最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』
先日寄った本屋さんで最果タヒさんの詩集が気になったのですが、単行本で高いので買おうかどうか悩んでいたときに、ちょうど新聞で最果タヒさんの言葉が2日続けて紹介されていました。
紹介されていた言葉が良かったので、詩集ではなかったものの文庫だったので手に取って読んでみました。
きみの言い訳は最高の芸術 (河出文庫)
内容(河出書房新社より)
いま、もっとも注目の作家・最果タヒが贈る、初のエッセイ集が待望の文庫化! 「友達はいらない」「宇多田ヒカルのこと」「不適切な言葉が入力されています」他、文庫版オリジナルエッセイも収録!
勝手に五段階評価
★★★★★
感想
この本は詩集ではなく、あくまでもエッセイで、とても特徴的な文体なのですが、それでいて読みづらさを感じさせることはなく、気になった文章を付箋をしていたら付箋だらけになってしまいました。
まずは今、何故僕が詩をこんなにも読みたいと思っていて、Instagramでも自分の詩や短歌を書くようになったのか、ということを鏡に反射されるかのように感じた文章を載せてみます。
でも、とにかく孤独である人にとって、世界との関わり方がわからない人にとって、好きなものを見つける、というのは孤独や孤立感からの突破口だと思う。
今、すごく孤独です。
そして、世界との関わり方もわかりません。
けれど、小さな時から詩のようなものを自分で書いてきたのと、誰かが書く詩を読むのも好きです。
また、写真を撮るのも好きで、その二つが組み合わさった結果、Instagramで写真と共に詩や短歌を載せるという形になった気がします。
まだまだ突破口になっている感覚はないのですが、振り返ったときに突破口になっていれば良いな、と思います。
今までは、なんというか、自意識が邪魔をして、「僕はこれが好きです」ということを表明することがすごく恥ずかしかったのですが、そんな自意識はただの自意識でしかなく、そして、孤独だからこそ、自意識など気にしている場合じゃなくなったので、載せることが出来るようになったのだと思います。
何故僕がとりわけ詩が好きなのか。
そして、なぜ、僕がブログを書いたり、詩や短歌を書いたりと「言葉」にこだわるのか。
二つの文章を続けて載せてみます。
小説や新聞の言葉が、物語や情報を伝えるために書かれるのに対し、詩にはそうした目的がない。そして、だからこそ私は、言葉によって切り捨てられてきたものを、詩の言葉でならすくいだせると信じている。詩の言葉は、理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけれど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。
言葉はきみの生中継。どんなことでもいいから話してほしい。うまく言えないことをうまく言えないまま、言葉にしてほしい。人と向き合うたびにそんなことを思う。だって、それ以外に人がその人らしく言葉を使う瞬間なんであるんだろうか。へたくそさが、あいまいさが、きみの細胞なんだと思っている。うまく話せないときほど、言葉の近くにいる感じがする。
詩をInstagramに載せ始めたとき、やっぱり自意識が邪魔をしていたのですが、この文章を読み、背中を押してもらったがします。
「詩の言葉は、理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけれど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。」「うまく話せないときほど、言葉の近くにいる感じがする。」
うん、うまく言葉に出来ないし、理解されることを必要としていない部分があって、やっぱり言葉、詩って良いな、と改めて思いました。