映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

ハートネットTV「増える20代の自殺」

育児とも家事とも関係のない話題ですが、今日再放送があるということで、観ていない人がみる機会になればと思い書きます。

ハートネットTV「増える20代の自殺」

本日3月4日(火)午後1時5分~(第1回 わたしたちが“死にたい”わけ)

明日3月5日(水)午後1時5分~(第2回 わたしたちが“生き抜く”ために)

「自殺」ということについて書くと(触れると)、悲しまれたり、慰められたり、説教されたり、時には怒られたりしますが、僕がここに書こうという意図は最初に書いたように、

①ハートネットTVの「増える20代の自殺」がとても良かったので同じような思いを抱いている人に観てもらいたい。

そして、

②僕自身がこの放送を観て、今まで「こんなことを思っているのは僕だけなのかもしれない」と思っていたが、放送の中に似たような人が沢山出ていて、ホッとしたので、ここに書くことでそういう人がいれば良いな、と思ったから。

この2つの理由からです。

なので、説教や慰めは求めていませんし、そういう気持ちになりそうな人は読まない方が良いかも知れません。

僕がこの番組がとても良いと思ったのは、ちょっと乱暴な表現になるかも知れませんが、「確たる理由はないけれども【死にたい】(あるいは【生きている意味が感じられない】)と思っている人たち」が沢山出ていたからです。

これは自殺対策活動をしているNPOライフリンク清水康之さんが出ていたことも大きいと思いますが、自殺は「要因が1つではないこと」「生きることに対する肯定的要因より否定的要因が大きくなった時に起きる」などが説明されていました。

このことがしっかりと説明されていたからか、「借金」や「仕事」、「病気」といった明確な理由はなく、「それでもなんとなく死にたいという気持ちが離れないという人」が出て来ていました。

自殺未遂をした人は、踏み切る際に大きな理由があって踏み切るわけですが、それでもそれだけを理由にしてはいませんでした。

もしかしたら、この点は、「自殺」ということにステレオタイプを持っている人には理解しがたい内容で、煮え切らない思いをしたかも知れません。

僕はもう20代ではなくなりましたが、番組の中で取材されている彼らの姿を見て、「同じような人が沢山いたんだ」とこの番組を観て初めて知りました。

僕自身は別に明確な(例えば放送に出ていた「親子関係」だとか)負の要因は自分では思い当たらないのですが、小さい時から「何で生きているのかわからない」「別に生きていなくても構わない」と思っていました。

小学生の時、そのことを母親の前で口にし、母親がひどく泣いてしまい、「あぁ、これは言っちゃいけないことなんだ」「こういう気持ちはいけないことなんだ」と思ったことがあります。

なので、その後特にこういうことを誰かに伝えることはしませんでしたが、積極的に生きる理由はありませんでした。

積極的に死ぬ理由が今ないので、今生きている、というのが一番僕の感覚に近いものになります。

「今、死にたいと思っている人にどんな言葉をかけられますか?」という質問が番組の中でありました。

僕はこれにうまく答えることが出来ません。

「生きていれば楽しいこともある」「幸せを感じられる」「与えられた命を精一杯生きるのは当然のことだ」「死んだら悲しむ人がいる」と言う人もいますが、僕にはそれらの言葉は単に苦痛でしかありません。

そういう言葉をかけられたこともありますが、それは「そう感じているあなたのことであって、そもそもそう感じていない僕には何の意味ももたない」し、そういう風に感じられない僕が「何か人間として欠けているのだろうか」と思ってしまうからです。

もし、今「死にたい」と思っている人にかけられる言葉があるとしたら、それは1つだけで、「生きる理由もわからないし、今まで死のうとしたこともあるけれど、とりあえず、僕は今も生きているよ」ということです。

小さい頃から「別にいつ死んでも構わない」「積極的に死ぬ理由がないから生きているだけ」と思っていた僕は20代になって大きなきっかけがあり、何度か死のうとしました。

痛いのは嫌だったので、身体を切る、飛び降りるなどはしたことがありませんが、その他の、多分すぐに想像が付くような方法でやりました。

でも、なかなか死ぬことが出来ませんでした。

その時に死にきれず、その大きな理由が僕の中で小さくなったので(色んな方法で小さくしたと言った方が正しいかも知れません)、それ以降は死のうとはしていませんが、元々あまり「積極的に生きている理由」を感じられないので、「これからは与えられた新しいいのちを生きよう」とかそんな気持ちがあるわけでもありません。

ただ「死のうとする積極的な理由がない」、それだけです。

僕が自殺未遂を何度か経験していることは家族はもちろん、親しい友人は知っていることですが、友達の1人がそのことを知った時に僕に言った言葉があります。

それは、「子供が生まれた時に、『これで簡単に死ねなくなった』と言ってたけど、それほどだったんだね」ということでした。

「生きている理由が特にない」と思っていた僕が20代前半を辛うじて生きていたのは「子供」の存在でした。

長男Tが生まれた時、「この子がある程度大きくなるまでは死ねなくなったぞ」というのが、生まれて来た時に僕の中にずっしりと重くのしかかったものでした。

それでも大きなきっかけで僕は死のうとし、その結果死にきれず、また元のように生きています。

こういう気持ちを抱いていることを「甘えている」「精神的に弱い」という人がいるかも知れません。

でも、そんな言葉をかけられたところで、この気持ちは消えることはないし、大きなきっかけがあれば、死に踏み切ってしまうでしょう。

そして、そんな言葉をかけることは、単に現実から目を背けているだけでなく、苦しんでいる人をさらに追い込む罪のある行為だと僕は思います。

グダグダとした駄文になってしまいました。

今もなお、「生きている積極的な理由」は見つけられていませんが、少なくともこういう気持ちをずっと抱いてきたまま生きてきた「僕」という人間は「とりあえず、今も生きているよ」、ということを同じような思いを抱いている人の目に留まれば良いな、と思います。

追記

大切なことを書くのを忘れていました。

「生きている理由が分からない」ということなら特に構わないのですが、「死にたい」という気持ちにとらわれてどうすることも出来ない人には、心療内科や精神科への受診をお勧めします。

病院に行って、医師から心ない言葉をかけられることも無いわけではないですが(その場合は違う病院に行けば、きっと自分にあう医師にめぐり会えるはずです)、適切な診療と適切な処方薬でその「死にたい」という気持ちにとらわれている状態からは脱することが出来ると思います。