映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

NHKスペシャル「出生前診断 そのとき夫婦は」

1週間更新を怠っていたので、話題として出遅れた感じがあるのですが、先日NHKスペシャルで「出生前診断

そのとき夫婦は」というものをやっていたので、そこで考えたことを書きたいと思います。

NHKスペシャル「出生前診断 そのとき夫婦は」

*この話題は、そもそも僕自身が「男性」なので、「産む」当事者でもないということから、産むリスクを背負っていないので、そのこと自体に批判が来るかと思います。

でも、あえて書くのは、男性であっても、「子育て」は女性だけのものではないとも思うからです。

そもそも、この番組を見て、というか、この手のテーマでいつも驚くのは、「異常」が見つかった時に、「初めて」そのことを考えた、ということです。

僕にはそれがよく分からないのです。

T(5歳)をツレが授かる前から僕は、ツレとこのことについて話していました。

実際に「異常」は見つからなかったので、それまで話し合っていたことと、実際の行動とが同じだったのかどうかは分かりませんが、「異常」の可能性はいつも考えていました。

ですが、いつもこの手のテーマの報道などを見ると、「初めて考えた」というのが多く、それが「当たり前」かのように描かれています。

僕としては、このテーマを考える時に、結論的なものを出すとしたら、結局のところ、「事前にどれだけ考えておけるか、予想しておけるか」ということなのかな、と思います。

僕の回りには縁あって、ダウン症含め、さまざまな「障害」を持った方々がいて、親しくさせてもらっているので、知識だけでなく、実際に目の前にいる「人」として、予想できたり、考えられているように思います。

ダウン症などの「異常」ということを聞いて、すぐに中絶を選んでしまう(ように僕が思う)のは、結局の所、実際にこの人達は「そういう人に出会ったことがないのではないか?」と思うのです。

本やインターネットなどで、「ダウン症」などの知識は得られても、「○○さん」というダウン症を持った人を思い浮かべることが出来ない人が多いような気がします。

あと、気になるのは、「しょうがい児」が産まれてくる場合、「その子の人生でどういうことが起きるかの全体を把握しておくのが必要」というような考え方です。

子どもを育てていて僕が思うのは、「しょうがい児・者」ではなくても、「その子の人生でどういうことが起きるのかの全体を把握する」のは「不可能」だし、そんなことをしたら、とてもじゃないけど、子どもを育てる気にはなれないんじゃないかなぁ、ということです。

悲観的な見方をすれば、もしかしたら、子ども達はこれから病気が見つかったり、事故にあって僕より先に死んじゃうかも知れないし、介助無しには日常生活を送れなくなるかも知れない。

身体や命だけのものではなく、一生償うことの出来ない罪を犯してしまうかも知れないし、僕を恨んで二度と会えなくなるかもしれない。

極端に聞こえるようなそういうものでなくても、親が予想している進路には進まないかも知れないし、就職も出来なかったり、ひきこもりになったりするかも知れない。

そんな「その子の人生でどういうことが起きるのかの全体を把握する」なんてことを真剣に考え出したら、とてもじゃないけど、子どもなんて育てられないです。

僕自身も親として色んな不完全さを抱えているし。

でも、やっぱり、そんな自分たちでも、不完全でもその中で出来る限りのことをするというか、「なんとかなるよね」っていうのが一番かなぁ、と思います。

「なんとかなるよね」って思えるためというか、実際に思えるのは、しょうがい児・者だけでなく、子育てしている(していた)先輩達が身近にいるからかな、と思います。

そういう意味でも、しょうがい児・者だけでなく、いろんな人といかに出会えるかが、必要なことなんじゃないかな、と思います。