映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

情熱があれば何をやっても許される?―ドラマ「明日、ママがいない」問題―

15日放送の日本テレビのドラマ「明日、ママがいない」が物議を醸しています。

物議を醸しているので、録画はしていませんでしたが、次回が放送されるまでネットで見られるようになっているので、そちらで見てみました→日テレいつでもどこでもキャンペーン

何が物議をかもしているのかについては以下の記事に詳しく載っています。

また、この記事では物議をかもしている詳細とともに意見も書かれていますが、僕はこの記事に同意します。

日テレのドラマ「明日、ママがいない」への抗議問題。施設の子どもに対する「想像力の欠如」と「加害性」

このドラマ、何が問題なのか、それはつまり以下の所ではないかと思います。

一般論だが、ドラマでは、娯楽性の追求のために、多少の誇張や「ありえない話」は許される。

(中略)

ただし、そうした誇張には条件がある。

「そのドラマの表現で誰かを傷つけないこと」「差別や偏見を助長しない」ということだ。」

数多く見かけましたが、「ドラマはフィクションなんだから問題が無いのではないか」というものを筆頭に、

「観る人もフィクションということはちゃんと理解してみているはず」、

「イヤなら見なきゃ良い」、

「ドラマを製作している側も熱意を持って作っているはず」

等々の意見がありました。

僕はもともと日本のテレビドラマはあまり観ないのもあるのか(去年はDVDを借りてきて『名探偵モンク』を全シリーズ見たりしました)、冒頭の子供たちが養護施設で会話するシーンはミュージカルっぽい感じもあって良かったものの、施設長が子供たちを「家畜」と言うシーンで吐き気がしました。

そんな個人的な感情よりも、僕自身がこの問題へのいろんな人の反応を見て一番問題だと感じるのは、「○○なはずだ」ということを前提にしているところです。

「観ている人もちゃんとフィクションだと理解しているはず

「制作者側も熱意を持っているはず

「最後まで見れば変わるはず

この言葉は問題ではないと考える人たちがよく使っているのですが、そんな予測でしか無い「はず」という言葉を連発していることに、異なる危機感を覚えます。

はず」という言葉で語られるのならば、何だってありになってしまうのですが、それに気づいていないのでしょうか。

また、僕自身は基本的に性善説の立場ではなく、他者への期待値が低いので、他者は善意の存在であるはずと言われてしまうと、それはあなたが思っているだけではないですか?と反論したくなります。

ドラマを多くの視聴者に見てもらう、という方法としては一定の効果があったのかも知れませんが、こういう広告の仕方をしていると逆にそもそもあまりテレビを見なくなっている人がますます見なくなんじゃないのかな、と普段テレビはあまり見ない僕は思います。