映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

聖書協会共同訳『聖書』

 世界で一番読まれている本であるキリスト教の『聖書』の新しい翻訳版が昨年末に出版されました。

 日本ではキリスト教徒は少ないので(多く見積もって200万人)、読んだことのない人も多いかも知れませんが、日本全国にはキリスト教系の学校法人が221、高等教育機関は100あるので(2011年時点)、信徒ではなくても、何らかの形で『聖書』に触れたことのある人は、信者数よりも数多くいるのではないかと思います。
 その時に多分目にする『聖書』の殆どは、日本聖書協会が発行している『聖書 新共同訳』だと思います。

 この『聖書 新共同訳』が日本で一番発行されている『聖書』になるのですが、出版が1987年で既に30年以上経過しているために、言葉が古かったり、そぐわなかったりする部分が出てきたなどの理由により、今回新しく翻訳された『聖書』が出版されました。

 


聖書 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 引照・注付き

 

新翻訳聖書事業:一般財団法人 日本聖書協会

 

内容紹介日本聖書協会ホームページより)
次世代の標準となる日本語訳聖書を目指した新しい翻訳、「聖書協会共同訳」。実質約9年の翻訳期間を経て2018年12月に発行。1987年発行の新共同訳に続き今回も、カトリックプロテスタント諸教会の支援と協力による共同の翻訳事業です。そして聖書協会世界連盟(UBS: United Bible Societies)という世界最大の聖書翻訳のネットワークによる研究成果と、国内の優秀な聖書学者・日本語の専門家によって翻訳されました。

『聖書 聖書協会共同訳』の特長
カトリックプロテスタント教会による「共同訳」
●礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳
●聖書協会訳聖書として初めて聖書全体に引照と注を付す
●固有名詞、書名は『聖書 新共同訳』に準拠
●巻末付録として、カラー聖書地図12葉、143語の用語解説を付す

感想(?)
 
日本聖書協会でなければ、個人的には岩波書店版だったり、田川健三版だったり、あるいはケセン語などの翻訳も気に入っています。
 しかし、それらの翻訳は個人的に読んだり勉強するには良いのですが、様々な教派や考え方があって、分裂が広がっている今のキリスト教で共通して使うことは出来ません。

 共通して使える可能性があるのは日本聖書協会が出している『聖書』だけなので、まだ職場ではこの『聖書』を導入するかどうかは決まっていませんが、自分の仕事にも関わることなので、手に取ってみました。

 通読したのではなく、自分が使うことのあるいくつかの箇所を読んでみた中での感想ですが、出版に際してあげられてた「特長」にあるように、「礼拝での朗読にふさわしい」ということに焦点が当たっているように感じました。
 なので、原文(旧約ならヘブライ語アラム語、新約ならコイネーギリシア語)からゴリゴリと翻訳したというよりは、日本語で読みやすいかどうかが主軸になっているように感じました。

 なので、かつて文語から口語に変わったときのような大きな変化ということはなくて、殆どは「ちょっとした違い」になっています。
 学問であれば「ちょっとした違い」も重要になるのですが、日本聖書協会が宣言しているように、今回出版された『聖書』は「礼拝での朗読」に主軸があるために、今まで使っていた『聖書 新共同訳』とこの『聖書 聖書協会共同訳』のどちらが、礼拝をする人になじむか、という違いになってきます。
 すると、礼拝になじむ聖書ということで考えると、今まで30年間使ってきた『聖書 新共同訳』の方が殆どの人にとっては馴染みがあることから、わざわざ高いお金を払って(今は2パターンしか出版されていないので、一冊5000円以上します。)、新しく出版されたこの『聖書 聖書協会共同訳』に変えるかかといったら、変えないと思います。

  今回の『聖書 聖書協会共同訳』に至る新翻訳聖書事業は2009年から始まっていて、10年かけて結局この方針のもとに出版されたというのは残念です。
 日本聖書協会のホームページには誰が翻訳に携わったのかが書かれているのですが、「礼拝での朗読」に主軸があるばかりに、教会関係者のバランスは取れているのかも知れませんが、世界的にも知られている聖書学者が何人も抜け落ちています。

 『聖書』というのは、様々な解釈を生み出し、そこから現実の闘争にまで大きな影響を与える書物なので、慎重に取り扱うことは当然のことなのですが、だからこそ、原文に近い、学問として最先端の研究が反映された翻訳にして欲しかったと思います。
 「礼拝での朗読にふさわしい」ということは、原文を読んでいると意味のよく分からないというか、様々な解釈が分かれる箇所もあるのですが、そういう箇所、つまり礼拝での朗読にふさわしく感じられない翻訳が排除されてしまう可能性があるからです。