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選択的夫婦別姓への反論への反論

先日書きましたが夫婦別姓に関して取材されていた内容がネットニュースに載りました。 

 

withnews.jp

 

Yahoo!にも転載され、多くの人に読まれたようで、Facebookに記事が出たことを書いたら、先にYahoo!で読んで、僕のことなのではないかと思った、という友人が何人かいました。

 

「夫婦別姓」選べず離婚…司法が掲げる「家族の一体感」って? 姓を戻す決断、理解してくれなかった妻(withnews) - Yahoo!ニュース

 

記事を書いてくれた記者さんも気にしていたのですが、Yahoo!のコメントはかなり荒れているようです。

僕はYahoo!のコメント欄は偏り、ヘイトに溢れ、荒れることがわかりきっているので見ていませんが、Twitterなどでは少し反応を見てみました。

 

今までで一番詳しく、そして僕自身の気持ちに寄り添ってもらった記事だと僕自身は感じていますが、それでも記事は、僕の身に起きた出来事の一面を切り取ったものです。

なので、当然「僕のことを何も知らないのに」という気持ちもあるのですが、何も知らず、現実に関係することがない人に僕のことを説明しても仕方がないので、記事についての反論に僕から反論をしておきたいと思います。

 

ちなみに選択的夫婦別姓については、今、国を提訴しているサイボウズの青野社長の記事もありますので、青野さんの記事には載っていないものについて書いてみたいと思います。

 

note.mu

 

 

①「民法が近いうちに変わる」と期待したことが甘い

 

記事の中でも少し触れられていますが、国連の女性差別撤廃委員会では、1998年に夫婦同姓など「民法に存在する差別的な法規定の撤廃を要請」しています。

(参照:女子差別撤廃条約第4回及び第5回報告書に対する委員会最終コメント(経緯及び主な指摘事項)

 

1998年というのは、僕が14歳の時で、中学生の時から国連から勧告されていることになります。

この勧告がなぜ出されることになったのか、というと、1985年に女子差別撤廃条約を日本が批准しているからです。

条約の内容に沿った行動を批准している各国が行っているかを判断し、勧告を行っています。

 

勧告については記事で触れられていましたが、条約については触れられていなかったので、姓に関する条文を書いておきます。

 

第十六条
  1  締約国は、婚姻及び家族関係に係るすべての事項について女子に対する差別を撤廃するためのすべての適当な措置をとるものとし、特に、男女の平等を基礎として次のことを確保する。

(a)  婚姻をする同一の権利

(g)  夫及び妻の同一の個人的権利(姓及び職業を選択する権利を含む。)

 

ちなみにこの条約や条文については、外務省のホームページから確認できます。

女子差別撤廃条約 | 外務省

第十六条は(a)から(h)まであるのですが、上に書いたのはその中で姓に関わるものです。

 

そもそも日本が国として守るということを国際的に約束している条約の中に「姓及び職業を選択する権利」があると書かれていて、それを30年以上日本は守っていないのです。

 

僕の期待が甘いとかそういう話ではなく、国際的に日本という国が約束していることを日本が30年以上も守らないでいるということがおかしいのであって、これは僕の読みとか期待とかの話ではありません。

日本という国が国際的に交わした約束を守るのか、守らないのか、という問題です。

 

そして、日本という国が守ると国際的に約束していることが早期に実現する、と考えることはおかしいことなのでしょうか。 

 

 

②「結婚前にちゃんと話し合うべきだった」

 

名前が変わるということは人生でそうあることではない(多くの人は一生経験しない)

ので、当然話し合いました。

話し合い、民法が変わればすぐに旧姓に戻すことも約束し、僕が改姓することを求めた義母にも社会生活を旧姓で過ごすことを了承してもらい、改正することに反対していた僕の両親や親戚も説得しました。

 

ですが、この結婚によって「姓」が変わる、という出来事は、現状、どちらか一方に改姓を強制するため、「変えた当事者と変わらなかった非当事者」という、まったく違う立場に置かれます。

 

姓を変えた当事者はいつまでも当事者でいて、名前が変わった違和感や負担を負い続けるものの、変えなかった非当事者はそのような負担を負うことは一切ありません。

 

したがって、どうしても、「当事者と非当事者」という溝が出来てしまうのです。

 

そもそも結婚時に、同姓をどちらか(あるいは両者)が求めているのなら、溝は生まれませんが、同姓をどちらか(あるいは両者)が求めていないのならば、溝は埋まれてしまうのです。

 

それが、記事の中にもあった、元妻からの「私が(姓を)変えてもよかった」という発言なのです。

元々、元妻は夫婦別姓制度の導入に賛成していました。

民法が変われば僕が旧姓に戻すことも、社会生活を旧姓で過ごすことも了承していました。

 

けれども、民法が変わらず、ペーパー離婚する、ということは僕も元妻も予想していなかったので、両者の当事者性による溝が明確になり、それがどんどん深まって行ったのです。

 

これは、結婚前から話し合っていれば回避できたことなのでしょうか?

むしろ、自分としては12年間も耐えたとさえ思っているのですが、それはおかしいのでしょうか。

 

 

③多くの女性が経験してきたことで、男性だからと注目されるのはおかしい。

 

今回withnewsに掲載されましたが、今までも夫婦別姓についてはいくつか記事が出ています。

その中で、男性当事者としての記事は僕のものが初めてです。

 

「別姓」の検索結果 - withnews(ウィズニュース)

 

男性だから、夫婦別姓について取り上げられたのではなく、今まで夫婦別姓について取り上げてきて、「女性だけの問題」だとされてきたので、男性もいるということで取り上げられました。

 

また、「男性」だからという点だけで、当時者を批判するというのは、苦しかったり、悩んでいたり、辛い思いをしているすべての人を批判することになる、と思います。

 

例えば、#metooで言えば、セクハラや性被害に遭い、声を上げて良いのは女性だけ、あるいは、「今」経験している人だけだと限定し、過去に経験してきた人たちや、男性を排除してしまうことに、どんな意味があるのでしょうか。

 

苦しい、悩んでいる、辛い、という経験、そしてその構造的な原因が同じならば、その原因をなくすようにするのが必要で、当事者を性別や今経験しているかどうかで区切り、批判を行っても、その原因が解決されることはなく、むしろ解決が遠のくだけです。

 

僕に対して「多くの女性が経験してきたことで、男性だからと注目されるのはおかしい。」と批判したところで、その「多くの女性」が大変な思いや経験をしているという現実は全く変わりません。

ただ、僕自身のことについてかなり詳しく書かれているので、僕が個人攻撃をされているように感じてしまうというだけです。

むしろ、男性だから、と批判されるのであれば、一緒にどうにか解決しよう、という気持ちがそがれるだけです。

 

なので、もし、選択的夫婦別姓自体には賛成だけれども、男性だからと今回の記事を批判するのであれば、この記事を批判するのではなく、「多くの女性が経験してきたこと」をも解決するために、国や制度を批判するのが先ではないでしょうか。