映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「未来のミライ」

 元配偶者の気まぐれなのか、はたまた子どもたちが夏休みに入って手に余ったのか、突然面会可能な日程の連絡があり、子どもたちとの2回目の面会が実現しました。
 元配偶者とのやりとりだと相変わらず話がかみ合わなかったのですが、とりあえず子どもたちは映画を観たい、とのことで、一緒に観てきました。
(ちなみに長男はポケモンの映画を観たばかりだから「別に良い」とのことだったのですが、一人で家で留守番してたっぽいです。
これはこれで問題(ネグレクトになる?)なので、どうしたものか…)

 ということで、子どもたちが希望した映画「未来のミライ」をTOHOシネマズ日本橋で観てきました 。
 観に行ったのは7月24日です。

 

youtu.be

 

「未来のミライ」公式サイト


作品データ映画.comより)
監督 細田守
製作年 2018年
製作国 日本
配給 東宝
上映時間 98分
映倫区分 G

 

ストーリー(公式サイトより)
とある都会の片隅の、小さな庭に小さな木の生えた小さな家。
ある日、甘えん坊の“くんちゃん”に、生まれたばかりの妹がやってきます。
両親の愛情を奪われ、初めての経験の連続に戸惑うばかり。
そんな時、“くんちゃん”はその庭で自分のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ、
不思議な少女“ミライちゃん”と出会います。
“ミライちゃん”に導かれ、時をこえた家族の物語へと旅立つ“くんちゃん”。
それは、小さなお兄ちゃんの大きな冒険の始まりでした。
待ち受ける見たこともない世界。
むかし王子だったと名乗る謎の男。
幼い頃の母との不思議な体験。
父の面影を宿す青年との出会い。
そして、初めて知る「家族の愛」の形。
さまざまな冒険を経て、ささやかな成長を遂げていく“くんちゃん”。
果たして、“くんちゃん”が最後にたどり着いた場所とは? 
“ミライちゃん”がやってきた本当の理由とは―

 

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★☆☆☆

 

感想

*批判的な内容が多くなるので、もし、これから観たいと思っている人は以下の内容には注意してください。

 監督の細田守さんの作品は割と好きで、「サマーウォーズ」が特に良かったので、それ以来、「おおかみこどもの雨と雪」、「バケモノの子」と子どもたちとも一緒に観てきました。
 今回も、子どもたちのリクエストでもあるし、今までも楽しめてきたので、今回も楽しめるかな、と思って観に行ったのですが、子どもたちのリクエストだったこともあり、子どもたちの手前では批判的な感想は言いませんでしたが、鑑賞後時間が経つとともに自分の中にざらざらとした感覚の正体が明確になってきました。

 そのざらざらとした感覚の正体について1つずつ書いていこうと思います。

1、「理想的な家族像」の押しつけ

 主人公は4歳とか5歳くらいに見える男の子の「くんちゃん」。
 そこに妹「みらいちゃん」が生まれ、最初は優しくしたいと思ったけれど、お父さんもお母さんもみんながみらいちゃんにつきっきりになるので、くんちゃんは嫌気がさして物語が展開されていく、というものなのですが、そもそも、このお父さんとお母さんがいて、二人の子どもがいて、そして横浜近辺だと思われる場所におしゃれな戸建(お父さんは建築士)を持つことが出来る、という設定自体が、「理想的な家族像」を提示しているように思いました。

 この「理想的な家族像」に関して言えば、暮らしている地域や、経済的な情況、子どもの人数など、目に見えるものもそうなのですが、この物語を成立させている「きょうだいは仲が良いもの」、という前提が「理想的な家族像」を押しつけてきているようで、とても苦しく感じました。

 夫婦ならば、そもそも他人同士ですし、仲が良い、ということを描くのは良いと思いますし、仲が悪くなれば離れれば良いと思うのですが、親子やきょうだいというのは誰も選ぶことが出来ないので、親と子、あるいはきょうだい同士が「仲が良いもの」という前提で語られると、それに当てはまらない生き方をしてきた人にとってはとても苦しく感じるのではないかと思います。
 というか、僕は苦しく感じました。

 親と絶縁している子どもや、きょうだいと絶縁していたり、そこまでではなくても、積極的に連絡を取ろうとはしない情況にあるなど、そういう情況にあると、「これが家族の形でしょ?」とか「兄は妹に優しくするものでしょ?」「お母さんは優しものでしょ?」などと提示され続けると、とても苦しく感じるのです。
 しかも、そういう情況にある人は、その家族を選ぶことが出来なかったにも関わらず、これまでもそういう社会の中にある「理想的な家族像」があるが故に、それに当てはまらない自分を責めてきた経験があるのです。
 家族というのは仲が良いもの、という価値観を提示されてしまうと、そうじゃない情況にいる人たちは、家族は仲が良いことが理想ということを分かっていて苦しんでいる(苦しんできた)にも関わらず、その苦しみが益々深いものになるように思います。

 

2、子どもの気持ちをことごとく無視する親たち

 妹のみらいちゃんが生まれてきたくんちゃんは、今まで自分だけを見てきてくれたお父さんもお母さんも、みらいちゃんばかりに目や関心を注ぐようになり、みんなからの愛情を感じられなくなってしまいます。
 そこで、くんちゃんは、みんなからの愛情を奪ったみらいちゃんが憎くなり、叩いたり意地悪をしようとしたり、それらを実際にしてしまうのですが、それらの場面でことごとく、くんちゃんの気持ちに気付かず、あるいは気付いていたとしても寄り添わない親たちの姿が描かれています。

 とても印象的だったのは、最後の方にある場面で、くんちゃんがお気に入りの黄色いズボンを穿きたい、と言い出すシーンです。
 でも、お母さんは「洗濯したばかりで乾燥機に入っていてまだ濡れているからダメ」、と言います。
 その後、どうなるのかというと、乾燥が終わった乾燥機の中からくんちゃんが黄色いズボンを出して1度穿こうとするのですが、結局やめて、穿いていたズボンのまま出かける、という場面になっていました。

 これは、あたかもくんちゃんが「成長した」かのように描かれていますが、くんちゃんの気持ちを誰も寄り添わずに、くんちゃんの気持ちを「抑圧した」場面だと僕は感じました。
 くんちゃんがお気に入りの黄色いズボンを穿きたいと願っているのなら(しかもみんなで楽しみなお出かけの場面)、それがどうやったら可能になるのか、というその気持ちに寄り添い、くんちゃんの願いが可能になるか考えるのが親や保護者、あるいは周りにいる大人には必要だと思うのです。

 親や大人たちから見れば、妹のみらいちゃんが来て、わがままばかり言うようになって「困った子」になったくんちゃんがわがままを我慢して「成長した」と映るのかも知れませんが、それは単に大人側の都合による「抑圧」です。
 くんちゃんが自分のしたいこと、やりたいこと、愛情を受けたいという気持ちを大人の都合によって表現することを諦めただけです。
 4歳や5歳の子がそれを親による抑圧だと分かることもなく、その、くんちゃんの気持ちに気付かない親たちにくんちゃんがどうにか順応しようとした結果と見ると、とても悲しく映るシーンでした。

 ちなみに、僕が同じ情況になったとしたらどうしたかと言えば、多少濡れていても黄色いズボンを穿かせたと思います。
 別に濡れたズボンを穿いて不快な気持ちになるとしたら、それを望んだのはくんちゃんですし、それを「不快」だと感じて、もうイヤだとなるとしても、くんちゃんだからです。

 

3、家族(親)と離れた子どもは不幸だという強いメッセージ

 くんちゃんが迷子になるシーンが描かれています。
 その中で、くんちゃんがお父さん、お母さんの名前を言えず、「家族のいない子どもたちが送られる電車」に乗せられそうになるシーンがありました。
 その電車は駅の地下深くにあり、おどろおどろしい外見で、座席は骸骨になっていました。

 このシーンは「家族(親)と離れた子どもたちが不幸になる」というメッセージだと受け取りました。
 現実に、家族と一緒に暮らせず施設や里親のもとで暮らす子どもたちがいて、僕と僕の子どもたちのように離婚し、片親とは一緒に暮らせず離れている親子もいる。
 それらの情況にある子どもがあたかも「恐ろしいところにいる(連れて行かれる)」というシーンは胸が締め付けられるような思いでした。

 これでは、家族(特に血縁関係のある)と離れて暮らす子どもは不幸である、親と暮らせない子どもは不幸になるしかない、というようなメッセージを伝えているとしか思えません。

 子どもたちにとっては、親を選ぶことが出来ないことと同じように、親と一緒に暮らせるか暮らせないかは選ぶことは出来ません。
 親と離れることで幸せになる子どももいることでしょう。
 しかし、親と離れると不幸になる、というような一方的なメッセージだけを伝えるのは、ステレオタイプだけでなく、害悪でしかないと僕は思います。

 

その他

 これはこの作品に限った話ではないのですが、声を演じているのが、声優ではなく、俳優だったので、それがすごく違和感がありました。
 星野源麻生久美子上白石萌歌黒木華と話題(というか人気)の俳優たちを使えば、そのファンが見に来てくれると思うのか知りませんが、違和感しかありませんでした。
 TVアニメは、みんなちゃんとそれらの声をプロである声優が演じているにも関わらず、映画になるとなぜか知名度だけある声の素人を使う意味が分かりません。

 考えれば考えるほどネガティブな意見しか出てきませんでしたが、良かった点としては、今の自分がいるのはいろんな人の「ちょっとした出来事」によって左右されている、というメッセージです。
 この点を単に血縁だけにせずに、「サマーウォーズ」のように、いろんなひとを巻き込む展開にしていれば、全く違う印象になっていたように思います。