映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

角田光代『愛がなんだ』

 映画で観ようと思っていた作品(映画『愛がなんだ』公式サイト)なのですが、Amazonで詩や小説などを探していたら評価が高かったので、原作を読んでみることにしました。
(映画の方はまだAmazonプライムで無料で観られるようになっていないので観ていません)

 


愛がなんだ (角川文庫)

 

愛がなんだ 角田 光代:文庫 | KADOKAWA

 

内容KADOKAWAより)
OLのテルコはマモちゃんにベタ惚れだ。彼から電話があれば仕事中に長電話、デートとなれば即退社。全てがマモちゃん最優先で会社もクビ寸前。濃密な筆致で綴られる、全力疾走片思い小説。

勝手に五段階評価
★★★★☆

感想
 タイトルからてっきり甘い恋愛物語だと思っていたのですが(表現が古い)、ますます映画を観たくなる内容の話でした。
 KADOKAWAの紹介ページにあるようにこの作品「全力疾走片思い小説」という表現が最もしっくり来る内容でした。
 さらに、主人公テルコの「全力疾走片思い」振りに目が引かれるものの、ふと思うとこの作品の登場人物たちのどの人も「片想い」なことに気づきます。
 テルコもテルコが好きなマモちゃんも、テルコの友達の葉子のアッシー(分からない人はググって下さい)みたいな扱いをされてるナカハラくん。
 その誰もがみんな「片思い」をしています。

 その中で、特にテルコがナカハラくんを深夜呼び出してラーメン屋さんでのシーンがとても印象的でした。

でも、思ったんすよ。純粋に人を好きでいるってどういうことなのかって。そしたら、ぼくやバナリパ男みたいに、物欲しげにうろついてんのってちがくないかって


 バナリパ男というのは、ナカハラくんが思いを寄せる葉子が今アッシー的にしている存在のバナナリパブリックの洋服を着ている男のことです。
 ナカハラくんはナカハラくんなりに葉子に近づくことを諦めるというか辞めることしたことを語るのですが、ラーメン屋さんを出た後にナカハラくんはこう言います。

夜半に無性に人に会いたくなるのは、ぼくとか、テルコさんみたいな人種なんすよ。そもそも突然たまらなく人恋しくなるような人だったら、ぼくらみたいな行動に……って、まあ程度の差はあるだろうけど、ぼくらみたいなこと、なんかしらしてますよ。そうならない人だから、ぼくらみたいのが寄ってっちゃうんすよ


 結局、葉子と自分は違う存在なのだ、と。
 そもそも葉子のような人は夜半に無性に人に会いたくなったり、突然たまらなく人恋しくなるような人ではないのだ、と。
 そして、だからこそ、ナカハラくんのような人が寄っていくのだけれども、葉子のような人はそもそも夜半に無性に人に会いたくなったり、突然たまらなく人恋しくなるような人ではないから、ナカハラくんのような存在が必要ではないのだ、ということです。
 ナカハラくんと別れた後、テルコはこう回想しています。

たぶん、自分自身に怖じ気づいたんだろう。自分のなかの、彼女を好きだと思う気持ち、何かしてあげたいという願望、いっしょにいたいという執着、そのすべてに果てがないことに気づいて、こわくなったんだろう。自分がどれほど痛めつけられたって、傷ついたって、体がつらいと悲鳴をあげたって、そんなのはへのカッパなのだと、じきに去っていくであろうパナリパ男を見て知ってしまったんだろう、きっと。


 自分がどれだけ痛めつけられたって、傷ついたってそんなのへのカッパである葉子に対しての気持ちの強さに怖じ気づいたのだろう、と。
 さらに言えば、その自分の気持ちの強さに怖じ気づくだけでなく、決してそれを葉子が受け止めることがないということが分かったのだと僕は思いました。
 それが先に出てきた、葉子は夜半に無性に人に会いたくなったり、突然たまらなく人恋しくなるような人ではない、「そうならない人」だという表現に表れていたと思います。

 そこに気づいてしまったから、離れるしかないと考えたのではないかと。
 それは怖じ気づくのとはちょっと違うような気がします。
 誰かに思いを寄せること自体は自分自身のことなので、どれだけ尽くしたとしても平気です。
 けれど、その気持ちを表しても、伝えても相手はその気持ちを受け止めてくれることがない。
 だからこそ、ナカハラくんは葉子から離れようとしているだと僕は思いました。

 最後に、一番沁みた言葉を載せます。
 

仕事に何も求めていないのに、仕事が私を救ってくれることがあるのだとふいに知る。


 すごくシンプルで短い文章ですが、あるよねぇ、と深く染み渡る言葉でした。