映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

萩本創八、森田蓮次『アスペル・カノジョ(1)』

 普段から「発達障害」だとか、あるいは最近だと「HSP」関連の本を読んでいるからか、オススメ作品として表示された漫画です。
 タイトルがそのまんま「アルペル・カノジョ」なので、アスペルガーの彼女が出てくる話だということは分かったのですが、ちょっと調べてみたらレビューの評価も高かったので手に取って読んでみました。
 


アスペル・カノジョ(1) (コミックDAYSコミックス) Kindle版


「アスペル・カノジョ」既刊・関連作品一覧|講談社コミックプラス


内容講談社ホームページより)
新聞配達で生計を立てている売れない同人作家・横井の家へ、鳥取から突然やってきたのは「ファンだ」という少女・斉藤さん。彼女は見ているもの・感じている事・考えやこだわりが、他の人と違っていて……。これはそんな「生きづらい」ふたりが一緒に暮らして、居場所を探す、日々の記録。

感想
 表紙だけでは分からなかったのですが、絵が自分にはちょっと苦手というか、慣れない感じではあったのですが、内容は興味深いものでした。

 主人公の横井は、自分が「発達障害」的な要素を持っていることを自覚していて、それもあって、沢山の他人と積極的に直接的に関わらないで過ごせるように過ごしている。
 今まで彼女がいたこともなく、バイトをして生計を立てながら漫画を描いて、漫画でも少し収入を得ながら生活をしている。

 そんな横井の自宅に突然やって来る横井の漫画のファンである斉藤さん。
 彼女の発言や行動に驚くものの、横井は自分自身でも「発達障害」という要素があることを自覚しているので、彼女の言動を受け入れていく。

 いくら自分が近い要素を持っていても、あるいは作品中で横井の口から語られるように、斉藤さんのような人を「引き寄せてしまう」経験を重ねてきたとしても、いきなり誰かが家にやって来て一緒に生活するというのはすごくハードルが高いことだと思うのですが、分からなくはない、という微妙な展開でもあります。
 今でも見かけますが、ネットスラングっぽく言うならば、横井がメンヘラホイホイで、斉藤さんがメンヘラということになるのでしょう。

 でも、この作品の良いところは、「メン」を強調するのではなく、あくまでもなぜそのようなことを斉藤さんがしようとするのか、したのか、ということを横井が理解しようとする姿です。
 メンタルがおかしいから行動もおかしいと決めつけることなく、1つ1つの行動を理解しようとする姿はとても素晴らしいと思います。

 けれど同時に横井が耐えきれなくなることはないのだろうか、とも思います。
 まだ、二巻までしか出ていないので、横井がどうなるのかを含めて今後の展開が楽しみです。

「LION/ライオン 25年目のただいま」

 名前も知らなかった作品なのですが、Amazonでのレビューの数も多く、評価もかなり高かったので見てみました。  


LION/ライオン 25年目のただいま(字幕版)

 

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映画『LION/ライオン ~25年目のただいま~』公式サイト


作品データ映画.comより)
監督 ガース・デイビス
原題 Lion
製作年 2016年
製作国 オーストラリア
配給 ギャガ
上映時間 119分
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより)
オーストラリアで幸せに暮らす青年サルー。しかし、彼には隠された驚愕の過去があった。インドで生まれた彼は5歳の時に迷子になり、以来、家族と生き別れたままオーストラリアへ養子にだされたのだ。成人し、自分が幸せな生活を送れば送るほど募る、インドの家族への想い。人生を取り戻し未来への一歩を踏み出すため、そして母と兄に、あの日言えなかった〝ただいま″を伝えるため、彼は遂に決意する。「家を探し出す―」と。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 ストーリーにあるように、インド出身のサルーがある日迷子になってしまいます。
 コルカタカルカッタ)に流れ着いた彼は、そこでサルーと同じように保護者がいない孤児院に入れられ、家族を探してもらうのですが見つからず、オーストラリア人夫妻に養子として迎え入れられます。
 大学で学ぶために実家のあるタスマニア島から離れて生活するようになったある日、インドでの幼いころの記憶が蘇ってきます。
 その蘇ってきた記憶を元に、友人の助言でGoogle earthで探し続け、身も心も人間関係もボロボロになった数年後にようやく見つける、という実話を元にした物語です。

 前半は5歳の少年サルーがインドで家族と暮らしていた様子や、迷子になる経緯が描かれるのですが、僕も1度インドを訪れたことがあるので、そのときの記憶が鮮明に蘇ってきました。
 僕が旅した時でさえ、迷子になるという不安がありましたが、5歳の少年なら当然のことで、エンディングクレジットによれば、インドでは毎年8万人の子どもが迷子になっているそうです。

 その後、親切にしてきた女性もいたのですが、不穏な雰囲気を感じ取り逃げ出す様子や、野宿をしながら街中をさまよう様子、そして、あたかも刑務所かのような孤児院での様子が描かれています。
 1980年代後半のこととは言え、ここで描かれている出来事は、日本でもインドでもあまり改善していないようにも感じます。

 その後、オーストラリアへ行き、20年の経過の後、インドの家族を探し始めることになるのですが、印象的なのは、もう1人の養子であるマントッシュの様子です。
 彼がどういう経緯で家族と離れてしまったのかは描かれていませんが、オーストラリアに来たことで益々彼は混乱してしまったようで、大人になってからも精神的に不安定な姿が描かれています。

 マントッシュを「おかしな人」と見ることは簡単ですが、むしろ幼い時に強烈な悲しみを体験していることを考えれば、当然の行動のようにも感じます。
 サルーは、インドの家族を捜し求めることに夢中になるけれど、誰にもその胸の内を語らないことで、恋人との関係が壊れるものの、精神的には落ち着いていて、人と関わることや、社会との関わりを拒否することなく、今いるオーストラリアという土地で、今の両親のもとで生きていくことを素直に受け入れています。
 むしろ、そのようなサルーのような人の方が、まれな、その後家族を見つけ出すことが出来たり、インドの母親とオーストラリアの両親との関係が良好に行くなど、幸運なのだと思います。

 インドの母親との再会や、迷子になったときに一緒にいた兄についての知らせを受ける場面では涙が出て来るような感動的な場面ではあったものの、同時に、やはり毎年8万人もこのような子どもたちが出てきていて、サルーのような人はその中のごく限られた存在であるということを忘れてはならないと思います。

レベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』

 「#MeToo」ムーブメントの中で新しく知ることになった「マンスプレイニング」という言葉があります。
 男を意味する「man」(マン)と解説を意味する「explain」(エクスプレイン)をかけ合わせた言葉です。
 一般的には「男性が、女性を見下す、あるいは偉そうな感じで何かを解説すること」とされています。(マンスプレイニング - Wikipedia

 この言葉やあるいはこの言葉を表す「男性が、女性を見下す、あるいは偉そうな感じで何かを解説すること」が一気に広がるきっかけになったとされているのが、この本です。
 著者自身は自分で「マンスプレイニング」という言葉を作ったわけでも、その言葉を使うこともないと説明していることは知っていたのですが、それでもどんなことが書かれているのかとても興味があったので読んでみました。
 


説教したがる男たち Kindle版

 

説教したがる男たち | 左右社

内容(左右社紹介ページより)
相手が女性と見るや、講釈を垂れたがる男たち。そんなオヤジたちがどこにでもいること自体が、女性たちが強いられている沈黙、世界の圧倒的な不公正そのものだ。今や辞書にも載っている「マンスプレイニング(manとexplainの合成語)」を世に広め、#MeTooへと続く大きなうねりを準備するきっかけのひとつとなったソルニットの傑作、待望の邦訳!
女性は日々、戦争を経験している。
どんなに頑張っても、話すこともできず、自分のいうことを聞いてもらおうとすることさえ、ままならない。
ここはお前たちの居場所ではない。
男たちは根拠のない自信過剰で、そう女性を沈黙に追い込む。
ソルニット自身がその著者とも知らず、「今年出た、とても重要な本を知っているかね」と話しかけた男。
彼にそんな態度を取らせている背景には、男女のあいだの、世界の深い裂け目がある。
性暴力やドメスティック・バイオレンスは蔓延し、それでいて、加害者の圧倒的割合が男性であることには触れられない。
女性たちの口をつぐませ、ときに死に追いやる暴力の構造をあばき出し、
想像力と言葉を武器に、立ち上がる勇気を与える希望の書。

感想
 最初に書いたように、マンスプレイニングという言葉がこの本や著者のレベッカ・ソルニットさんが作り出したと思われてしまうのがよく分かる内容でした。
 僕は「男性」だということもあって、日常的にマウンティングされたり、暴力の脅威を感じることはないのですが、女性たちがいかに日常的にマウンティングされ、暴力の脅威を感じているかが分かりました。
 また、僕にはちょっと馴染みがなかったバージニア・ウルフについて書かれている章では(バージニア・ウルフの記念講演を元にしているので唐突に出てくる印象は否めないものの)、これまで、具体的には19世紀から欧米で女性が置かれている状況と、今までの歩みが触れられていました。

 読み始める前は男性ばかりを批判するような、ミサンドリー(男性嫌悪)的な文章が出て来るかも知れないことに少し不安を感じていたのですが、事実に基づいた男性批判や指摘はあったものの、ミサンドリー的表現はありませんでした。
 たとえばマンスプレイニング的、あるいはマウンティング的な態度を取る人について以下のように書かれています。

そう、なにかのイベントに現れては見当違いな話や陰謀論をまくし立てる人間は、男女の別にかかわらず存在する。それとは別に、徹底して無知でありながら、完壁で挑戦的なまでの自信に満ちた態度というのは、私の経験では、特定のジェンダーと結びついている。男たちは私に、そして他の女たちに、説教したがる。自分が何を言っているのかよくわかっていなくても。そういう男は存在する。

 
 また、性暴力について触れた箇所ではこのように書かれていました。

この国も全地球も、女性に対するレイプと暴力であふれでいるが、だれもそれを市民権や人権の問題として扱わないし、危機とみなすどころか同一のパターンがあることすら気づかない。暴力の当事者になるのに、人種も階級も宗教も国籍も関係ない。でもジェンダーだけは別だ。
ひとつだけ言っておこう。ほとんどすべての性犯罪の加害者は男性だが、すべての男が暴力的だというわけじゃない。多くの男性は違う。それに男性が、しばしば別の男性の暴力の被害者になることだってもちろんあるし、どんな暴力的な殺人や暴行だってひどいものだ。女性がパートナー間暴力の加害者になることもありえるし、実際にそうしたケースもあるが、最近の研究によれば、女性による暴力が深刻な傷害を与えることはそれほど多くはなく、死に至るケースはまれだ。女性がパートナーの男性を殺害するのはしばしば正当防衛によるものである一方、親密な間柄で起こる暴力によって病院送りか墓場送りにされる女性は山ほどいる。


 引用したこの2つの文章とも僕はミサンドリー的要素は全くなく、単に事実を書いていると感じました。
 特に性暴力や暴力に関しては、的を射た指摘だと思います。
 以前、『男が痴漢になる理由』について書いたことがありますが、その本を読んではっと気付かせてもらったのは、痴漢が「よくあること」という自分自身の認識でした。
 痴漢という性暴力を「よくあること」、しかも、毎日被害者が無数に生まれているということには想像が及ばないばかりか、むしろ、冤罪に巻き込まれたらどうしようということだけを考えていました。

 レイプやDVが痴漢のように「日常的に起きている」というほど自分には身近には感じられたことはないものの、「暴力の当事者になるのに、(中略)ジェンダーだけは別だ。」という指摘は重要だと感じました。
 僕自身も時々感じいて、そして自分でも嫌悪している、男性性というものがこの理由になっているのかも知れないと思うと、それからは逃れることが出来ないので、絶望的な気持ちにもなります。

 だからこそ、他の章で触れられている、「レイプ・カルチャー」や「性的特権意識」というものが、特に男性たちに生まれてしまうのか、ということをより掘り下げてあれば良かったのですが、この本はあくまでも女性著者が自身の経験を踏まえ、この世界で日々起きている女性に対する暴力などに関して書いたエッセイを集めたものなので、科学的な根拠や男性自身が実際にどう対応していけるのかという実践方法は書かれていませんでした。
 このことは、少し残念ではあったのですが、「結婚」について、そもそも「結婚」という制度自体が持っている非対等性についての指摘と、対等な「結婚」への言及は、新しい気づきをもらいました。
 

ゲイ男性とレズビアンは、どんな性質や役割が男性的、あるいは女性的なのかを疑ってみせたのであり、その問いかけはストレートの人間をも解放してくれる可能性を持ったものだった。同性同士が結婚するとき、結婚の意味もまた同様に問いに付される。彼らの結びつきには、ヒエラルキー的な伝統は存在しない。このような関係を、喜びをもって迎える人たちもいる。いくつもの同性婚を執り行ってきた長老派の牧師は、私にこう語った。「まだカリフォルニアで同性婚が合法でなかった頃、同性カップルの結婚式をしたことがある。彼らに会ったとき、こう思ったのを覚えてるよ。古臭い家父長的な形式は、彼らの関係には見合わないものだってね。すばらしいことが起きるのを目撃した気持ちだったよ」。

 
 この指摘はとても重要だということと共に希望を感じました。
 数年内とは言いませんが、僕が生きている内に、日本でも同性婚が実現されることでしょう(「同性婚の合法化」、78.4%が肯定的 全国の20~59歳、電通調査:朝日新聞デジタル)。
 同性婚が実現することは、そのままセクシャルマイノリティの人たちが結婚出来るということだけではなく、「結婚制度」自体が持っている非対等性、家父長制的価値観が問い直される大きなきっかけになると思います。
 僕自身は結婚制度による、夫婦は同じ姓を名乗らなければならない、という夫婦間の非対等性に悩まされ、家父長的価値観に全く疑問を感じていない元配偶者との価値観の大きな隔たりから、離婚へと至りました。
 僕自身は結婚というのは2人の対等な関係のもとに成り立つものだと考えているのですが、それが実現するかも知れない1つの道として、同性婚というものがあるということを知り、とても希望を感じました。
 

「脅威を称えて」の章でも書いたが、同じジェンダーに属するふたりの人間が結婚できるという考え自体、フェミニストたちが結婚をかつての上下関係のシステムから解き放ち、平等な人間同士の関係として再創造したからこそ可能になったのだ。さまざまな事柄が証明しているように、結婚の平等に脅威を感じる人たちは、同性カップル間の平等だけでなく、ヘテロセクシャルカップル間の平等という考えもおそれているのだ。ひな鳥がねぐらに戻る話ではないが、解放というのはいろんな方向に伝染していくものなのだ。


  フェミニストたちの動きが同性間の結婚へとつながり、その同性間の結婚という動きが、結婚自体が持っている上下関係を解放する動きへとつながるということです。
 「解放というのはいろんな方向に伝染していくもの」というこれまでの歩みを確認しながら、自分も伝染させていきたいと思います。

「ぼくと魔法の言葉たち」

 Amazonで表示されたので覗いてみたらレビューの評価が高かったので観てみた作品です。
 


ぼくと魔法の言葉たち(字幕版)

 

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映画『ぼくと魔法の言葉たち』|4/8(土)よりシネスイッチ銀座他にて愛と希望の全国ロードショー!

作品データ映画.comより)
監督 ロジャー・ロス・ウィリアムズ
原題 Life, Animated
製作年 2016年
製作国 アメリ
配給 トランスフォーマー
上映時間 91分
映倫区分 G

内容(公式サイトより)
サスカインド家の次男オーウェンは、2歳から言葉を失い、6歳まで誰ともコミュニケーションを取れなくなってしまっていた。失意に暮れながら過ごす父と母は、ある日、オーウェンが発する意味をなさないモゴモゴとした言葉が、彼が毎日擦り切れるほど観ていたディズニー・アニメーション『リトル・マーメイド』に登場するセリフであることに気づいた。意を決した父が、オーウェンが大好きなディズニーキャラクターのオウムの“イアーゴ”になりきって語りかけると、まるで魔法のように、オーウェンが言葉を返した! 数年ぶりの息子の言葉にこみ上げる涙をこらえながら、イアーゴとしての会話を続ける父。こうして、父と母、そして兄による、ディズニー・アニメーションを通じた「オーウェンを取り戻す」ための作戦が始まった!

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 自閉症(広汎性発達障害?)のオーウェンがディズニー作品によって言葉を獲得していく様子を描いたドキュメンタリー作品です。
 ディズニー作品を沢山観てきたとは言いがたい僕ですが、ディズニー作品への愛着とか内容を把握しているかは、この作品には全く関係がありませんでした。
 様々なディズニー作品を、オーウェンオーウェンの家族が語る内容に合わせて、当てはめていく感じで使われていました。

 オーウェンが高校(?)を卒業する少し前から、卒業しひとり暮らしを始めるところまでの様子と、両親と兄にとっては晴天の霹靂かのようだったオーウェンが言葉を失い、また獲得していく様子と、成長していく彼を見守っていく中での出来事が語られます。

 すごく印象的だったのは、冒頭で流れる、オーウェンが2歳の時のホームビデオで、そこでは家族と一緒に楽しそうに過ごしている様子が写されていました。
 そこから突然、3歳になるとオーウェンは言葉を失います。
 ディズニー作品の台詞で言葉を再獲得していくまで、それが数年間続きます。
 この、2歳の時は特に他の子と変わらないように見える子どもが、そのあと突然言葉を失う、ということがあること自体、とても驚きました。
 こんなことをもあるのか、と。

 気になったのは、公式サイトなどで沢山出てくる「自閉症」という言葉です。
 オーウェンは確かに「変わっている」ように見えるけれども、彼が「自閉症」なのかどうかは医師の見解が述べられているわけではなく、受け答えもしっかりしているし、僕には彼が「自閉症」なのかどうかはよく分かりませんでした。

 フランスで行われた「自閉症」の国際会議(?)でオーウェンが講演する様子が映されるのですが、そこで語った言葉も印象的でした。
 「僕たちは他の人たちが望んでいることを望んでいます。けれど、その方法をちゃんと教えてもらってこなかったのです。」というようなことを言っていました。
 人と関わることを拒んでいる訳ではない、ということを語っていたのですが、これは「自閉症」に限らず、あらゆる人に当てはまるのではないかと感じました。
 いろんな事があって、人との関わり方をゆがめられてしまったり、関わることにおびえてしまうことがある。
 人と関わるということをサポートし、向き合ってくれる人がいれば、どんな人であっても、関わっていくことが出来るし、本来どんな人も人と関わりたいと願っているのだ、ということです。

 そのサポートや向き合ってくれる人がいるからこそ、オーウェンが僕には「自閉症」には見えないほどに言葉や人と向き合うことが出来ているのかな、と思いました。

カタン(カタンの開拓者たち)

 僕の母が子どもたちに会う機会を作り、実家に子どもたちが来たのですが、その際、長男から「お父さんも来れれば来てください」という連絡があったので、仕事もなかったので行ってきました。
(子どもたちとの面会は以前書いたように、子どもたちから直接連絡がない限りしておらず、今回初めて子どもたちから連絡が来ました。)

 子どもたちはSwitchなどを持ってくるかな、とも考えたのですが、前からちょっとやってみたかったボードゲームを持っていくことにしました。
 そのボードゲームとは「カタン」です。

 


カタン スタンダード版


 名前も知らなかったのですが、以前、毎日送られてくる勝間和代さんの無料のメールマガジンで触れられていて、ちょっと興味を持っていたのですが、自分だけがやるという気は起きなかったので、そのままにしていました。

まわりで、なかなかカタンが勝てないという人がいるので、カタンのちょっとしたアドバイス5つまとめました - 勝間和代が徹底的にマニアックな話をアップするブログ


 値段も2千円ちょっとだったこともあり、買って持っていくことにしました。
 子どもたちは数か月ぶりの祖父母(僕の両親)との面会だったからか、Switchなどゲーム機は持ってきていませんでした。
 なので、一緒にやってみることにしました。 

 

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 持ってきた僕自身も初めてだったので、ルールもよくわからず、始めるまではちょっと時間がかかりましたが、ルール説明の公式動画があるので、それを観たら子どもたちにもすぐにわかり、遊べました。

 どんなゲームかというと、手持ちの資源を基に、陣地を広げ、繁栄に応じて与えられるポイントで勝敗を決めるものです。
 はじめてみれば結構シンプルなゲームなのですが、運の要素も大きいので、年齢を問わないのもよかったです。

 子どもたちがすっかりはまり、結局4回遊んで、2回長男、1回次男、1回僕が勝ちました。
 今回は子どもたちと僕だけで遊び、まだやりたいと言っていたので、また子どもたちが実家に来た時に両親とも遊べるように、そのまま実家に預けてきました。
 子どもたちが楽しんでくれたので、良かったです。

「ありがとう、トニ・エルドマン」

 大学生の時に、「ぶみはユーモアが足りない」というようなことを言われたことがあります。
 自分でも自覚していて、バカ騒ぎではなく、道化師になれるようなユーモアが、道化師になりきれない変なプライド含め、今もユーモアが足りないなぁ、と思っています。
 そんな、ユーモアとは何かとか、ユーモアを持ちながら生活すること、生きることを描いたのがこの作品です。
 公開当初から気になっていてAmazonプライムで観られるようになっていたので観てみました。

 


ありがとう、トニ・エルドマン(字幕版)

 

youtu.be


映画『ありがとう、トニ・エルドマン』公式サイト

作品データ映画.comより)
監督 マーレン・アーデ
原題 Toni Erdmann
製作年 2016年
製作国 ドイツ・オーストリア合作
配給 ビターズ・エンド
上映時間 162分
映倫区分 PG12

ストーリー(公式サイトより)
悪ふざけが大好きな父・ヴィンフリートとコンサルタント会社で働く娘・イネス。性格も正反対なふたりの関係はあまり上手くいっていない。たまに会っても、イネスは仕事の電話ばかりして、ろくに話すこともできない。そんな娘を心配したヴィンフリートは、愛犬の死をきっかけに、彼女が働くブカレストへ。父の突然の訪問に驚くイネス。ぎくしゃくしながらも何とか数日間を一緒に過ごし、父はドイツに帰って行った。ホッとしたのも束の間、彼女のもとに、<トニ・エルドマン>という別人になった父が現れる。職場、レストラン、パーティー会場──神出鬼没のトニ・エルドマンの行動にイネスのイライラもつのる。しかし、ふたりが衝突すればするほど、ふたりの仲は縮まっていく…。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 最初に書いたのですが、僕自身はユーモアが足りないというか、道化師になれない変なプライドがあるので、トニ・エルドマンを演じるヴィンフリートの道化師ぶりに、中々直視できませんでした。
 わざと入れ歯をして、前歯が出るようにしたり、明らかにカツラだと分かるようなカツラをしたり。

 周りの人も「変な人」と思いながらも、彼を受け入れていて、それを間近で、嫌そうな顔をしながらも、娘のイネスが無理矢理止めることもなく見つめている。

 ヴィンフリートが落ち込む様子は、自分が笑われていたことではなく、あくまでも、娘イネスとうまく関係が築けないという点で、笑われることに抵抗を感じるプライドなど微塵もない姿が、とても強いな、と感じました。

 この作品の中での一番の見せ場は、父の無茶ぶりでイネスがホイットニー・ヒューストンの「The Greatest Love of All」を即興で歌う場面です。
 ヴィンフリートは音楽教師なので、道化だと思っていた彼が上手にピアノを弾けることにもその場の人たちは驚くのですが、最初小さな声で歌い始めたイネスが段々と感情がこもっていき熱唱する姿は、歌の上手さとかではなく、その場にいた人だけでなく、観客にも圧倒的な印象を残します。
 イネスの歌う「The Greatest Love of All」の歌詞は字幕でも出るのですが、一部歌詞を載せたいと思います。

I decided long ago, never to walk in anyone's shadows
ずっと前に私は決めた、決して誰かの真似はしないと
If I fail, if I succeed
失敗しても、成功しても
At least I'll live as I believe
とにかく私は自分の信じるように生きる
No matter what they take from me
たとえ私からどんなものを取り上げても
They can't take away my dignity
私の尊厳は取り上げることはできない

Because the greatest love of all
Is happening to me
なぜならこの世で最も偉大な愛は
私に起こっているから
I found the greatest love of all
Inside of me
私はこの世で最も偉大な愛を
自分の中に見つけた
The greatest love of all
Is easy to achieve
この世で最も偉大な愛を
手に入れるのは簡単なこと
Learning to love yourself
It is the greatest love of all
私自身を愛せるようになること
それこそが最も偉大な愛

 
 この即興で歌うという父の提案に躊躇していたイネスが歌う場面は、最後には熱唱するというイネスの歌いっぷりだけでなく、この歌詞にもとても重要な意味があると思います。
 父とは全く違う生き方をしていて、反発だけでなく、どこか後ろめたさを感じていたイネスが、自分が生きたいように生きて行けているのは、父から沢山の愛をもらっていたからだ、と捉えることが出来ます。
 歌ったあとイネスは出て行ってしまい、ヴィンフリートは悩んでしまうのですが、その後のイネスとヴィンフリートそれぞれの突拍子もない行動は、この歌の場面で少しでも近づくことが出来たことを表しているように思いました。

 「涙腺崩壊」とかそういう感動作品ではないのですが、観終わったあとにじわじわとその良さが伝わってくる作品だと感じました。

聖書協会共同訳『聖書』

 世界で一番読まれている本であるキリスト教の『聖書』の新しい翻訳版が昨年末に出版されました。

 日本ではキリスト教徒は少ないので(多く見積もって200万人)、読んだことのない人も多いかも知れませんが、日本全国にはキリスト教系の学校法人が221、高等教育機関は100あるので(2011年時点)、信徒ではなくても、何らかの形で『聖書』に触れたことのある人は、信者数よりも数多くいるのではないかと思います。
 その時に多分目にする『聖書』の殆どは、日本聖書協会が発行している『聖書 新共同訳』だと思います。

 この『聖書 新共同訳』が日本で一番発行されている『聖書』になるのですが、出版が1987年で既に30年以上経過しているために、言葉が古かったり、そぐわなかったりする部分が出てきたなどの理由により、今回新しく翻訳された『聖書』が出版されました。

 


聖書 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 引照・注付き

 

新翻訳聖書事業:一般財団法人 日本聖書協会

 

内容紹介日本聖書協会ホームページより)
次世代の標準となる日本語訳聖書を目指した新しい翻訳、「聖書協会共同訳」。実質約9年の翻訳期間を経て2018年12月に発行。1987年発行の新共同訳に続き今回も、カトリックプロテスタント諸教会の支援と協力による共同の翻訳事業です。そして聖書協会世界連盟(UBS: United Bible Societies)という世界最大の聖書翻訳のネットワークによる研究成果と、国内の優秀な聖書学者・日本語の専門家によって翻訳されました。

『聖書 聖書協会共同訳』の特長
カトリックプロテスタント教会による「共同訳」
●礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳
●聖書協会訳聖書として初めて聖書全体に引照と注を付す
●固有名詞、書名は『聖書 新共同訳』に準拠
●巻末付録として、カラー聖書地図12葉、143語の用語解説を付す

感想(?)
 
日本聖書協会でなければ、個人的には岩波書店版だったり、田川健三版だったり、あるいはケセン語などの翻訳も気に入っています。
 しかし、それらの翻訳は個人的に読んだり勉強するには良いのですが、様々な教派や考え方があって、分裂が広がっている今のキリスト教で共通して使うことは出来ません。

 共通して使える可能性があるのは日本聖書協会が出している『聖書』だけなので、まだ職場ではこの『聖書』を導入するかどうかは決まっていませんが、自分の仕事にも関わることなので、手に取ってみました。

 通読したのではなく、自分が使うことのあるいくつかの箇所を読んでみた中での感想ですが、出版に際してあげられてた「特長」にあるように、「礼拝での朗読にふさわしい」ということに焦点が当たっているように感じました。
 なので、原文(旧約ならヘブライ語アラム語、新約ならコイネーギリシア語)からゴリゴリと翻訳したというよりは、日本語で読みやすいかどうかが主軸になっているように感じました。

 なので、かつて文語から口語に変わったときのような大きな変化ということはなくて、殆どは「ちょっとした違い」になっています。
 学問であれば「ちょっとした違い」も重要になるのですが、日本聖書協会が宣言しているように、今回出版された『聖書』は「礼拝での朗読」に主軸があるために、今まで使っていた『聖書 新共同訳』とこの『聖書 聖書協会共同訳』のどちらが、礼拝をする人になじむか、という違いになってきます。
 すると、礼拝になじむ聖書ということで考えると、今まで30年間使ってきた『聖書 新共同訳』の方が殆どの人にとっては馴染みがあることから、わざわざ高いお金を払って(今は2パターンしか出版されていないので、一冊5000円以上します。)、新しく出版されたこの『聖書 聖書協会共同訳』に変えるかかといったら、変えないと思います。

  今回の『聖書 聖書協会共同訳』に至る新翻訳聖書事業は2009年から始まっていて、10年かけて結局この方針のもとに出版されたというのは残念です。
 日本聖書協会のホームページには誰が翻訳に携わったのかが書かれているのですが、「礼拝での朗読」に主軸があるばかりに、教会関係者のバランスは取れているのかも知れませんが、世界的にも知られている聖書学者が何人も抜け落ちています。

 『聖書』というのは、様々な解釈を生み出し、そこから現実の闘争にまで大きな影響を与える書物なので、慎重に取り扱うことは当然のことなのですが、だからこそ、原文に近い、学問として最先端の研究が反映された翻訳にして欲しかったと思います。
 「礼拝での朗読にふさわしい」ということは、原文を読んでいると意味のよく分からないというか、様々な解釈が分かれる箇所もあるのですが、そういう箇所、つまり礼拝での朗読にふさわしく感じられない翻訳が排除されてしまう可能性があるからです。