映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

鈴木大介『脳が壊れた』

 著者の鈴木大介さんの他の作品をいくつか読んだこともあって、いつか読もうと思ってはいたのですが、先日紹介した荻上チキ、ヨシタケシンスケ『みらいめがね それでは息がつまるので』でチキさんが触れていたので読んでみました。

 


脳が壊れた (新潮新書)

 

鈴木大介 『脳が壊れた』 | 新潮社


内容(新潮社より)
41歳の時、突然の脳梗塞に襲われたルポライター。一命は取り留め、見た目は「普通」の人と同じにまで回復した。けれども外からは見えない障害の上に、次々怪現象に見舞われる。トイレの個室に老紳士が出現。会話相手の目が見られない。感情が爆発して何を見ても号泣。一体、脳で何が起きているのか? 持ち前の探求心で、自身の身体を取材して見えてきた意外な事実とは? 前代未聞、深刻なのに笑える感動の闘病記。

勝手に五段階評価
★★★★★

感想
 著者の鈴木大介さんはいわゆる「貧困問題」のルポをたくさん書いてきた方です。
 ブログには書いていない作品もありますが、『最貧困女子』(紹介した記事)、『家のない少女たち』、『最貧困シングルマザー』などを読んできました。
 その鈴木さんが41歳のある日、脳梗塞に襲われる。
 命は助かり、見た目は「普通」なのだけれど、出来ないことが沢山あり、リハビリして「回復」していく様子や、その時の思いや言語化出来ない苦しみや辛さを書いています。

 僕が何故気になっていたにもかかわらずこの本を読んでいなかったのかというと、脳梗塞の話だと分かっていたからです。
 脳梗塞は自分にとって身近な病気ではなく(近親者では血のつながっていない伯父が1人脳溢血を発症)、どこか「自分とは関係がない」、という気持ちがあったからです。
 けれど、うつ病を患っている僕は自覚してませんでしたが、この本を読んでよく分かったのは僕自身が「脳が壊れた」人間だということです。
 僕は脳梗塞を患っているわけではありませんが、この本の中に書かれている鈴木さんの経験や思いは、僕の体験ととても似ていました。

 たとえば、冒頭で鈴木さんはこう書かれています。

 さらに当事者自身がどう辛く感じているのかは、言語化が極めて難しく、他者にその辛さを説明することが困難なのだということも痛感しました。
 これでは、仕事を失うこともあるでしょうし、家族の理解がなければ家庭崩壊も容易に招いてしまうかもしれません。なにより苦しいのに分かってもらえないというのは、本当に辛い経験です。 


 僕がこうしてブログを書いているのは、この「言語化」をするためです。
 誰かが読んでくれていると分かるともちろん嬉しいですし、反響があったり、「ブログ読んでるよ」と実際に声をかけてくれると、書き続けようと思います。
 けれど、ブログを書き続けている一番の理由は、自分が「辛い」ということを言語化することがとても難しく、実際に家族(というか元配偶者)には理解されず、家庭崩壊を招いてしまったからです。
 今は1人で暮らしていて、気軽に話せる、しかも「自分は辛い」「苦しい」と言える相手がいないので、こうしてブログに書くことで「言語化」しています。

 鈴木さんがその言語化できないことの辛さをこう書いています。

最も僕を苛んだのは、心の中が常に表現の出来ない感情で一杯一杯になって、はち切れそうになってしまうという、これまた他者にむけて表現のしようがない苦しみだった。
(中略)
 夜になってベッドに入って寝ようにも、何かに追われて焦っているときのような感情で胸が一杯になり、呼吸は浅く速くなり、じっとしていると、いっそ死んでしまったほうが楽なのではと思うほどに、心が辛く痛く、居ても立ってもいられない。闇雲に動いてみても、身体中をかきむしってみても、その苦しみからは逃れられない。
 人間の心は具体的に見て触れる器官ではないが、そこにこれほどまでに痛みを感じる痛覚があることを、僕は改めて認識した。
 これは塗炭だ。
 しかも、ただ「心がざわめく」というだけで、その原因が不明となると、これはまさに今まで僕が取材し続けてきた「社会的に生きづらい人」、メンタルを病んだ人たちの訴える不定愁訴ではないか。


 ここに書かれていることは、まさに今でもたまに僕の身に起きていることです。
 再び病院に通い、抗うつ薬の効果が出てくる前の僕は毎晩ここに書かれていることが起きていました。
 辛く、苦しく、「身体中をかきむしってみても」逃れることが出来ない。

 そんな状態の僕がどうしたら良いのか、そのヒントもこの本には書かれていました。
 ダルク女性ハウス施設長の上岡陽江さんとNPO法人リカバリーを主宰している大嶋栄子さんの共著『その後の不自由――「嵐」のあとを生きる人たち』医学書院)に触れつつ、こう書かれています。

そこには薬物依存のみならず様々な生きづらさを抱えた当事者やその周囲の支援者に向けて「様々な距雛感のところに自分の応援団を持とう」という考え方が示されていた。「一番身近なところに強い応援団を持とう」ではないところが大きなポイントだ。
 人は誰しも独りで生きていくのは大変で、やはりいざというときに頼れる人が身近にいることは非常に大事なことだが、かといって一番身近な人が一番「頼りたい」相手かというとそうでもない。


 荻上チキさんの『みらいめがね』では「何かに依存するのを無理にやめるのではなく、むしろ依存先を増やすことによって分散することが重要なのだ」ということは「『理屈では』とうに知っていた」けれど、「いざ自分が、『当事者』となった時、そのあまりの重圧に驚いた」という部分に該当するものだと思います。
 けれど、チキさんが書いているように、「いざ自分が、『当事者』となった時、そのあまりの重圧」に、結局誰にも何も言えないような僕のような人間はどうしたら良いのか。
 

 もしあなたの近くに、孤独な当事者(高次脳や脳疾患者)がいるならば、もしその人があなたにとって人知れず自殺なんかされたら悲しくなってしまう相手ならば、まず「行動」してほしいのだ。
 もしかしたらその人も、面倒くさい鈴木大介と同様に、最も身近な人々に頼れない人かもしれない。恵まれた鈴木大介と違って、頼れる奥さんはいないし友達にも恵まれていないかもしれない。苦しみを具体的に言語化することは多くの人にとって非常に難しいことだから、できなくて当然だ。
 であれば、「助けてほしい」の声を待つのではなく、「大丈夫?」と聞くのでもなく、その人がしてほしいだろうことを黙ってやってあげてほしい。
 なぜなら面倒くさい性格の僕たちは、「大丈夫?」と聞かれたら、大丈夫と答えてしまう。「何かしてほしいことある?」と言われたら「大丈夫自分でやれる」と言ってしまうのだ。だから、聞かずにやってほしい。


 この文章を読んで、救われた気がしました。
 自分から苦しい、辛いと言えない自分はやっぱりダメなのか、と。
 けれど、鈴木さんは、自分で助けを求めることの、言語化して誰かに伝えることの難しさを実感し、説きながら、苦しんでいる本人に「助けを求めなさい」とは言わず、周りの人に、逆にお願いしています。
 もし、その人が突然死んでしまって悲しいと思うようなら、とにかく、その人がしてほしいだろうことをやってあげて、と。

 平時ならば、頼まれてもいないことをするのは差し出がましいのではないか? 押し付けがましいのではないか? という気持ちが先に立つものと思う。だが本当に追い込まれた人間は、助けての声が出なくなる。そして、「してほしいことある?」と聞かずに一方的にやってくれることが、ようやく助けての声を絞り出すためのプロセスになる。
 何より、温かくありがたいのだ。

 
 僕は去年から少しずつ自分で苦しい、辛い、ということを言うことが出来るようになってきました(あくまでもそれ以前よりはですが)。
 でも、やっぱりすごく辛くて苦しい時がある。
 そういうときは、何も言えなくなり、誰にも何も言えなくなる。
 そして、「大丈夫?」と聞かれても「大丈夫」と答えてしまう…。

 鈴木さんのお連れ合いもこれに関係することについて書いていました。

心の痛みというものは、今日は本当につらくて死にたくて、明日もつらいかもしれない。でも明後日になったら一気に楽になっているかもしれないという部分があって、それの繰り返しです。なので、必要なのはただそばにいて、大丈夫だからと言い続けてあげることしかないように感じています。


 この「ただそばにいて、大丈夫だからと言い続けて」くれる人の存在が本当に重要です。
 去年の僕にとっては母でした。
 母はただただ繰り返し「大丈夫だから」と言ってくれました。
 ただただ涙を流している僕に「大丈夫」と言い、「死にたい」という僕に「大丈夫」と言い、「生きていける気がしない」という僕に「大丈夫」と言い続けてくれました。

 自分の苦しさや不自由感を言葉にして相手に理解してもらうことが出来なければ、独りぼっちになってやはり生きるのを諦めたかもしれない。 
 障害を乗り越えて強く生きる道!を示せずに情けない話ですが、脳が自分の思い通りに機能してくれない苦しさとは、そういうものなのです。


 母は「大丈夫」だと言い続けてくれた身近な人物ではありますが、このブログのことは知りませんし、今後も教えるつもりもありません。
 やっぱり言語化するのは難しく、苦しさや不自由感を理解してもらうのはとても難しく、それは「大丈夫」と言って支えてくれた人物であってもです。
 「一番身近な人が一番『頼りたい』相手」でもないからです。
 ということで、また最初に戻りますが、僕は自分の苦しさや不自由感をなんとか言語化する一つの方法としてこのブログを書き続けているのだと思います。