映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

内澤旬子『身体のいいなり』

 いつも聞いているラジオ番組(荻上チキSession-22)を聞いているときに、オープニングトーク内澤旬子さんの本が触れられていました。
 内容に深く触れるというよりは、タイトルの「身体のいいなり」ということについて実感する出来事があった、という流れで出てきたのですが、未読だったのと、最近体調を崩していて、僕自身も「身体のいいなり」になっていることもあり、気になったので読んでみました。
 ちなみに、内澤旬子さんの本を最初に読んだのは『世界屠畜紀行』で、この本の印象が強く残っていたということも、すぐに『身体のいいなり』を読んでみようと思った大きな理由です。

 


身体のいいなり (朝日文庫)

 
内容朝日新聞出版紹介ページより)
腰痛、アトピー性皮膚炎、ナゾの微熱、冷え性、むくみ…著者がずっと付きあってきた「病気といえない病気」の数々。ところが、癌治療の副作用を和らげるために始めたヨガがきっかけで、すっかり体質が変化し、嗜好まで変わってしまった。不思議に仕事も舞い込むようになり、いまさらながら化粧の楽しさに目覚めてしまう。そして乳腺全摘出を決断。乳房再建手術の過程で日頃考えたこともなかった自分の「女性性」に向き合わざるを得なくなり―。ベストセラー『世界屠畜紀行』の著者が、オンナのカラダとココロの不条理を綴った新境地エッセイ。講談社エッセイ賞受賞作。

感想
 
著者の内澤さんが乳がんを患ったことがきっかけとして、それまで抱えていた腰痛やアトピー性皮膚炎含めた身体の不調とどのように向き合ってきたかが、乳がんとそれにともなう乳房再建手術までの時間の流れとともに書かれています。

 はじめに書かれているのは、いわゆる「闘病記」とは違っているということなのですが、僕自身がいわゆる「闘病記」を読んだことがないので、どのように違うのかは分かりませんが、1つ言えることは、どこの病院を受診したか、どのような治療をしたのか、ということについて、他の乳がん患者が読んでも、「治療の参考」にはならないだろうな、ということです。

 この本の中で語られていることは、あくまでも著者の内澤さんが、その時にどのように診断されたのか、それをどのように受け止め、どのような選択肢があって(あるいは選択肢がなくて)治療を進めてきたのかということです。
 また、乳がんだけでなく、身体の不調と向き合う中で出会った方法(たとえばヨガ)の中で、内澤さんにとって何が効果があったのか、それをどのように行っているか、ということと、それらの中でどのように考えていたのか、感じていたのか、ということについて書かれています。

 なので、乳がんを患っている人にとっては、具体的な治療方法が詳細に説明されるわけでも、病院や医師が紹介されている訳でもないので、「治療の参考」にはならないと思います。
 けれど、僕にとって良かったのは、あくまでも語られている主軸が「治療」ではなく、「身体との向き合い方」だった点です。
 ちょっと長いですが、手術を経た後で語られている内容を引用してみます。
 

 四度の手術で私が得たこと、それは人聞は所詮肉の塊であるという感覚だろうか。何度も何度も人前で裸にされて、血や尿を絞り出しては数値を測って判断され、切り刻まれ、自分に巣喰う致死性の悪性腫蕩という小さな細胞を検分されるうち、自分を自分たらしめている特別な何かへのこだわりが薄れてしまった。人間なんてそんなごたいそうなものではない。仏教の僧侶が言うとおり、口から食物を入れて肛門から出す、糞袋にすぎない。
 私のように意志ばかり肥大させて生きてきたような人聞には、それはちょうど良い体験だったのかもしれない。独立した存在であるように思っていた精神も、所詮脳という身体機能の一部であって、身体の物理的な影響を逃れることはできない。私はそれをあまりにも無視して生きてきたんじゃないだろうか。
 ただし、意志だけで生きてきたこれまでの人生、身体はつらかったけれども、たのしいこともたくさんあった。身体(と生活)を極限まで無視した分、得がたくおもしろいことを見られたし、学べたという自負はある。でも癌をつくるまで(?)身体を本気で怒らせることになったのはまずかった。癌を通じて、私の意志は一度身体に降参し、身体のいいなりになるしかなかったのだ。(220頁)

 
 僕自身は「身体(と生活)を極限まで無視した分、得がたくおもしろいことを見られたし、学べた」という経験はないものの、意志で身体をなんとかしようとした経験は何回もありますし、今回またうつ病になったのも、また、元配偶者との関係が決定的に崩壊したのも身体を無視したからだと思っています。
 まだまだ意志が肥大化していると感じていますが、うつ病を通して「独立した存在であるように思っていた精神も、所詮脳という身体機能の一部であって、身体の物理的な影響を逃れることはできない」ということも痛感します。
 脳や精神自体も身体の一部で、薬を飲めば気分が良くなったり、生きていることに希望を感じることさえ出来る。
 逆に不安や絶望も同じことで、身体を無視しているからこそ、身体が極限状態だということを示す悲鳴だとも言えます。

 薬を飲むことによって身体の調子を整えて、不安や絶望を感じなくなり、抗うつ薬も飲まなくて済んだと思ったら、また身体と精神の調子を崩してしまいました。
 けれど、これも当たり前なことなのかな、と。

 困ったことに、身体と同じ速度では精神は回復してくれなかったということだ。(225頁)


 身体に4度の手術をして、回復に時間がかかるだろう著者であっても、精神の回復が身体と同じ速度ではない、と。
 抗うつ薬を飲んで数ヶ月で身体が回復したからといって、精神も数ヶ月で回復するかというとそんなことはなく、もっと時間がかかるのだ、と改めて気付かせてもらいました。
 特に、抗うつ薬をまた飲み始めることになったこと、1度は振り切ったと思った家族から突然切り離された苦しみや痛みがまた襲ってきたことに自分自身がショックを受けていたので、もっとゆっくり回復していけば良いんだと言われたような気がします。

 また、これは身体との向き合い方とは違うのですが、自分にとって文章にすることがなぜ大切なことなのかということについても、明確にさせてもらった気がします。

 自分のことについて書くこと自体が、ほぼはじめての試みであった。私はもともと人よりも頭の回転が遅い。人から不愉快なことを言われたりされたりしたときに、その場で上手に怒りを表明したり、抗議をすることができない。違和感を感じながらも相手の言葉や行為をその場では受け入れてしまい、後でずうっともやもやと考え続け、かなり時聞が経ってから何が自分を傷つけたのか、あるいは不快であったのかに思い至る。これでは、その場で表明できれば解決できたかもしれないことも、余計にこじれてしまう。実に傍迷惑であるし、人付き合いがあまり上手にできないのも、ここに原因があると思っている。(246頁)


 ここに書かれていることはまさに僕も経験してきたことで、あぁ、だから僕は人付き合いが苦手だと感じてきたのか、と理解出来た気がします。
 その場ですぐには考えられず、その場で表明できないからこそ、僕はこうしてブログでも何でも良いので、とりあえず言葉にすることによって何を感じたのか、何を考えたのかということを書いているし、書くことが自分にとって大切な行為なのだ、というとを言語化してもらった気がします。