映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

自分で解決しようとすることと諦めること

 先日同僚と話していたら、自分がどのくらい生きるのかというような話になりました。
(2人とも非正規で年齢も中年で、家族も親きょうだいしかいないので、漠とした将来への不安をたまに話しています。)

 僕は小さい頃から長生きはしないだろうな、と思ってきました。
 高校生くらいの時から、自分の人生は60年くらいだとなんとなく思い始め、それまでをどう生きるか、どう生きのびるかを考えてきました。
 人生100年とか言われている時代に、なんでそんなに短いんですか?と聞かれたのですが、それは、20代も後半になるまで自分でも認識できていなかったのですが、他の人より生きづらいらしいということが大きく関係しているように思います。

 自分でも納得がいき、わかりやすかったのはHSPハイリー・センシティブ・パーソン)のテストで、その結果高い数値が出てきました。
 どうやら僕は他の多くの人が感じることのないことを感じ、考えもしないことを考えているらしい。
 HSPに該当する人の中にはその特性を生かして、楽しく生きている人も沢山いると思いますが、僕にとっては、(自分以外の感覚や思考は経験できないので)ものすごく大変というわけではないけれど、楽しいわけでも楽なわけでもない、というのが実感です。

 なので、人生60年も生きれば本当に十分だと思っていて、それ以上生きるんだと言われれば、それを想像するだけでヘトヘトに疲れてしまうような気がします。
 60年以上生きるとしたら、余生だと思って生きるとして、それよりも短ければ、仕方ないというか別に何も困らないので、受け入れるだけです。

 そんなことを話していたら同僚にある質問をされました。

 

目の前に乗り越えるのが困難な壁があったときに、どうしますか?

 

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 僕は、「多分どうにかしてその壁の向こうへ行こうとしようとします」と答えました。
 ある目標があって、1つの方法がダメだったら他の方法を探すし、実際にいろんな方法を試す、と。 

 そうしたら、同僚が、「それも生きづらさの理由かもしれませんね」と。
 どういうことかというと、自分で解決しようとすることはとても大切だし、長所なのだけれど、世の中には自分ではどうすることも出来ないことが沢山あって、諦めることの方が楽な時もある、と。
 自分でなんとか解決しようとすると、その目標を達するまで忘れることが出来ないけれど、諦めることが出来れば忘れることも出来て、苦しむこともない、と。

 まぁ、30年以上生きてきた上での性質なので、今からすぐに変えることは出来ないのかも知れませんが、確かにその通りで、僕は割と何もかも自分でやろうとする傾向があります。
 それは、家事の、たとえば料理であれば、お店で買うよりも自分で作ることで安上がりになったり、温かいまま食べることが出来たり、家のちょっとした修復など業者に頼むと万単位でかかる費用が節約出来るなど、良い面もあります。
 けれど、諦めることが難しいので、助けを求めることも、忘れてもいいような何十年も経っていることも忘れることが出来なかったりします。

 同僚に言われてハッとしましたが、この自分の性質をたまに思い出して、諦められるところは諦められるようになりたいな、と思います。
 実際難しいからこそ性質になっているわけですが、少しずつでも変えられていけるように、何か良い方法がないか探してみようと思います。