映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

自分の子どもだけ幸せなんてあり得ない

反感を覚えた人もいたかもしれませんが、昨日の続きで、川崎市での中学1年生が殺された事件(への世間の反応)で僕が感じた戸惑いについてです。

Facebookのタイムラインでこの事件について触れて投稿していたある人の意見でこんなものが流れてきました。

悪くなるのを環境のせいにしてはいけません。

逆境の中立派に生きている人たちをバカにしてます。

そもそも容疑者たちは誰も「環境のせい」なんて言っていない(少なくとも報道されていない)ので、こんなことを書くこと自体が意味のないことなのかもしれません。

でも、その上で僕は「環境」はものすごく大事だと思います。

被害者の少年だって、母親が夜に家にいられる仕事についていたら、あるいは、片親だけじゃなかったら、このグループに加わることはなかったでしょう。

川崎に引っ越すことなく、そのまま以前のところで暮らしていたら、そもそも加害者たちとは一生顔を合わせることもなかったでしょう。

環境が違えばその後の人生が変わるのは、当然のことです。

苦境の中で立ち上がれというのではなく、苦境をなくせるようにしたい

困難な情況・環境にあって、何か悪い方向に進んでしまった人たちに対して、「困難な環境にいた人でも立派になった人はいる。」という言葉をかけるのは簡単です。

責任は、その人の置かれた環境や情況ではなく、その人本人にあるのだ、と。

悪い方向に向かわないように努力しなかったお前が悪い、と。

シンプルに言えば「自己責任」ということです。

でも、「困難な環境にいた人でも立派になった人はいる。」というのは、逆に言えば、困難な環境ではくじけてしまうこともある、ということも表しているように思います。

むしろ、例外を持ち出していることから、困難な環境ではくじけてしまうことも多い、ということを含めていように思います。

大人としてしなければならないこと

大人として何が出来るのだろうか、何をしなければならないのだろうか、と考えた時、しなければならないことは、「お前は悪い方向に向かわないようにする努力が足りなかった。そして、人を殺すという罪を犯した。死んでしまえ。」ということでしょうか。

そうやって、個人の問題にしている限り、このような悲しい事件はいつまでも続いていくように思います。

「人を殺すような人間は近くにいては迷惑だ。」と遠ざけているだけではいつまでも問題は解決されません。

個人の問題にしている人たちは、「悪い人たち」を排除したり、自分たちだけの「安全な」隔離されたコミュニティーを形成するのかもしれません。

でも、自分たちだけ、あるいは自分の子どもだけが安全で、幸せな世界なんてあり得ません。

何故悪い方向に進んでしまうのか、悪い方向に進んでしまいがちなのか、それを考え改善していかなければ、問題は解決しないばかりか、排除し、隔離するような方向に進んでいくでしょう。

そして、排除された人たちはさらに悪い方向に進み、自分たちだけ安全だと考える人たちは、外の世界を見て「危険だ」と言い、更に自分たちだけの安全な環境を築こうとする。

大人として出来ること、しなければならないのは、「自分たちだけ」の環境を良くすることではなく、どんな人たちであっても良い環境にいられるようにすること、なのではないかと思います。

悪い方向に進んでしまいがちな環境があるのならば(たとえば貧困)、それを改善することによって、悪い方向に1人でも進まないようにすることではないでしょうか。

自分だけ、あるいは自分の家族だけが幸せで安全な世界などあり得ません。

この世界、社会で暮らしている限り、いろんな人と関わります。

もしかしたら、直接の知り合いではなくても、出かけて先で突然無差別事件に巻き込まれることもあり得ます。

そういうリスクをいかに減らすか、という時、自分だけの幸せ、自分の家族だけの幸せを考えて、自分たちだけの環境を良くするのではなく、他の人たちの環境を良くすることを考えて行動することが大切なのではないか、と思います。