映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

Yahoo!に載って気づいたこと

10日前くらいにwithnewsで公開された夫婦別姓に関しての記事ですが、そのすぐあとにサイボウズの青野社長らが原告の選択的夫婦別姓を求める訴訟の口頭弁論があったり(「選択的夫婦別姓を実質的に実現することは許されない」 夫婦別姓訴訟、国が反論 - 弁護士ドットコム)、成人年齢や結婚が出来る年齢に関しての民法が改正される(18歳成人案:成立、民法改正 女性の結婚18歳以上 22年4月施行 - 毎日新聞)という出来事がありました。

 

Yahoo!に転載されたり、訴訟や民法が改正されるという出来事が続けてあったので、公開日以降も読まれていたようです。

 

Yahoo!はコメントが荒れるというか、ヘイトであふれているのと、投稿している人が偏っているのがわかっているので(参照:ネット世論の構造と社会的背景 : IISEの広場 | 国際社会経済研究所)相変わらず見ていませんが、Twitterなどでの反応はいくつか見ました。

 

数日経って、僕自身も冷静になってみてみると、好意的なコメントもかなりありました。

しかし、やはりネガティブなコメントもあり、最初はそれらを見てすごく精神的にショックを受けていたのですが、それらのネガティブなコメントを眺めていたら、ある一定の傾向があることに気づきました。

 

①推測なのに断定する。

たとえば、このツイート。

 

 

前半の「男自身は「相手の親からそう条件を出された」だけで夫婦別姓を望んでたワケじゃなさげで」という部分はこの人の推測で、後半の「名前で都合悪いからって妻に離婚を強要」だとか、「馬鹿すぎ」というのは断定しています。

 

そもそも前提が推測なら、結論も推測になるはずなのですが、なぜか前提が推測なのに結論は断定されています。

強い口調で断言したり、断定したりすると説得力があるように周りの人が感じる傾向にある、ということは国会でのやりとりやネット上でもよく見るのですが、冷静に考えると、なぜ前提が推測なのに、断定することが出来るのか不思議です。

 

 

②アカウントが匿名、捨てアカ、ヘイト傾向

このアカウントなどが典型的なものなのですが、夫婦別姓に対して、①に書いたような非論理的に反対をしているのは、匿名アカウント、捨てアカウント、そして、特定の国へのヘイト傾向があるように感じました。

 

twitter.com

 

選択的夫婦別姓を実現させたい、という人たちの中には顔や実名を出して、意見を発信している人たちがいるものの、反対していたり、夫婦別姓に対してネガティブなコメントをしている人たちには、僕が見た限りでは、顔や名前を出している人はいませんでした。

 

非論理的なコメントや、実名や顔を出せない、というところを見ると、こちらとしては(withnewsでは名前は出ませんでしたが僕の身近な人は気づくくらいのプライバシーをさらしていますし)他のところで取り上げられたときは顔も名前も出しているので、反対するのなら、そもそも論理的に反対して欲しいと言うこととともに、名前や顔を出してもらわないと、まともに向き合う必要はないのかな、と思いました。

 

 

何にせよ、僕はこの意見と同じです。

 

 

 僕にとっては夫婦別姓が一番身近な問題ですが、これは、同性婚や黒髪強制などのさまざまな問題にも共通するものだと思っています。

なぜ、それを望んでいる人がいるのに、当事者でもない人が「認めるべきか」(多くの場合「認めてやる」という上に立っているかのような態度)を決めるのか。

当事者ではない人がもし反対するのならば、認めるかどうか、ではなく、なぜ禁止されているのか、禁止されるべき正当な理由があるかどうかを考える必要があるのではないかと思います。

そもそも「認めるべきか」を話し合う時点で、誰かの「選択する自由」を奪っているということを自覚して欲しいと思います。