映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

『子どもと性被害』

最近、これと言った理由はないのですが、虐待についての本を読んでいます。

もしかしたら、自分自身も虐待をしてしまうかもしれない、という恐怖がぬぐい去れないからかもしれません。

 

虐待については、その殆どの場合の【前提】が「肉体的・精神的暴力」に焦点が当てられていて、ふと僕はいつも気になる虐待があります。

それは、性虐待です。

性虐待は加害者はもちろんのこと、被害者も語るのが難しいし、周りの人が気づいても隠す場合があり、なかなか公の場面で語られることがないと感じています。

 

子育ての話で、虐待に関する話題が出て来ても、性虐待の話は一度も聞いたことがありません。

なので、性虐待の本を少し探して読んでみることにしました。

 

子どもと性被害

 

2001年に出版された本なので、もう13年も前のものなので、法律面では現在とは大きく変わっています。

しかし、この本で語られている内容は、13年経った今も尚、衝撃的な内容でした。

僕が読んで一番衝撃を受けた箇所を引用してみます。

 

「もし女の子が生まれたら、赤ん坊のうちに性器に小指かなんか、入れちゃおうか、なんて友達と話したことがあります。その子がどこの馬の骨かわからん男を恋人にしたら、『ほんとはオレの方が先にやってんだゾ』って、優越感をもつために。こんな遊び心が発展して、ほんとにやっちゃうことも、あるんじゃないですか」

 

この言葉自体が、違う性虐待に関する本(山口遼子、『セクシャル アビューズ――家庭に壊される子どもたち』、朝日文庫、1999年)という本からの引用なのですが、ものすごい衝撃を受けました。

 

なぜ衝撃を受けたのかといえば、13年(原著からは15年)経った今でも、酒を飲みながら、同じ内容を語る男性がいるだろう、という現実感があるからです。

このようなことを簡単に、笑って語る男性がいて、それをまた笑いながら受け入れるような土壌があるのではないか、と思うのです。

 

そして、また、この本の中で語られているのは、「被害者は一生残る深い傷を残すが、加害者は忘れていたり、覚えていてもあまり罪の意識はないということ」でした。

 

なぜそのようなことをしてしまうのか、ということにも注視しなければ、なりませんが、これほどまで大きな傷を残していながらも、性虐待はその多くが隠されているように思います。

性虐待そのものもそうでしょうし、本の中で出てくる【男児】が被害者になる場合は、ますます自分で声を上げにくく、上げたとしても逆にからかわれたり、奇異な目で見られてしまう、ということもあります。

 

この辺の状況は13年前(15年前)と今を比べてみても全く改善しているようには思えませんでした。

僕自身は、衛生面から子どもたちのおしりをお風呂で洗っていますが、この本で語られる被害者の声を読むと、それさえもなんだか触ってはいけないような気がしてきました。

 

『セクシャル アビューズ』の方は絶版のようですが、こちらの『子どもと性被害』の方はまだ流通しているようですし、図書館にもありそうなので、是非一読をおすすめします。