映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

ブログしばらくお休みします。

ブログの更新をいつまでかは自分でも分かりませんが、しばらくお休みします。

理由としては、先日書いた、「知人が差別ツイートで炎上して考えたこと、のつづき」という記事の中で、Fact(事実)とEvidence(根拠)の重要性を述べている中で、根拠が曖昧であり、諸説あるものを「父親」ということを強調するために書いてしまったからです。

その文章(「論理的思考が女性よりも長けているとされる男性(父親)」)に対して、「これこそFactとEvidenceに基づいていないのではないか?」、もっと厳しい意見だと「女性差別だ」という指摘もいただきました。

僕自身が専門的に学んでいることでもありませんし、急いで沢山の文献にあたることも出来ないので、限られた情報ではありますが、調べてみたところ、「諸説ある」というのが現状のようです。

「諸説ある」ことをFactとEvedenceの重要性を語る中で軽率にも書いてしまったことは明らかな間違いであったと反省しています。

ブログの更新を休むということにしたのは、そもそも最初に指摘された文章を書いた時点で自分自身も「微妙だな」と思いながら書いたということがあります。

最初から全く無自覚なことでしたら、また違ったと思うのですが、そもそも自分自身でも「微妙だな」と思うことをそのまま書き込み、指摘されたことで、個人ブログとはいえ何かを書き込み公開するということが、より難しいと感じるようになりました。

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一応、指摘された文章がある記事での僕の意図を書いておきたいと思います。

僕は、かつてのある団体が行っていたような、差別発言を行ったりした人への「糾弾」をするつもりは一切ありません。

誰かの発言を見て「それは差別発言だ」と指摘することは、良くて形式的な「反省」と「謝罪」があるだけで、それ以上の発展はほとんどないからです。

だからこそ、「差別発言」を行った人を排除するだけでは全く意味がないのではないか、と思うのです。

誤解を恐れずに書くと、「差別だ」と指摘することは、「私は傷ついた。」と一方的に突きつけることでもあり、それが本当に「差別」なのかどうかの検証が行われる前に(「差別」だという主張に正当性があるのかの前に)、相手に「謝罪」を求めるものでもあると思います。

だからこそ、「差別だ」と指摘することには慎重であるべきだと思いますし、指摘された人を指摘されたからといってすぐに排除することも、その「差別」だと指摘されたこと、指摘したことからむしろ目を逸らす行為なのではないか(思考停止してしまうのではないか)、と思います。

では、差別だと指摘するのでもなく、差別発言をした人を排除して終わるのではなく、どうしたら、一緒に学んで行けるのか。

それを考えたいと思いあの記事を書きました。