映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

武田砂鉄『紋切型社会』

 ちょっとした時間が空き、喫茶店に入るまでもなかったので、ふと、駅前にあった小さな本屋さんに入ってみました。
 大きな本屋さんに行くのはとても好きなのですが、その本屋さんは、すごく小さなスペースに、店主(あるいは書店員)の趣向、思考がくみ取れるような本棚になっていました。
 駅前の本屋さんというと、どこも代わり映えしないような店内のところという印象を持っていたので、久しぶりに心がワクワクするような気持ちになりました。
 その本屋さんの棚で見つけたのが、この本です。

 単行本で出た時から知ってはいたのですが、文庫になったということで、何冊も並んでいました。 

 


紋切型社会 (新潮文庫)

 

武田砂鉄 『紋切型社会』 | 新潮社

内容(新潮社ホームページより)
何気なく耳にするフレーズには、実は社会の欺瞞が潜んでいる。「うちの会社としては」の“うち”とは一体誰なのか。「育ててくれてありがとう」が貧相にする家族観。「国益を損なうことになる」は個を消し去る。「会うといい人だよ」が生む閉鎖性。「なるほど。わかりやすいです。」という心地よい承認の罠。現代の紋切型を解体し、凝り固まった世間を震撼させる、スリルと衝撃のデビュー作。

感想
 去年あった『新潮45』に関する一連の出来事で、新潮社の本を買うことは控えていたのですが、そのことを忘れて買ってしまいました。
 が、結果的には、新潮社の本ですが、逆に新潮社の気合いというか、気概のようなものを感じることが出来たので、今後は新潮社の本を買わないというルールは、もうやめても良いかな、と思いました。

 さて、何故この本を手に取ったのかというと、そもそも著者の武田砂鉄さんのコラムが好きだからです。
 cakesでの連載(ワダアキ考〜テレビの中のわだかまり〜)は毎週楽しみ読んでいて、新聞やWebなどで書いているのを見つけてはいつも興味深く読んでいます(たまにラジオにも出ているのを聞くことも)。

 武田さんのコラムが良いな、と思い始めたあとに、そのとき僕が働いていた学校の卒業生だということを知り、親しみも感じるようになりました。

 今回の本は、その武田さんの初めての単著になります。

 気になったいくつかの箇所を引用してみたいと思います。
 まずは、「家族」「結婚」、そして「自民党憲法案」について書かれたコラムです。
 

現行は「夫婦は協力して婚姻関係を保ちましょう、でももし難しければ、その時も平等にやりましょうね」という方針。ところが、自民党改憲案では、家族は「社会の自然かつ基礎」であり、「互いに助け合わなければならない」と明記されている。法律が「ならない」という口を持ったからには、「できない」時への対応が新たに生じる。その対応とはいかなるものになるのだろう。
 父がいて、母がいて、子どもがいる。その当たり前を伝統的家族像として設定する政権は、「面倒だしやっぱり育児は女性がやってよ」という内心を「3年間抱っこし放題」と名訳して再度宣言してみせた。役割分担の押しつけが堂々と閲歩している理由を訪ね歩くと、「オフィシャルな時に外向けに使う家族観」に行き着く。


 この「オフィシャルな外向けに使う家族観」に苦しめられてきたな、と、外から見たらその家族像に当てはまるだろう家族とともに過ごしてきたけれど、改めて感じます。
 僕は、「父がいて、母がいて、子どもがいる」という家族と共にいました。
 その意味ではその家族観に当てはまります。
 けれど、その中身は、僕が主夫で、妻の姓に改姓した側(先日も「(サザエさんの)マスオさんだったの?」と聞かれました…。)というものでした。

 そのどっちかが「シュフ」で、どっちかが姓を強制的に変更しなければならないという「不均衡」「不平等」には目をつむり、あたかも「結婚」や「家族」がそのまま「自然」だったり「幸せ」と結びつけられる。
 そこでは、どちらかが姓を強制的に変えさせられたということも、同じように仕事をしているにも関わらず家事育児を一方的に押しつけられていることも、稼ぐということを一方的に押しつけられていることも、ないものにされています。

 そのことを武田さんは自民党改憲案を持ち出すことはもちろんのこと、ゼクシィなどの「結婚情報誌」などから、「それ、ちょっと違うように感じるんだけど?」と疑問を投げかけています。

 例えば、就活に関してはこんな文章が書かれています。

シューカツでメンタルをやられやすいのは、否定され続けるからではなくて、肯定したのに否定され続けるからだ。
 胸を張れるほどの肯定を自分の人生から引っ張り出すことは簡単ではない。しかもその私的な肯定を必死に公的化しなければいけない。おばあちゃんが病に倒れた時、真っ先に病院へ駆けつけた話をしても面接官には響かない。オリジナルブレンドでは「肯定」を作れないから、ガイド本を手にして、推奨されている肯定に準じていく。

 
 自分が就活をしていたり、それが終わったばかりの時だったので、すごく印象に残る言葉でした。
 無理矢理、世間というか企業で決まっている(と思われる)型にはめて自分を肯定的に語ることが求められ、その挙げ句にそれを否定される。
 そもそも、「世間一般」とか「みんな」とか「一緒」とかいう言葉に警戒心や嫌悪感を抱くような自分にとって、何が苦しいのかということをそのまま言語化してくれているように感じました。

 他にも秋元康がプロデュースするいくつかのアイドルグループを巡るあれこれ(この本ではのこぎりでの刺傷事件について書かれているけれど、NGT48も行き着くところは同じ)だったり、「言葉」についての考察も見事だと感じました。
 「言葉」についての考察は引用自体が長くなってしまうので割愛し、沖縄の在日米軍司令官に「風俗業をもっと活用してはどうか」と発言した(参照:【続・沖縄ワジワジー通信(2)】 あったことをなかったことにすること――whitewash | タイムス×クロス 金平茂紀の新・ワジワジー通信 | 沖縄タイムス+プラス)件についての文章を引用してみます。

 

中でも森岡正博の指摘に大いに納得させられた(『毎日新聞』2013年5月16日夕刊)。橋下発言を「男もバカにしている」と題し、「女性観というより男性観が貧困。米軍の男性兵士でも結婚し子供がいて風俗の利用を拒否する人もいるだろうし、過酷な訓練をしても性欲が増さない草食系もいるかもしれない」と解説している。無難な指摘ではある。しかし、橋下の発言自体にはもちろんのこと、受け取る側にもこの当たり前の指摘をする者はいなかった。(略)男性から男性に対して冷静に提出された、ほぽ唯一の真っ当な反意だった。
 橋下の男性観、「男性=性欲=女が必要」という無謀な数式は「そんな本音は言っちゃいけないよ」と受け止められた。米兵による婦女暴行事件の予防のために「溜まった性欲を解放する必要がある」ことを本音ベースでは承認していた。(略)
 性欲を考える時、「性」と「欲」を分離して考えるべきなのだ。性にはあらゆる種類があるのと同様に欲にもあらゆる種類がある。


  引用文冒頭に出てくる森岡正博さんは、現在早稲田大学の教授で、この当時(2013年)は大阪府立大学の教員でした。
 僕は、大学&大学院で生命倫理を学んでいたので、森岡さんの本は大体そのときに読みました(指導教授の指導教授が森岡さんに論破されてた)。

 森岡さんの指摘は「無難な指摘」だと思います。
 けれど、そもそもその「無難な指摘」をする人さえいませんでした。
 武田さんが書いているように、「男性=性欲=女が必要」というのが男性で、「女性をなんだと思っているんだ!」という批判は沢山ありましたが、「男には女(性欲を発散するために風俗)が必要」だということは「本音」だとされ、「そんな本音は言っちゃいけないよ」と受け止められていました。

 それに対して、男性ってそんなのばっかりじゃないけど?という人はいませんでした。
 性欲があったとしても、それを発散出来る場がなくても、風俗など必要ない男性は沢山いるし(というか、この部分の「男性」を「女性」に置き換えてもらってもいい)、そもそも、性暴力が男性の性欲に基づいているという認識も間違っている。
 性欲と性暴力は関係がない(そのことについては、 斉藤章佳『男が痴漢になる理由』を読んで下さい)。
 
 そういう、「それ、ちょっと違うように感じるんだけど?」ということを1つ1つ拾い上げていっているのがこの本に載っているコラムになります。
 それに対していちいち口挟むなよ、という反応もあると思いますが、そういう態度を取られてしまうからこそ、「それ、ちょっと違うように感じるんだけど?」ということをいちいち言っていくことの大切さが分かるようになっています。

 それは、最後にこの文庫化に当たって、新潮社への批判も掲載されていることからより鮮明になっています。
 自社が文庫化して出版する際に、わざわざ自社の批判を載せる。
 武田さんが書いている指摘はもちろんのこと、新潮社の中にもこの本(コラム)を改めて載せて出版しようとする人がいる、ということに社会への気概を感じました。