映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「ウィッチ」

今回の作品も、昨日紹介したスプリット」同様購読しているメールマガジン

津田大介の『メディアの現場』)で紹介されていた映画です。

この作品もAmazonプライムの対象になっていたので、観てみました。

 

ウィッチ(字幕版)

 

映画『ウィッチ』 オフィシャルサイト

 

作品データ映画.comより)
原題 The Witch
製作年 2015年
製作国 アメリ
配給 インターフィルム
上映時間 93分
映倫区分 G

 

物語(オフィシャルサイトより)

1630年、ニューイングランド。街を追い出された父ウィリアム(ラルフ・アイネソン)と母キャサリン(ケイト・ディッキー)は、5人の子供たちと共に森の近くの荒れ地にやって来た。しかし、赤子のサムが何者かに連れ去られ、行方不明に。連れ去ったのは森の魔女か、それとも狼か。悲しみに沈む家族だったが、父ウィリアムは、美しく成長した愛娘トマシン(アニヤ・テイラー=ジョイ)が魔女ではないかと疑いはじめる。疑心暗鬼となった家族は、やがて狂気の淵に陥っていく・・・。

 

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)

★★★☆☆

 

感想

不思議なホラー映画でした。

 

17世紀のアメリカに渡った清教徒を前提としているので、キリスト教の世界観がわからなかったり、魔女狩りの歴史がわからないと、映画の世界観もわかりづらいのではないか、と思います。

その点が、(キリスト教系の)欧米と日本での反応の違いかな、と思います。

 

けれども、キリスト教のことや、魔女狩りが行われていた歴史や実態を知らなくても、自然に対する畏怖という感覚という点で見てみると、キリスト教に限るものではないようにも思います。

 

でも、この自然に対する畏怖という点で考えてみても、この映画で描かれる、イングランドアメリカに渡ったキリスト教徒たちと、日本で培われている感覚とは違うように思います。

 

これは街の作り方というものを考えてみるとわかるのですが、ヨーロッパでは、街と街の外を明確に分けます(例えば城壁)。

けれど、日本では、もちろん、権力主導で作られた街は街と外を明確に分ける場合もありますが、多くの場合、道の合間に宿場があり、その宿場や港などの交通の要衝に人々が多く住むようになり、街と街の外とが必ずしも明確ではありません。

 

つまり、日本とこの映画での「未開の地」に対する感覚は違うものだと思うのです。

自分たちの街の中は安全だけれども、外には悪魔が潜んでいるかも知れない、という感覚が強く示されていますが、日本の場合は、自分たちの暮らしている街との境界線が曖昧なため、一歩街から出れば悪魔が住んでいるという感覚ではないように思います。

 

曖昧であるからこそ、逆に日本では、山の上に神社を築いたりと聖域を明確に定める必要があったのではないか、と思います。

 

映画の内容から離れてしまったかも知れませんが、この「自然への感覚」が自分が育ってきたこの日本という文化とは明確に違うので、1つの文化、考え方を知る、と言う意味では興味深い映画でした。

 

1つ気になったのは、家族7人の内、6人が死ぬことになるのですが、一番最初に殺されたと思われるサムの「罪」がわからなかったことです。

父ウィリアムが語るように「原罪」だとすれば理解も出来るのですが、そうすると、ではなぜトマシンは死ななかったのかわかりませんでした。

そもそも、罪とは関係がないと言うことなのかも知れませんが。