映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

息子3人を東大に入れた母について思うこと

ちょっと(大分?)、話題になっていたタイミングから遅れましたが、今月初め、息子3人を東大に入れた母が話題になっていました。

元々はこの記事が発端でした↓

息子3人を東大に入れた佐藤ママ「受験に恋愛は無駄です」

この母親(佐藤さん)、以前からそれなりに知られている人物で、ツレは知っていましたし、僕もこういう母親がいるということは聞いていました。

が、何分僕は息子たちを東大に「入れた」ということに対して全く興味がないので、無関心でした。

で、今回改めて炎上していた記事を読んでみました。

佐藤さんの主張は著書のタイトルの通りだと思います。

受験は母親が9割 灘→東大理IIIに3兄弟が合格! (朝日新聞出版)

「受験は母親(の役割)が9割」と。

だから、恋愛を禁止するし、願書も「時間の無駄」と言って母親である自分が書くと。

ここで多くの人が気になったのは、

・恋愛禁止について

・東大入学という目標は子ども自身ではなく、母親のもの

という点のようです。

この2つは僕も気になりましたが、もう他の人がいろんなことを書いているので、他に新しいことは特にありません。

強いて言うならば、東浩紀さんがツイートしていたように、受験自体無駄のような気がします。

母親のプレッシャーを隠す母親と環境の差を考慮しない主張

では、僕が気になったのは何かというと、

・母親自身が感じているはずの「母親としての存在価値」

・学力差には環境の差が一番大きいということ

この2つを隠しているように見えることです。

佐藤さんの夫は東大出身の弁護士です。

佐藤さん自身は津田塾大出身。

どんな家柄なのかは、詳しく分かりませんが(ネットでは晒されているようですが、あえてそこまでは調べませんでした)、佐藤さん自身が息子たちを育てる上で「東大」ということをプレッシャーに感じていたのではと。

「東大出身の子ども(しかも息子というのがより重要)」を育てるということが、母親としての存在価値になっていたのではと思います。

だからこそ、僕も思いましたが、他の人が批判するように、まさに東大に「入れた」ということなのでしょう。

息子たちが東大に「入った」のではなく、息子たちを東大に「入れた」でないと、母親としての存在価値がなくなってしまうからです。

幸いなことに、僕の周りには「学歴」で判断するような人がいなかったので、僕自身も「学歴」を気にすることはありませんが、世の中にはまだまだ「東大」というブランドや「学歴」が重要な判断材料になると思っている人がいるんだな、というのを改めて感じました。

(ちなみに、僕が学歴に無関心でいられるのは、祖父、両親と同じ大学を出たからであり、ツレの方を見ても、それこそ東大出身の医者や弁護士、国立大、私大などいろいろいつつも、決して出身大学がその人の評価につながっていないからです。)

「母親の存在価値を子どもに託す」ということは、今までもよくある話ですし、今後この息子たちと娘さんがどういう大人になるのか経過を知りたいな、と思うくらいですが(子どもたちが「毒親だった!」とか言い始めたら面白いな、と)、もっと気になるのは、「学力と環境の関係をまるで無視していること」です。

佐藤さんは「母親が子どもたちが勉強に集中できるような環境を作ることが大切」ということを主張するのですが、その「子どもたちが勉強に集中できるような環境」を誰もが作れる社会ではもはやなくなっているということがまるで見えないかのように見えます。

佐藤さんが述べる「子どもたちが勉強に集中できるような環境」というのは、佐藤さんのように「夫が東大出の弁護士」だからこそできることということにまるで無自覚です。

弁護士である程度の収入があるからこそ、専業主婦でいられ、そして自分自身も私大を出て、英語教師をしていたというキャリアがあるからこそ、子どもたちに提供できた「環境」なのです。

それを無視して、「受験は母親が9割」とか言われても、それは、佐藤さんのような生活をしている(できる)人たちはそうかもしれないけれど、そんなことを他の人に求めても(プレッシャーをかけても)、つぶれる人が出るだけのような気がします。

なにより、同じ私立の学校にいても、家庭環境の差で学力に大きな差が出ているのを日々目の当たりにしている身としては、子どもたちの置かれている環境を無視するのは、結局「学歴」でしかその人のことを判断出来ていないことを明示しているようにも思います。

それに何と言っても気になるのは、「残りの1割は?」ということが気になりつつ、その1割は決して父親ではないんだろうな、と何となく想像出来てしまうところに、幻滅してしまいます。