映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「50/50 フィフティ・フィフティ」

先日、同僚の祖母が亡くなりました。
高齢でなくても暑さに体力が追いつかなかったり、冷たいものを取り過ぎたりで、夏場はどうしても体力が落ちますし、90歳を超えていたことを考えれば大往生と言うことなのかも知れません。
けれど、やはり、何年生きていようが、それはやはり1人の「死」であって、長いとか短いとか、そういうものでは計ることが出来ないんだよな、と改めて思いました。

そんなときにAmazonでおすすめされ、評価も高かったので、観てみた映画です。
いつものように何の前知識もなく観たのですが、タイトルの「50/50 フィフティ・フィフティ」とは生存率のことでした。

50/50 フィフティ・フィフティ(字幕版)

 

www.youtube.com

 

50/50 フィフティ・フィフティ | アスミック・エース

作品データ
(映画.comより)
監督ジョナサン・レビン
原題 50/50
製作年 2011年
製作国 アメリ
配給 アスミック・エース
上映時間 100分
映倫区分 PG12

ストーリー(公式サイトより)
いきなり余命わずか決定!? なんで僕が??
酒もたばこもやらない“普通”の青年アダムに突然告げられた病気は“ガン”だった。
27歳という若さで、5年生存率50%のまさかの余命宣告。その日から、アダムの生活環境は一変。
よそよそしい会社の同僚たち、看病の重圧に負けそうな恋人、同居を迫る世話焼きの母親…。
病気のアダムに気遣って誰も今までどおりに接してくれない!ただ一人、女好きの親友カイルをのぞいては。
カイルと一緒に病気を“ネタ”にナンパしたり、新米セラピストのキャサリンと手探りのカウンセリングを通して、“ガン”の日々を笑い飛ばそうとするアダム。
しかし刻一刻と進行する病魔に、やがてアダムは平穏を装うことができなくなる……。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
27歳でがんになった青年アダムと友人カイル、そしてアダムの家族の物語です。

27歳でがんになる、生存率50%と告げられる心境や、闘病の痛み・苦しみは想像することさえ難しいですが、死に至る病(もしくは死を予感させる病)になったときの、患者のつらさ、そしてそれを支える人たちのつらさという大枠で観ると、多くの人が一生に1度は経験する出来事なのではないかと思います。

もし、この物語で異なる点があるとしたら、27歳という年齢になるかも知れませんが、やはり「死」というものは年齢によらずに当事者にとっても、それを支える人たちにとっても大きなつらさや痛みを伴うもので、27歳だからもっと年齢の高い人たちよりつらい、痛いということにもならないような気がします。

僕自身、死を予感させる病気「うつ」にかかっていて、しかも、アダムと同じような26歳の時に初めてうつと診断されました。
それから何度も自死を試るなど死を強く認識する出来事があり、家族にも支えられてもらってきました。

その僕自身の体験から、アダムががんだと通告されて、気丈に振る舞っているものの疲れ果ててしまう様子、何もかも絶望的な気持ちになってしまう様子、そして、そんな彼に身近で看病していたパートナーがその現実から目をそらそうとしていく様子、母親が支えようとするけれど、それをさせてはいけないと思う息子の様子、そのどれもがとてもリアルな出来事だと感じました。

さらに良かった点は、セラピスト(「ピッチ・パーフェクト」のアナ・ケンドリック)のセラピーを受けてもアダムはあまり癒やされたり落ち着いたりしていないところです。
まだ経験未熟で自分よりも若いセラピストということもありますし、セラピーを重ねてもアダムは本心を伝えているようには思えない。
これは、セラピーとして成功しているとはとても思えません。
でも、そんなに簡単に受け入れることが出来ないということもまたリアルなように感じました。

そんな中でも、もし僕もこんな経験をしたらこういう人間になりたい、と思ったのが、友人のカイルです。
「女とヤる」ことばかり話し、アダムと一緒にそれをしていくのですが、アダムが絶望的な情況だからこそバカなことをし続けているし、同棲していた恋人のことは、アダムの病気が分かる前から「そんな女ダメだ」と言うなど、客観的にアダムのことも見えている。
客観的に見えているからこそ、アダムがひどいことを言っても決して見放さない。

最初から最後までカイルはセックスのことしか考えていない、とバカにする人もいるかも知れませんが、最後にアダムが頼った人物や家族よりもカイルこそがアダムを一番支えている人物だと思います。
家族ではないし、恋人ではないからこそ、一番重要な場面では支えることが出来ないけれど、それを理解し受け入れている。
もし、自分が誰かを支える番になったら、こういう人物になりたいと思いました。