」立場に置かれている人だ、ということです。
ホロコースト(ショアー)などなかったというような「馬鹿げた」話であっても、それを言い続けている人がいて、それを放っておくと、それが「真実」だと信じてしまう人が出てきて、広がってしまう。
だからこそ、本当に面倒なのだけれども、影響力の大小に限らず、「いや、それは違うよ」ということが必要なのです。
相手がどんな人であっても、違うことには違うと言い続けなければならない。
それを、面倒だな、と思って放っておくと「ホロコースト(ショアー)などなかった」というような話も「真実」とされてしまう危険がある。
そして、これは訴えられた側のリップシュタット(あるいはユダヤ人と言って良いかもしれません)が、何故か「ホロコースト(ショアー)などなかった」と主張するアーヴィングが嘘をついていることを立証(説明)しなければならない。
先日書いたハ・ワンさんの『あやうく一生懸命生きるところだった』で触れたことでもありますが、説明を求められるって本当に面倒なんですよね。
そして、大概説明しなければならないのって、その場の弱かったり、マイノリティだったりする。
その時の説明しろよ、という暴力性には触れられない。
リップシュタットや登場する収容所にいたことのある元ユダヤ人女性の怒りの中にはこれもあるのだと思いました。
単に嘘をついていること、なかったことにされることへの怒りだけでなく、説明することが当然とされ、説明を求めることの暴力性は全く触れられない。
そもそも説明しなければならないという情況自体が暴力を受けていて、それに対しても怒っているのだろうと、少なくとも僕は思いました。
「全然だいじょうぶだよ-」
仕事もようやくかなり落ち着き、このままのタイムスケジュールで暮らせたら本当に良いなぁ、と思っている今日この頃なのですが、自分に時間的にも精神的にも余裕が出来たので、 子どもたちが通う学校の様子を調べました。
3人とも公立の学校に通っているのですが、まぁ、予想通り、教職員の苦労がうかがわれるような情況でした。
じゃあ、子どもたちはどうだろうか、とまた電話してみました。
で話した反応が今回も「え?何?大丈夫だよ-」というものでした。
この反応、1ヶ月位前にTwitterでみたこの情況だな、と感じました。
このコロナ禍で、子どもが居るとつい色々と考えちゃう。子どもたちはどう受け止めてるのかな?そんな漫画を描きました。 pic.twitter.com/6jxOSDvajt
— オキエイコ (@oki_soroe) April 19, 2020
3人に聞いたのは、「さみしいとかある?」「困ってることは?」「具合は?」というものです。
次男は小6で、受験すると言っていたので、一応「勉強は?」ということも加えて聞きました。
そして返ってきた答えはみんな今回も「え?何?大丈夫だよ-」というものでした。
学校も今は週に1、2度ちょっと行くようになっていることもあり、特に問題ないということでした。
まぁ、3人とも結構インドアなので、本当に特に問題がなさそうでした。
で、僕が「いやぁ、ついにお父さんも暇になってきたからさ、いつでも連絡してね!」と言ったら、子どもたちは笑っていました。
ということで、少なくとも僕の周りで今回のCOVID-19で騒いだり、あたふたしたり、メンタルやられているのは「大人」だけで、子どもたちはむしろこの世界に適応、順応して生きているということが分かりました。
僕も周りの大人たちの騒ぎぶりにあたふたしてしまう時があるので、子どもたちのように目の前のことに集中し、やれることをやって過ごそうと思います。
戸田真琴『人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても』
先日読んだ、戸田真琴さんのエッセイ『あなたの孤独は美しい』がすごく良かったというか、もっとシンプルに、この人の文章をもっと読みたいと思い、もう一冊出ているこの本を読みました。
人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても
人を心から愛したことがないのだと気づいてしまっても 戸田 真琴:一般書 | KADOKAWA
内容(KADOKAWAより)
いつか、ちゃんと愛を始めてみたかった
いつか、どこかに、私にしか愛することのできない誰かがいるかもしれない。
その時にちゃんと愛を始めてみたかった――
現役AV女優として活躍するかたわら、自らの言葉を綴ってきた戸田真琴。
真実を捉えていて、それぞれの立場に寄りそい、読むひとの心に届く彼女の言葉には男女ともに多くのファンがいる。
恋愛がすべてではないし、男女である前にひとりの人間同士だし、いつも器用に生きられなくたっていい、そうわかってはいるけれど、やり場のない感情を抱いてしまうとき。
この本に記された言葉は、そんなあなたに見つけられるのを待っています。
感想
僕が先日、神学校の同級生で友人が今年のはじめに自死したことが今でも悲しいのだということを書いたのは(自死した友人についての話)、この本を読んだからです。
晴れた日に、大きな公園のベンチでこの本を読んでいた時、読みかけだったのですが、友人が自死したこと、彼が今この世にいないということが悲しいという、その自分の「気持ち」にちゃんと向き合っていないと思いました。
彼が死んだことは本当に悲しく、子どもたちと離れて暮らすことよりも遙かに悲しく、今まで経験したことのない悲しさを今も感じています。
その「気持ち」にちゃんと僕自身が向き合っていないな、とこの本を読んでいる時に思い、ばーっと家に帰って書いたのが、あの文章になります。
このエッセイというか、戸田真琴さんのすごさは、冒頭にある、この文章がすべてを物語っています。
私は私を生きている。あなたはあなたを生きている。それが素晴らしいのだと、それだけが本当は美しいのだと、私は言い続けることができる。自信満々で。
正直、僕は「愛」という言葉がものすごく苦手です。
愛について語られると身構えてしまうし、日本でも結構人気なエーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読んでもよく分かりませんでしたし、レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』を読んでもよく分かりませんでした。
今でも歌とかで「愛」とかいう言葉が出てくる度に身構えてしまうというか、むしろ、一歩だけでなく何歩も引いてしまう自分がいて、この本のタイトルに「愛」という単語があった時点で、読むかどうか躊躇しました。
けれど、もしかしたら、愛というのはこういうことをいうのかな、と。
「生きている」こと、「それが素晴らし」く「それだけが本当は美し」く、それを「言い続ける」ということ。
この人は本当に「愛」のある人なんだ、と思いました。
僕は誰かに向かってこんなことを言うことは出来ません。
しかも、「自信満々で」なんて。
それは、自分自身に確実なものなんてなくて、一貫したものもなくて、常に変わっているからで、今日好きだったもの、あるいは、今、美しいと感じたものが、次の日、次の瞬間には好きじゃなくなっていたり、その時感じた「美しさ」を感じられない自分がいるからです。
でも、戸田さんは、それさえも分かって言い切っている。
それが本当にすごくて、この人はなんて強く、優しい人なんだろう、と。
この人が言うのなら、確かにそれは「愛」であって、愛というものがあるのかも知れないと思いました。
バリアとしての音楽
おはようございます。
時短勤務になり、ブログを書く時間が出来たぶみです。
誰が読んでくれているのかは相変わらず分かりませんが、5月になりアクセス数が増えたので(その前から更新もしていないのに増えていましたが)、正直戸惑っています。
先日、僕が高校3年生だった時のような生活を送っていて、この生活を送っていれば、うつ病も不眠症もなくなるのではないか、と書きました。
そういえば、高3の時と全く違うな、実はコーピング(ストレスコーピング | e-ヘルスネット(厚生労働省))になっていたな、と思うことがあります。
今日は、それについて書いてみたいと思います。
僕が高校3年生だったときと決定的に違うのは、音楽の聴き方です。
少なくとも高校3年生の時までは、僕は自分が「好きな」「聴きたい」音楽を聴いていました。
それはレッドホットチリペッパーズだったり、レディオヘッドだったり、ドアーズだったりと、基本的に洋楽でした。
なぜ洋楽だったのかというと、日本語の歌は僕にはストレートに言葉が入って来過ぎてつらかったからです。
ストレートに発される言葉よりも、一旦「英語」という母語ではない言語に変換される(変換する)ことによって、僕は音楽とその言葉を受け止めることが出来ました。
なので、今でも基本的に聴いているのは洋楽です。
で、改めて自分の音楽への接し方を振り返ったとき、大学生以降は僕にとって「バリア」だったな、と。
このブログ、何故か一番読まれているのがひたすら音楽が流れるラジオの投稿です。
僕にとって、ひたすら音楽が流れるラジオの心地よいのは、周りとのバリアになっているからです。
楽曲を提供し、それを配信しているラジオ局の方々には本当に申し訳ないのですが、僕がひたすら音楽が流れるラジオを聴いているのは、周りの人、世界と隔てるバリアになっているからです。
僕はHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン - Wikipedia)です。
なので、どうしたって、周りからの情報を過剰に取り入れてしまいます。
そこで、今になって気づいたのが、ひたすら音楽が流れるラジオが今までバリアになっていたということです。
ひたすら音楽が流れるラジオで聴いた曲の中でも「これは良い!」と思って買ったものもありますが、少なくとも20代から今に至るまで、洋楽以外の音楽は基本的に外の世界に近づかないようするための「バリア」でした。
あぁ、自分が日本語の歌が苦手な理由はこれなのか、さらに、何故洋楽が好きなのか、ということが今になってようやく分かりました。
僕にとって、音楽はバリアであり、癒やしである。
今後はそれを使い分けながら聴いていこうと思います。
ハ・ワン『あやうく一生懸命生きるところだった』
昨日ぼそっと書きましたが、毎日ではないですが「仕事辞めたいなぁ」と思いながら、過ごしています。
それと、COVID-19の影響で9~15時勤務になったので、無駄に考え事をする時間が出来てしまったのも、あんまり良くないんだろうな、とも思うのですが、よく考えたら、今の生活、高校3年生の時の生活と殆ど同じだなぁ、と思ったら少し楽になりました(受験がなかったので)。
家事はしなくちゃいけないし、職場でのストレスもありますが、高校にもクソみたいな教師やクラスメイトはいたし、授業中は寝るか本読んで(ここも今と違う)、家に帰ったら、映画観て、本読んで、寝るという生活を送っていました。
でも、今は家に(元々そんなに何か言ってくる人たちではないけれど)親もいなし、何よりも仲の悪い兄もいないし、お金も自由に使えて、ある程度好きな時に好きな場所に行けて、その時の気分でささっとお店に行って買い物したり、食べたり出来る。
高3の時は、うつ病じゃなかったし、いつまでも眠れていて、もしかしたら、今の生活が続けば、うつ病も不眠もなくなったりして?とか思ったりしています。
ということで、読みたい本をたくさん読める時間が出来たので、気になったこの本を読んでみました。
あやうく一生懸命生きるところだった
あやうく一生懸命生きるところだった | 書籍 | ダイヤモンド社
内容(ダイヤモンド社より)
「正直なところ、この選択がどんな結果を生むのか僕もわからない。“頑張らない人生”なんて初めてだ。これは、僕の人生を賭けた実験だ——」。韓国で25万部超のベストセラーが待望の邦訳! 他人の目を気にせず、自分らしく、頑張らずに生きることを決意した著者が贈る、生きづらさを手放すための言葉
勝手に五段階評価
★★★★★
感想
タイトルの通り、率直な感想としては僕も「あやうく一生懸命生きるところだった」と思いました。
そして、職場でストレスを感じると、この言葉を頭の中で暗唱し、家に帰ってもモヤモヤするのですが、その時も呪文のように唱えています。
先日も珍しく寝付きが悪かったので(僕の不眠の症状は中途覚醒なので寝付きは良いです)、この言葉と「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。」を思い出しながら寝ました。
先日のオンライン飲み会でもそうだったのですが、離婚したことをみんなが「触れてはいけない話題」、つまり僕を「かわいそうな人」と思っているようで、僕はそれが少し悲しかったです。
離婚しても別に僕は「かわいそう」でも「不幸」でもありません。
子どもたちになかなか会えませんが、子どもたちの方が適応力があるようで、COVID-19による緊急事態宣言が出た直後、子どもたちに電話したら、「えっ?何?全然大丈夫だよー」と三人とも言っていました。
なので、僕も「それならオッケー!いつでも連絡してね。」と言って終わりました。
ということで、(ストレスは感じるものの)まぁ、ひとりで暮らしていけるお金をもらえる仕事はあるし、何よりも今は時間もたっぷりあって、映画や本を読んだり、散歩に行けて中々快適な生活を送っています。
この本の中で良いな、と思った箇所はいくつもあるのですが、今のこの情況を端的に表しているのはこれかな、と思います。
みんなが正しいと信じる価値観に同意しない者への暴力。
なぜまわりに倣わない? 説明してみろよ。
多くの人が「外出自粛」している中、「いつも通り」過ごしていることへの批判的な目。
法律を犯しているわけでもないのに、何故か「みんなが正しいと信じる価値観に同意しない」で過ごしているだけで向けられる暴力性。
その、「みんな」が「マジョリティ」だからこそ、「マイノリティ」はいつだって「説明」が求められる。
でも、もう正直、うんざりなんですよ。
僕はこれまでいろんな意味でマイノリティでした。
そもそも生まれたときから親は高齢だったし、祖父母は明治生まれだったし、母親は10人きょうだいの末っ子だったし、父方がクリスチャンということで、幼児洗礼を受けていたので、クリスチャンということになっていたし。
大学に進むときは、当時学部生全体が1万人くらいの中、キリスト教学科という1学年で50人くらいしかいない学科に進み(これは僕が幼児洗礼を受けていたこととは全く関係なく自分で選びました。学内の人に「えっ?キリ科?初めて会ったわー」と何度言われたことか)、22歳で結婚し、さらに、妻側の姓に改姓し(「婿養子なの?」と聞くのは決まって男)、けれど、社会的には元の姓を使って生活し(履歴書にはわざわざ二つの名前を書かなきゃいけないし、クレジットカードも銀行口座も運転免許証も教員免許状もパスポートも戸籍名)、元妻がフルタイムで働いていたこともあり、(専業ではありませんが)子育て主夫として生活していたこと、さらに、うつ病になり、その上、今は離婚し、一人で暮らしている。
そもそも「みんなが正しいと信じる価値観」に対してまず疑う、という気質の僕は、多くの場合「同意しない」という選択をしてきました。
中学での「成績」という名の権威を振りかざした「正しさ」による教師の「暴力」と、それを「仕方がないこと」と受け止める人たちの多さにうんざりし、僕は実際にそれは「暴力」だし、一方的に「正しさ」を突きつけないでくれと、反論しました。
今になれば、稚拙な方法だったかなということもしましたが。
もう、何もかも「みんなが正しいと信じる価値観に同意し」ていないというだけで向けられる暴力。
うんざりなんです。
その「みんな」に説明する時間があったら(といっても説明した相手が必ずしも理解したり納得するわけでもない)、映画観て、本読んで、こうしてブログ書いて、あるいは、会いたい人に会いに行って美味しいものを食べたい。
人生って、それだけで十分なんじゃないかな、と。
ということで、「あやうく一生懸命生きるところだった」ので、自分のペースで生きていこうと思います。
といっても、それでも周りの目、同調圧力はあるんですけど、なんとか切り抜けながら、切り抜ける方法を模索しながらいければ良いな、と思います。