映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』

 「#MeToo」ムーブメントの中で新しく知ることになった「マンスプレイニング」という言葉があります。
 男を意味する「man」(マン)と解説を意味する「explain」(エクスプレイン)をかけ合わせた言葉です。
 一般的には「男性が、女性を見下す、あるいは偉そうな感じで何かを解説すること」とされています。(マンスプレイニング - Wikipedia

 この言葉やあるいはこの言葉を表す「男性が、女性を見下す、あるいは偉そうな感じで何かを解説すること」が一気に広がるきっかけになったとされているのが、この本です。
 著者自身は自分で「マンスプレイニング」という言葉を作ったわけでも、その言葉を使うこともないと説明していることは知っていたのですが、それでもどんなことが書かれているのかとても興味があったので読んでみました。
 


説教したがる男たち Kindle版

 

説教したがる男たち | 左右社

内容(左右社紹介ページより)
相手が女性と見るや、講釈を垂れたがる男たち。そんなオヤジたちがどこにでもいること自体が、女性たちが強いられている沈黙、世界の圧倒的な不公正そのものだ。今や辞書にも載っている「マンスプレイニング(manとexplainの合成語)」を世に広め、#MeTooへと続く大きなうねりを準備するきっかけのひとつとなったソルニットの傑作、待望の邦訳!
女性は日々、戦争を経験している。
どんなに頑張っても、話すこともできず、自分のいうことを聞いてもらおうとすることさえ、ままならない。
ここはお前たちの居場所ではない。
男たちは根拠のない自信過剰で、そう女性を沈黙に追い込む。
ソルニット自身がその著者とも知らず、「今年出た、とても重要な本を知っているかね」と話しかけた男。
彼にそんな態度を取らせている背景には、男女のあいだの、世界の深い裂け目がある。
性暴力やドメスティック・バイオレンスは蔓延し、それでいて、加害者の圧倒的割合が男性であることには触れられない。
女性たちの口をつぐませ、ときに死に追いやる暴力の構造をあばき出し、
想像力と言葉を武器に、立ち上がる勇気を与える希望の書。

感想
 最初に書いたように、マンスプレイニングという言葉がこの本や著者のレベッカ・ソルニットさんが作り出したと思われてしまうのがよく分かる内容でした。
 僕は「男性」だということもあって、日常的にマウンティングされたり、暴力の脅威を感じることはないのですが、女性たちがいかに日常的にマウンティングされ、暴力の脅威を感じているかが分かりました。
 また、僕にはちょっと馴染みがなかったバージニア・ウルフについて書かれている章では(バージニア・ウルフの記念講演を元にしているので唐突に出てくる印象は否めないものの)、これまで、具体的には19世紀から欧米で女性が置かれている状況と、今までの歩みが触れられていました。

 読み始める前は男性ばかりを批判するような、ミサンドリー(男性嫌悪)的な文章が出て来るかも知れないことに少し不安を感じていたのですが、事実に基づいた男性批判や指摘はあったものの、ミサンドリー的表現はありませんでした。
 たとえばマンスプレイニング的、あるいはマウンティング的な態度を取る人について以下のように書かれています。

そう、なにかのイベントに現れては見当違いな話や陰謀論をまくし立てる人間は、男女の別にかかわらず存在する。それとは別に、徹底して無知でありながら、完壁で挑戦的なまでの自信に満ちた態度というのは、私の経験では、特定のジェンダーと結びついている。男たちは私に、そして他の女たちに、説教したがる。自分が何を言っているのかよくわかっていなくても。そういう男は存在する。

 
 また、性暴力について触れた箇所ではこのように書かれていました。

この国も全地球も、女性に対するレイプと暴力であふれでいるが、だれもそれを市民権や人権の問題として扱わないし、危機とみなすどころか同一のパターンがあることすら気づかない。暴力の当事者になるのに、人種も階級も宗教も国籍も関係ない。でもジェンダーだけは別だ。
ひとつだけ言っておこう。ほとんどすべての性犯罪の加害者は男性だが、すべての男が暴力的だというわけじゃない。多くの男性は違う。それに男性が、しばしば別の男性の暴力の被害者になることだってもちろんあるし、どんな暴力的な殺人や暴行だってひどいものだ。女性がパートナー間暴力の加害者になることもありえるし、実際にそうしたケースもあるが、最近の研究によれば、女性による暴力が深刻な傷害を与えることはそれほど多くはなく、死に至るケースはまれだ。女性がパートナーの男性を殺害するのはしばしば正当防衛によるものである一方、親密な間柄で起こる暴力によって病院送りか墓場送りにされる女性は山ほどいる。


 引用したこの2つの文章とも僕はミサンドリー的要素は全くなく、単に事実を書いていると感じました。
 特に性暴力や暴力に関しては、的を射た指摘だと思います。
 以前、『男が痴漢になる理由』について書いたことがありますが、その本を読んではっと気付かせてもらったのは、痴漢が「よくあること」という自分自身の認識でした。
 痴漢という性暴力を「よくあること」、しかも、毎日被害者が無数に生まれているということには想像が及ばないばかりか、むしろ、冤罪に巻き込まれたらどうしようということだけを考えていました。

 レイプやDVが痴漢のように「日常的に起きている」というほど自分には身近には感じられたことはないものの、「暴力の当事者になるのに、(中略)ジェンダーだけは別だ。」という指摘は重要だと感じました。
 僕自身も時々感じいて、そして自分でも嫌悪している、男性性というものがこの理由になっているのかも知れないと思うと、それからは逃れることが出来ないので、絶望的な気持ちにもなります。

 だからこそ、他の章で触れられている、「レイプ・カルチャー」や「性的特権意識」というものが、特に男性たちに生まれてしまうのか、ということをより掘り下げてあれば良かったのですが、この本はあくまでも女性著者が自身の経験を踏まえ、この世界で日々起きている女性に対する暴力などに関して書いたエッセイを集めたものなので、科学的な根拠や男性自身が実際にどう対応していけるのかという実践方法は書かれていませんでした。
 このことは、少し残念ではあったのですが、「結婚」について、そもそも「結婚」という制度自体が持っている非対等性についての指摘と、対等な「結婚」への言及は、新しい気づきをもらいました。
 

ゲイ男性とレズビアンは、どんな性質や役割が男性的、あるいは女性的なのかを疑ってみせたのであり、その問いかけはストレートの人間をも解放してくれる可能性を持ったものだった。同性同士が結婚するとき、結婚の意味もまた同様に問いに付される。彼らの結びつきには、ヒエラルキー的な伝統は存在しない。このような関係を、喜びをもって迎える人たちもいる。いくつもの同性婚を執り行ってきた長老派の牧師は、私にこう語った。「まだカリフォルニアで同性婚が合法でなかった頃、同性カップルの結婚式をしたことがある。彼らに会ったとき、こう思ったのを覚えてるよ。古臭い家父長的な形式は、彼らの関係には見合わないものだってね。すばらしいことが起きるのを目撃した気持ちだったよ」。

 
 この指摘はとても重要だということと共に希望を感じました。
 数年内とは言いませんが、僕が生きている内に、日本でも同性婚が実現されることでしょう(「同性婚の合法化」、78.4%が肯定的 全国の20~59歳、電通調査:朝日新聞デジタル)。
 同性婚が実現することは、そのままセクシャルマイノリティの人たちが結婚出来るということだけではなく、「結婚制度」自体が持っている非対等性、家父長制的価値観が問い直される大きなきっかけになると思います。
 僕自身は結婚制度による、夫婦は同じ姓を名乗らなければならない、という夫婦間の非対等性に悩まされ、家父長的価値観に全く疑問を感じていない元配偶者との価値観の大きな隔たりから、離婚へと至りました。
 僕自身は結婚というのは2人の対等な関係のもとに成り立つものだと考えているのですが、それが実現するかも知れない1つの道として、同性婚というものがあるということを知り、とても希望を感じました。
 

「脅威を称えて」の章でも書いたが、同じジェンダーに属するふたりの人間が結婚できるという考え自体、フェミニストたちが結婚をかつての上下関係のシステムから解き放ち、平等な人間同士の関係として再創造したからこそ可能になったのだ。さまざまな事柄が証明しているように、結婚の平等に脅威を感じる人たちは、同性カップル間の平等だけでなく、ヘテロセクシャルカップル間の平等という考えもおそれているのだ。ひな鳥がねぐらに戻る話ではないが、解放というのはいろんな方向に伝染していくものなのだ。


  フェミニストたちの動きが同性間の結婚へとつながり、その同性間の結婚という動きが、結婚自体が持っている上下関係を解放する動きへとつながるということです。
 「解放というのはいろんな方向に伝染していくもの」というこれまでの歩みを確認しながら、自分も伝染させていきたいと思います。