映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」

 うつ病を患っていると、うつ症状が一定のラインを越えた時にはすでに自分では気付くことが出来ず、あとから、そういえば、あの時にはうつの症状が出ていた、と気付く、ということがあります。
 僕の場合顕著なのは、記憶に関するもので、最初のうつを発症するまでは、一度挨拶を交わした人であれば、大抵どんな人であっても、どんなに時間が経っていても分かる、という感じだったのですが、うつを発症してからは人の顔だけでなく、「記憶する」という機能自体が失われてしまったような感じがします。
 けれども服薬も終わり、数年経ち、少しずつではあるものの、記憶出来るようになってきたのですが、自分で気付かぬうちに、その若干戻りつつあった記憶力も、失われてしまっていたことに気付きました。

 それは、今回の映画「マーガレット・サッチャー」を観たことで分かったのですが、最後まで観て、記録しようと思ったら、すでに観たことがある作品になっていたからです。
 最後まで観終わって、「結構良い作品だった」とか思いながら、ネット上で「観た映画」という感じでチェックしていたら、既に6年も前に観たことがあることになっていました。
 2時間近く観ていて、一瞬も「このシーンは観たことがあるような…」と思わなかったということに、自分自身で衝撃を受けています。
 うつの症状の出方は、不眠以外は人それぞれなので他の人に当てはまるかどうか分かりませんが、記憶出来るかどうかは今後自分の健康バロメーターとして覚えておきたいと思います。

 


マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 (字幕版)


作品データ映画.comより)
監督 フィリダ・ロイド
原題 The Iron Lady
製作年 2011年
製作国 イギリス
配給 ギャガ
上映時間 105分
映倫区分 G

あらすじシネマトゥデイより)
1979年、父の教えである質素倹約を掲げる保守党のマーガレット・サッチャーメリル・ストリープ)が女性初のイギリス首相となる。“鉄の女”の異名を取るサッチャーは、財政赤字を解決し、フォークランド紛争に勝利し、国民から絶大なる支持を得ていた。しかし、彼女には誰にも見せていない孤独な別の顔があった。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 この作品を観たのは、Amazonでの評価が高かったからなのですが、僕に表示されたのは多分、メリル・ストリープが主演だからです。
 先日の「31年目の夫婦げんか」先月書いた「マンマ・ミーア!」メリル・ストリープが出演していたので表示されたのではないかと思います。

 6年前に僕がこの作品を観た時の評価は★3つでした。
 理由が全く書かれていなかったので、なぜ★3つだったのかは自分でも分からないのですが、今思うのは、とても評価が難しい作品だということです。

 メリル・ストリープの演技は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしいもので(この作品で、アカデミー主演女優賞、英国アカデミー賞 主演女優賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)を受賞しています)、演技と同じくらい、そのメイクアップも抜群に素晴らしいものです(アカデミーメイクアップ賞受賞)。

 けれど、評価が難しいのは、「マーガレット・サッチャー」という人を描いた映画を評価するときに、どうしてもそのサッチャーが行った政治的な物事について、評価せざるを得ないからです。
 様々な民営化は正しかったのか、フォークランド紛争(戦争)への対処は正しかったのか、それらをへの観客の考え方がどうしてもこの映画の評価に反映されてしまいます。

 僕自身はサッチャーが首相を務めていたちょうど中間の時期に生まれたので、彼女がしたことを実際に見てきたとは言いがく、評価出来るほど知りません。
 時代の雰囲気も分からないので、アルゼンチンによるフォーランド侵攻に対してのサッチャーの決断が、世界の人々にとって、とりわけ英国に人々に取ってどの程度受け入れられていたものなのかもよく分かりません(浦沢直樹の『マスター・キートン』で少し触れられているのを読んだことがあるくらい)。

 けれど、すごく印象的だったのは、そのフォークランド紛争への積極的な介入を決断するまではすごく悩ましそうだったにもかかわらず(だからこそ?)、一転してフォークランド紛争での勝利後には、その決断をしたサッチャーが、まるで女王であるかのような雰囲気を出していることです(本物の女王もいるのに。ちなみに本物の女王は一切作品には出てきません)。
 政治的には、この時がサッチャーにとっての絶頂期だったのでしょう。

 そのあとは、「食料品店の娘」という庶民だった人間が、男性ばかりの議員たちの中で生き抜いて、保守党党首、英国首相という座に上がったことで、自分の近くにいる者たちだけでなく、庶民にも、自分がしてきたような「努力」を求める傲慢な姿が描かれます。
 僕のように、うつを経験したことがあると、そもそも「努力出来ること」自体が、とても恵まれた環境にいると思うのですが、サッチャーは、首相の座を退くときも変わらずに男性社会に1人女性として渡り合い、責任ある立場にもなっていたので、他の人にもその立ち向かう努力を求めます。

 首相という座に就くまでは、ほぼ男性のみの世界において、立ち向かって、結果を残してきたこと、「鉄の女」と言われますが、今も尚「鉄の天井」があることを考えると、サッチャーのその傲慢さは仕方がないことなのかも知れません。

 最終的には、認知症を発症し、この映画が公開された2年後にサッチャー本人が亡くなるのですが、その人生が「幸せ」だったかどうかは、他人の僕には評価出来ません。
 けれど、気になるのは、そのサッチャーの他者に対しても自分がしてきたような「努力」を求めるという傲慢な態度に、苦言を呈する人物がいなかったのかどうか、という点です。
 夫のデニスは終生彼女を支えますが、正面から批判をしているすがたはありませんでした。
 配偶者としては1つの選択として正しかったのかも知れませんが、けれども、首相という、多くの人々の命に責任を持つ人を支える人としては正しい選択だったのか。
 この映画を観ている限りデニスしか苦言を呈することが出来ないような感じだったので、デニス以外でそのような人物がいたのかどうか、いなかったのなら、それは、サッチャーが悉く退けていたからなのか、苦言を呈してくれるような身近な存在がいなかったからなのか、その点を知りたいと思いました。