映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

あいちトリエンナーレ

 何かと騒がれている、あいちトリエンナーレ、行ってきました。 

 

aichitriennale.jp


 騒がれる前から僕は行くことを決めていて、1DAYチケットを事前購入していました。
 事前購入していたのは、今回の芸術監督である津田大介さんのメールマガジンを購読しているからです。
 東日本大震災後に始めた津田さんのメールマガジンを購読するようになり、津田さんが芸術監督になる前からの活動、そして、芸術監督への要請を受諾する様子、開催までの働きをメールマガジンで読んでいました。
 なので、(独り身になって)身軽になったので行けるなということで、事前に1DAYチケットを購入していました。

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 騒がれている発端となる「慰安婦像」(本当の名前は「平和の少女像」)、河村名古屋市長、菅官房長官の発言、文化庁の判断と、色々言いたいことはあるのですが、それを書いていると、あいちトリエンナーレ自体のことを書けなくなってしまうので、とりあえず飛ばします。

 今回、会場とされている愛知芸術文化センター名古屋市美術館、四間道・円頓寺豊田市美術館豊田市駅周辺をなんとか1日で巡ることが出来ました。

 今回の「表現の不自由展」への対応への抗議として展示中止となっていた作品が少なからずあったのはとても残念でしたが、僕の中にあった「アート」というものが、もの凄く狭いものだったんだな、と気付かされました。
 それだけでなく、この場から早く出て行きたい、けれど、動くことの出来ない、という作品もありました。

 それがどの作品なのかは、行った人と共有したいと思いますが、間接的に、シンプルに言えば、僕の中で「マイナス」、「負」、「隠さなきゃいけない」と思っていたものも、「一つの『表現』(アート)としてあり得る」ということを知りました。
 僕の中でマイナスでしかなく、負であり、隠さなきゃいけないと思っていたものが、展示されていることによって、逆に誰かの心を揺さぶることがある。

 実際に揺さぶられてしまって、この場から出て行きたい、けれど動くことが出来ない、という体験をしました。
 僕自身はアーティストではないものの、「負」だと思っていたことも、照らし方によっては全く違うものになるのだな、と体感しました。

 あと10日ほどで開催期間が終わってしまうので、まだ行っていない人には行ってみてもらいたいと思います。

 ちなみに、名古屋には幼少期(ほぼ記憶にない)含め、今回で4回目の訪問でしたが、今までは仕事の関係でとんぼ返りだったり、夜中に泊まるだけに立ち寄ったりだったので、1日名古屋市内を歩き回れたのが良かったです。
 歩いたのは昼間ですが街の様子がわかって、ここは夜になるとこんな感じになるんだろうな、とか大通りの雰囲気、あいちトリエンナーレの会場になっている四間道・円頓寺など、様々な名古屋市を感じられたのもとても良かったです。