映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「悪い種子」

 親に似たんだね。
 割とよく聞く言葉ですが、容姿ではなく、性格や学力などの肉体的特徴以外の事柄に関して、誰かのことを「親に似ている」と言うことはしないように気をつけています。
 遺伝で似ることが分かっているのは容姿や体型などで、学力や性格、気質は遺伝ではなく、親や家庭以外の環境が強く影響されていると考えているからです(参照:性格は遺伝で決まるって本当ですか? | 日本心理学会)。

 もし仮に、遺伝によって子どもの性格や気質が決まるとすれば、生物学上の親から虐待を受けてきた人は自分も虐待することになるし、生物学上の親が大量に殺人を犯していればその子どもも大量殺人を犯すことになる。
 でも、実際はそんなことはありません。
 虐待やDVなど家庭内で暴力行為をするのは、性格というようなものではなく、その人自身が置かれている環境(過度なストレスなど)が影響しているからです。

 さて、今回の作品は「悪い種子」というように、親である自分が「悪い」からこそ、その種子である子が「悪い」のではないかという、母親の葛藤を描いたものです。 

 


悪い種子(字幕版)

 

作品データ映画.comより)
原題 The Bad Seed
製作年 1956年
製作国 アメリ
配給 ワーナー・ブラザース

ストーリーMovieWalkerより要約)
 クリスティーン(ナンシー・ケリー)は、夫ケネス・ペンマーク大佐との間にローダ(パティ・マコーマック)という8歳の娘をもっていた。ケネスが再召集でワシントンへ行くことになり、ある日、ローダの学校でピクニックがあった時、クロード少年が古桟橋から落ち溺死するという事件が起きた。誰もが過失かと思ったが、ローダが事件の直前、少年と一緒にいたことが分かってきた。
 女教師ファーンがペンマーク家を訪れ、疑いを洩らしたが、クリスティーンには、ぐっと胸に詰まるものがあった。というのはウィチタにいたとき、同居の老婆が階段から落ちて死んだことがあった。老婆は飾りのガラス玉を持っていて、自分が死んだらローダにやると約束していたが、その玉を老婆の死後、ローダは意外に誇らしげに見せたことがあったからだ。
 娘が殺人犯――だが母親としては、これを隠さねばならない。ところが、訪ねてきた父のブラヴォに、自分がかつて世が騒がした美貌の殺人鬼ベッシー・デンカーの遺児であると聞かされ、逃げられぬ運命を覚った。ローダの性格は、自分の母親の悪い種子によって生まれた宿命である。
 一方ローダは、家の掃除男で薄ノロのルロイが自分の犯行を嗅ぎつけたと覚り、彼を甘言で地下室に閉じこめ火を放った。ルロイは焼け死んだ。が人々は過失と断定した。しかしクリスティーンの目にはローダの犯行と疑いもなく映った。遂に決心した彼女は、その夜ローダに睡眠薬を飲ませ、自分は拳銃で無理心中をはかった。夫のケネスが急ぎ戻ったが意外にもローダは助かり、クリスティーンも重傷ながら救われた。事情の分からぬケネスは、ともかく娘の健在を喜び、彼女を連れて帰宅した。ところが夜明けがた、ローダは家を抜け出し、母が捨てたクロードのメダルをあくまで取ろうと嵐の中を沼へ急いだ。その時一瞬の落雷が桟橋に。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 この作品を観たのは、以前書いた町山智浩さんの『トラウマ映画館』に載っていたからです。
 Amazonでも観られるようになっていましたが、今回はTSUTAYAで借りて見ました。
 原作はウィリアム・マーチ(William March)の小説(『The Bad Seed』)です。

 物語の内容は、上に書いてある通りなのですが、内容そのものもそうなのですが、パティ・マコーマック演じる主演のローダがトラウマになる、ものすごく印象に残るものでした。
 眼力というか、ぐっと見開いた目、その見開いた目から向けられるまなざし。
 自分ではなく、クロードが手にしたメダルを自分が持つことがふさわしいと全く疑わない様子、そのメダルを手にしたことの何が悪いのか、という様子、それら全てがトラウマに残るようなシーンでした。

 またそれと同時に、どの時代やどの文化でも永遠の問いである、罪を犯したとき、その親の責任がどれほどあるのか?、ということにも向き合っています。
 上に載せたストーリーでは、ローダが人を殺すことに何の罪悪感も抱いていない様子をローダにとっては祖母にあたるベッシー・デンカーが殺人者であったから、と書いていますが、映画の中では、ラストでこの問いに対して1つの答えが示されています。

 罪を犯さなくても、何か「悪い」ことや、目につく行動を子どもがしたとき、自分の育て方が悪かったのではないかと考える(特に母)親は多いです。
 この問いに関して、ローダの母親であるクリスティーンは1つの答えを出し、それが、ローダを殺し、自分も死ぬ、という行為に至らせる訳ですが、映画の中では違う答えも示されています。
 この問いに関しての僕自身の1つの答え(のようなもの)は最初に書いた通りなので、ある意味安心(?)もしたのですが、人を殺すということに何も痛みや想像を働かせないローダよりも、最後に至るまでメダルに固執する姿が一番トラウマになりそうでした。

 人というのは、自分がほしいものに対しては、どんな手を使っても手に入れようとするし、手に入れるためだったらどんな手段でも痛みや想像力は排除されてしまう、ということを物語っているように感じました。
 しかもそれは、手に入れたい、というよりも、自分が手に入れているはずのもの(本来自分のものであるはずのもの)というところが、人間の本質を描いている気がします。