映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「三度目の殺人」

 観たいと思っていた作品がAmazonプライムの対象になっていたので観てみました。
 観たいと思っていた理由は、是枝裕和監督作品だからです。 


三度目の殺人

 

映画『三度目の殺人』公式サイト - 9月9日(土) 全国ロードショー

作品データ映画.comより)
監督 是枝裕和
製作年 2017年
製作国 日本
配給 東宝、ギャガ
上映時間 124分
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより)
それは、ありふれた裁判のはずだった。殺人の前科がある三隅(役所広司)が、解雇された工場の社長を殺し、火をつけた容疑で起訴された。犯行も自供し死刑はほぼ確実。しかし、弁護を担当することになった重盛(福山灘治)は、なんとか無期懲役に持ちこむため調査を始める。何かが、おかしい。調査を進めるにつれ、重盛の中で違和感が生まれていく。三隅の供述が、会うたびに変わるのだ。金目当ての私欲な殺人のはずが、週刊誌の取材では被害者の妻・美津江(斉藤由貴)に頼まれたと答え、動機さえも二転三転していく。さらには、被害者の娘・咲江(広瀬すず)と三隅の接点が浮かび上がる。重盛がふたりの関係を探っていくうちに、ある秘密に辿り着く。
なぜ殺したのか? 本当に彼が殺したのか? 得体の知れない三隅の間に呑みこまれていく重盛。弁護に必ずしも真実は必要ない。そう信じていた弁護士が、初めて心の底から知りたいと願う。その先に待ち受ける働突の真実とは?

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 
物語の内容は、上に書いたストーリーの通りです。
 殺人の前科があり、強盗殺人の容疑で起訴された三隅を弁護することになった弁護士の重盛が主人公です。

 重盛は、三隅がやったことは間違いなく、弁護する上では殺人の前科もあり、強盗殺人だと死刑になってしまうので、殺人での罪にしようと画策します。
 起訴された三隅の供述は、曖昧な点が多く、裁判の最中に、自分は殺していないと言い始め、重盛含め弁護側も、検事側も、裁判所も混乱してしまう。
 結局、途中から供述を変えたことは、「一貫性がない」と判断され、三隅は死刑の判決を受ける、というものです。

 この作品は、観る人がどういう立場に立つかによって、全く見方が違って来る作品だと思います。
 弁護側としては、被告人の利益を追求しようとしているにも関わらず、最後まで被告人が何を思っているのか分からず振り回され、検事側、あるいは三隅が犯人だということに疑いを持っていない人にとっては、供述がコロコロ変わる信用することが出来ない、死刑になっても当然だと思われるダメダメな人間の姿を描いている作品として見ることが出来ると思います。

 そして、他にも違う見方としては、三隅が言っていることは、どんなにそれは「変遷している」としても、「真実」を語っているとする見方です。
 「前科」があることで、死刑という判決が下るものの、情況証拠しかなく、警察と検事の取り調べ段階での「自白」が主な証拠になっています。
 また、人間というものが、作品中の象徴的な三隅の言葉を借りれば「空の器」だとすれば、その場その場で供述が変わることも理解出来ます。
 本人にとっても何が起きたのか分かっていなければ、問われる度に答える内容は変わって来ます。

 むしろ、そのような「空の器」だという見方からすれば、「供述の一貫性」と呼ばれるものの方が、人間の姿として「正しい」のかどうかも疑問が出てきます。
 人間とはどのようものなのか、ということについても様々な捉え方が出来ることと共に、裁判とはあくまでも「儀礼」である、という側面も描かれています。

 その「儀礼」とは、相撲やプロレスのようなものです。
 結果は確かに変わることがあるけれども、そこで一番重要視されていることは、様式だとか段階、段取りで、内容は実はそこまで重要ではない、ということです。

 三隅が本当に殺したのか、ということをこの裁判では本当は一番問わなければならないはずなのに、焦点が当たるのは、そこではなく、三隅が死刑で殺しても良い人間なのか、そうじゃないのか、という点です。
 それまでの流れは裁判官、検事、弁護士が今まで培ってきた様式や段取りを踏むことが重要視されているのです。

 この裁判ということのおかしさ含め、そもそも三隅が殺したのかということ含め、物語の根底までも最終的に疑問を感じされる展開になっていることが、この作品の醍醐味だと感じました。