映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

穂村弘『本当は違うんだ日記』

*この文章はさくらももこさんの死去の報道前に書き、その後少し修正しました。

 さくらももこのエッセイから僕の読書体験は始まった。

 よく作家のインタビューなどで、小さな時にどんな本が好きだったか、どんな本を読んでいたのかが語られているけれど、僕は漫画しか読まなかった。
 だから、小さな時にどんな本が好きだったかと言われても、そもそも読んでいなかったので、答えられない。
 夏休みの宿題などで課題図書があったとは思うのだけれど、何を読んだのか、何を書いたのかさえ思い出せない。
 夏休みの宿題で読んだ本で思い出せるのは、高校2年の時の『蠅の王』だけで、それ以前もそれ以降も何を読んだのか思い出せない。
 何で『蠅の王』だけ覚えているのかと言えば、高2の夏休みに3週間ほど学校主催の短期留学でオーストラリアに行き、友人Eと「読んだ?」と話題になり、2人ともまだ読んでいなかったのだけれど、1週間後にはEは既に読み終わっていて、「まだ読んでんの?」と言われたからだ。
 そのとき、初めて、「自分って本読むの遅いんだ」と分かり、それが印象に残っているので、『蠅の王』だけは高2の夏に読んだことを覚えている。
 中学2年の時にあった林間学校では、確か夏目漱石の『草枕』か何かを持って行ったのだけれど、担任から「本は持ってきて良いものに入っていない」と言われ、それ以来益々本を読もうという気力を失った。

 そんな時に出会ったのがさくらももこのエッセイだった。
 『さるのこしかけ』だったか他の本だったかは全く思い出せないのだけれど、そこに書かれている文章のうまさにただただ驚き、他の本も読まないとと思い、さくらももこのエッセイを片っ端から読みまくった。
 何でこんなにも自分を惹きつけるのか、というと、さくらももこの文章には悲哀というか、ニヒリズム的なものが漂っているからだった。

 「ちびまる子ちゃん」で描かれるまる子のおじいちゃんの友蔵は、まる子ととても仲が良く、まる子のことを溺愛している。
 おばあちゃんもとても柔和でいつもニコニコしている。
 けれど、さくらももこのエッセイを読むと、実際の祖父と祖母は友蔵とおばあちゃんとは正反対のような人柄だったことがわかる。
 本当はひどい人間関係だったからこそ、それを転じて笑おうとする姿勢、また、斜に構えたようなまる子の態度が実はそうするしか現実を受け流す方法がなかったということが、エッセイには書き込まれていた。
 毎週日曜日にぼーっとしながら「ちびまる子ちゃん」を笑いながら観ていた僕にとっては、実際の人生ではいろんなものを引き受けたままで、なんとかギリギリのところでやっていっているという、生きるということを教えてくれたのがさくらももこのエッセイだった。

 そんな、僕にとってのさくらももこに似た思いを感じさせてくれたのが今回読んだ穂村弘の『本当はちがうんだ日記』だった。
 


本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)


 40歳過ぎた中年独身男性が、人生の本番はこれからだ、とか書きつつも、締め切りを過ぎた原稿を何本も抱えながらも、仕事終わりに家で黙々とネットオークションを検索する。
 絶対に読まないということをわかっているにもかかわらず、30冊もの文庫セットを買ってしまう。
 そこには、僕だったら全く笑えない話をクスクスと笑えるように捉える姿勢と表現力があった。

 眼科に行ったら、もしかしたら今後目が見えなくなるかも知れないと医者に言われ、それ以降、白状を持った人が気になり、たまたま駅で見かけた白状を持った青年に声をかける。
 待ち合わせなので大丈夫ですよ、と言われ、振り返ると、その青年のもとに、白状を持った若い女性がやってきた。
 2人のその様子を見て、著者は「大丈夫」と思う。

 単に笑わせるというか、他の人と自分とのズレを書くことによってクスッと笑えるような話を書いている、ということだけではなく、自分自身のどうしようもなさだったり、それでも「大丈夫」と肩肘張ることなくやっていこうという姿勢だったりが描かれていて、それを読む僕もまた「大丈夫」と思えるのだった。