映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

泉谷閑示『「普通がいい」という病』

 ずっと積ん読してあった本なのですが、先日読んだ武田友紀さんの『「気がつきすぎて疲れる」が驚くほどなくなる 「繊細さん」の本』の巻末注に記載があったので、引っ張りだして(というか電子書籍で購入してあったので、ダウンロードして)読んでみました。


「普通がいい」という病 (講談社現代新書) Kindle版

 

『「普通がいい」という病』(泉谷 閑示):講談社現代新書|講談社BOOK倶楽部

内容講談社公式サイトより)
頭とこころのバランスを取り戻すヒント満載。私たちはあまりにも「~しなくてはいけない」という言葉に縛られていないだろうか? 常識と思っていた言葉の手垢を落とし、「自分らしく生きる」ための10講。

感想
 タイトルに含まれている「普通がいい」ということよりも、公式サイトの紹介文に載っている「頭とこころのバランスを取り戻すヒント」の方が、この本の内容を的確に表していると思いました。
 自分たちが普段いかに「頭」で考えることを重要視しているか、頭で「考える」ことが最優先されてはいないだろうか、何か考えたり、学んだり、得る前から備わっている「感覚」を取り戻すというか、そちらにも目を向けてみるヒントが載っていました。

 読んでいたら、ブックマークばかりになってしまったので、すべてを紹介することは出来ないのですが、著者の泉谷閑示さんは精神科医なので、病や病気、あるいは正常や治癒についての部分を引用してみたいと思います。

 正常と異常、健康と病気、そういう区別がはっきりあるのだというようなものの見方では、大切な本質は見えてきません。ただ診断マニュアルに従って病気の診断をし、それに基づいた知識を投入し診察しても、それだけでは、そのクライアント個人の抱える問題の本質からは遠ざかるばかりです。
 近代以降の社会は、確かにそういうふうに正常と異常を分けて考えてきたけれども、元々は境目のない、連続したものであるということ。そういう分け隔てのない見方で人間を見た上で、この場合にはこういう意味で精神医学的なサボートが必要だという順番で考えていくのでなければならないわけです。

 
 僕は大学と大学院で生命倫理を勉強していたのですが、指導教授のさらに指導教授だった先生が繰り返し述べていたのが、「健康とは病気がない状態を指すのではない」ということでした。
 心身に病気がなくても、不健康な人はいるし、逆に何らかに疾患を患っていても健康な人もいる。
 病とは何か、健康とは何か、ということを自らの心身の状態だけではなく、人間関係を含めて考えて、常にその人の「ふさわしさ」とは何かということを求めている先生でした。

 その、先生が繰り返し言っていた「病気とは何か」「健康とはどういうことか」ということを改めて思い起こさせてくれたのが上に引用した文章です。
 「元々は境目のない、連続したものである」という指摘は、僕がずっと考え続けてきている「障がい」というものでも同じで、何か明確なものがあるようでいて、実は連続したものであるということを、再確認できました。
 例えば、現代では、メガネやコンタクトレンズで視力を矯正することによって生活出来ていても、メガネが普及していなかった今より少し前の時代では、それは生活を送る上での大きな「障がい」だった訳です。
 けれど、メガネ等が普及したことによって、ある程度の視力までは矯正することが可能になった為に、「障がい」ではなくなりました。
 けれども、現在「視覚障がい者」がいるじゃないか、と言われるかも知れません。
 それも、これから技術が発達していけば、眼球を使わなくても「見る」ことが可能になることは容易に想像出来ますし、そうすると現在の「視覚障がい者」と呼ばれている人たちももはや「障がい者」ではなくなります。
 なので、実は明確な境目があるかに考えているかも知れないけれど、「元々は境目のない、連続したものである」という指摘は、病気や障がいといったものの境目が流動的であるということを表していると思います。

 続けて「治る」、あるいは「治療」ということについての文章を引用してみます。

よくクライアントの方は「治ったら、スッキリして悩みもなくなって、きっと楽になるはずだ」と考えがちですが、実際は、あるべき悩みを悩むようになる。それが、「治る」ということなのです。
 このことを別の言い方で言えば、抑圧しているときには「病的な安定」。「病的な安定」から、「健康な不安定」の方にもっていく作業をすること、それが治療本来の姿です。


  これもまさに僕の先生が言っていたことと同じ事で、何らかの疾病を患っていても健康な人もいれば、疾病は患っていなくても不健康な人もいる、ということと同じ事を表しているのだと思います。

 では、「健康な不安定」の方にもっていくにはどうすれば良いのか、ということについて、様々なアプローチで(その中には聖書の話もあり、著者は一般的な考え方ではないかも知れないが、と断りつつ書いていましたが、そこに書いてあった解釈は自分と同じ解釈でした)、いかに「考える」ことを重視してしまっているかについて指摘し、そこから離れて、「感じる」ことが出来るようになるのかを述べています。
 
 違う表現や違う内容を扱ってはいるものの、最終的に著者が伝えようとしていることは何かというと、この言葉なのではないかと思います。 

エックハルトが)「わたしは生きるがゆえに生きる」と言っているように、命そのものには本来、意味や目的はないのだということなのです。

 
 あらゆるものに意味や目的を求められる現代において、この言葉が最も重要だと思います。
 そもそも生まれてきたこと自体が意味のあることで、命があるということが生命に取っての目的なのだから、それ以上目的や意味などない。
 心だとか、感覚を信じて、ただ生きるということをしていければそれだけで良いんだ、と今生きているということを改めて肯定される内容でした。