映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

ハ・ワン『あやうく一生懸命生きるところだった』

  昨日ぼそっと書きましたが、毎日ではないですが「仕事辞めたいなぁ」と思いながら、過ごしています。
 それと、COVID-19の影響で9~15時勤務になったので、無駄に考え事をする時間が出来てしまったのも、あんまり良くないんだろうな、とも思うのですが、よく考えたら、今の生活、高校3年生の時の生活と殆ど同じだなぁ、と思ったら少し楽になりました(受験がなかったので)。
 家事はしなくちゃいけないし、職場でのストレスもありますが、高校にもクソみたいな教師やクラスメイトはいたし、授業中は寝るか本読んで(ここも今と違う)、家に帰ったら、映画観て、本読んで、寝るという生活を送っていました。
 でも、今は家に(元々そんなに何か言ってくる人たちではないけれど)親もいなし、何よりも仲の悪い兄もいないし、お金も自由に使えて、ある程度好きな時に好きな場所に行けて、その時の気分でささっとお店に行って買い物したり、食べたり出来る。
 高3の時は、うつ病じゃなかったし、いつまでも眠れていて、もしかしたら、今の生活が続けば、うつ病も不眠もなくなったりして?とか思ったりしています。

 ということで、読みたい本をたくさん読める時間が出来たので、気になったこの本を読んでみました。


あやうく一生懸命生きるところだった

 

あやうく一生懸命生きるところだった | 書籍 | ダイヤモンド社

内容ダイヤモンド社より)
「正直なところ、この選択がどんな結果を生むのか僕もわからない。“頑張らない人生”なんて初めてだ。これは、僕の人生を賭けた実験だ——」。韓国で25万部超のベストセラーが待望の邦訳! 他人の目を気にせず、自分らしく、頑張らずに生きることを決意した著者が贈る、生きづらさを手放すための言葉

勝手に五段階評価
★★★★★

感想
 タイトルの通り、率直な感想としては僕も「あやうく一生懸命生きるところだった」と思いました。
 そして、職場でストレスを感じると、この言葉を頭の中で暗唱し、家に帰ってもモヤモヤするのですが、その時も呪文のように唱えています。
 先日も珍しく寝付きが悪かったので(僕の不眠の症状は中途覚醒なので寝付きは良いです)、この言葉と「多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。」を思い出しながら寝ました。

 先日のオンライン飲み会でもそうだったのですが、離婚したことをみんなが「触れてはいけない話題」、つまり僕を「かわいそうな人」と思っているようで、僕はそれが少し悲しかったです。
 離婚しても別に僕は「かわいそう」でも「不幸」でもありません。
 子どもたちになかなか会えませんが、子どもたちの方が適応力があるようで、COVID-19による緊急事態宣言が出た直後、子どもたちに電話したら、「えっ?何?全然大丈夫だよー」と三人とも言っていました。
 なので、僕も「それならオッケー!いつでも連絡してね。」と言って終わりました。
 ということで、(ストレスは感じるものの)まぁ、ひとりで暮らしていけるお金をもらえる仕事はあるし、何よりも今は時間もたっぷりあって、映画や本を読んだり、散歩に行けて中々快適な生活を送っています。

 この本の中で良いな、と思った箇所はいくつもあるのですが、今のこの情況を端的に表しているのはこれかな、と思います。

みんなが正しいと信じる価値観に同意しない者への暴力。
なぜまわりに倣わない? 説明してみろよ。


 多くの人が「外出自粛」している中、「いつも通り」過ごしていることへの批判的な目。
 法律を犯しているわけでもないのに、何故か「みんなが正しいと信じる価値観に同意しない」で過ごしているだけで向けられる暴力性。
 その、「みんな」が「マジョリティ」だからこそ、「マイノリティ」はいつだって「説明」が求められる。

 でも、もう正直、うんざりなんですよ。
 僕はこれまでいろんな意味でマイノリティでした。
 そもそも生まれたときから親は高齢だったし、祖父母は明治生まれだったし、母親は10人きょうだいの末っ子だったし、父方がクリスチャンということで、幼児洗礼を受けていたので、クリスチャンということになっていたし。

 大学に進むときは、当時学部生全体が1万人くらいの中、キリスト教学科という1学年で50人くらいしかいない学科に進み(これは僕が幼児洗礼を受けていたこととは全く関係なく自分で選びました。学内の人に「えっ?キリ科?初めて会ったわー」と何度言われたことか)、22歳で結婚し、さらに、妻側の姓に改姓し(「婿養子なの?」と聞くのは決まって男)、けれど、社会的には元の姓を使って生活し(履歴書にはわざわざ二つの名前を書かなきゃいけないし、クレジットカードも銀行口座も運転免許証も教員免許状もパスポートも戸籍名)、元妻がフルタイムで働いていたこともあり、(専業ではありませんが)子育て主夫として生活していたこと、さらに、うつ病になり、その上、今は離婚し、一人で暮らしている。

 そもそも「みんなが正しいと信じる価値観」に対してまず疑う、という気質の僕は、多くの場合「同意しない」という選択をしてきました。
 中学での「成績」という名の権威を振りかざした「正しさ」による教師の「暴力」と、それを「仕方がないこと」と受け止める人たちの多さにうんざりし、僕は実際にそれは「暴力」だし、一方的に「正しさ」を突きつけないでくれと、反論しました。
 今になれば、稚拙な方法だったかなということもしましたが。

 もう、何もかも「みんなが正しいと信じる価値観に同意し」ていないというだけで向けられる暴力。
 うんざりなんです。
 その「みんな」に説明する時間があったら(といっても説明した相手が必ずしも理解したり納得するわけでもない)、映画観て、本読んで、こうしてブログ書いて、あるいは、会いたい人に会いに行って美味しいものを食べたい。

 人生って、それだけで十分なんじゃないかな、と。
 ということで、「あやうく一生懸命生きるところだった」ので、自分のペースで生きていこうと思います。
 といっても、それでも周りの目、同調圧力はあるんですけど、なんとか切り抜けながら、切り抜ける方法を模索しながらいければ良いな、と思います。