映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

武田砂鉄『紋切型社会』

 ちょっとした時間が空き、喫茶店に入るまでもなかったので、ふと、駅前にあった小さな本屋さんに入ってみました。
 大きな本屋さんに行くのはとても好きなのですが、その本屋さんは、すごく小さなスペースに、店主(あるいは書店員)の趣向、思考がくみ取れるような本棚になっていました。
 駅前の本屋さんというと、どこも代わり映えしないような店内のところという印象を持っていたので、久しぶりに心がワクワクするような気持ちになりました。
 その本屋さんの棚で見つけたのが、この本です。

 単行本で出た時から知ってはいたのですが、文庫になったということで、何冊も並んでいました。 

 


紋切型社会 (新潮文庫)

 

武田砂鉄 『紋切型社会』 | 新潮社

内容(新潮社ホームページより)
何気なく耳にするフレーズには、実は社会の欺瞞が潜んでいる。「うちの会社としては」の“うち”とは一体誰なのか。「育ててくれてありがとう」が貧相にする家族観。「国益を損なうことになる」は個を消し去る。「会うといい人だよ」が生む閉鎖性。「なるほど。わかりやすいです。」という心地よい承認の罠。現代の紋切型を解体し、凝り固まった世間を震撼させる、スリルと衝撃のデビュー作。

感想
 去年あった『新潮45』に関する一連の出来事で、新潮社の本を買うことは控えていたのですが、そのことを忘れて買ってしまいました。
 が、結果的には、新潮社の本ですが、逆に新潮社の気合いというか、気概のようなものを感じることが出来たので、今後は新潮社の本を買わないというルールは、もうやめても良いかな、と思いました。

 さて、何故この本を手に取ったのかというと、そもそも著者の武田砂鉄さんのコラムが好きだからです。
 cakesでの連載(ワダアキ考〜テレビの中のわだかまり〜)は毎週楽しみ読んでいて、新聞やWebなどで書いているのを見つけてはいつも興味深く読んでいます(たまにラジオにも出ているのを聞くことも)。

 武田さんのコラムが良いな、と思い始めたあとに、そのとき僕が働いていた学校の卒業生だということを知り、親しみも感じるようになりました。

 今回の本は、その武田さんの初めての単著になります。

 気になったいくつかの箇所を引用してみたいと思います。
 まずは、「家族」「結婚」、そして「自民党憲法案」について書かれたコラムです。
 

現行は「夫婦は協力して婚姻関係を保ちましょう、でももし難しければ、その時も平等にやりましょうね」という方針。ところが、自民党改憲案では、家族は「社会の自然かつ基礎」であり、「互いに助け合わなければならない」と明記されている。法律が「ならない」という口を持ったからには、「できない」時への対応が新たに生じる。その対応とはいかなるものになるのだろう。
 父がいて、母がいて、子どもがいる。その当たり前を伝統的家族像として設定する政権は、「面倒だしやっぱり育児は女性がやってよ」という内心を「3年間抱っこし放題」と名訳して再度宣言してみせた。役割分担の押しつけが堂々と閲歩している理由を訪ね歩くと、「オフィシャルな時に外向けに使う家族観」に行き着く。


 この「オフィシャルな外向けに使う家族観」に苦しめられてきたな、と、外から見たらその家族像に当てはまるだろう家族とともに過ごしてきたけれど、改めて感じます。
 僕は、「父がいて、母がいて、子どもがいる」という家族と共にいました。
 その意味ではその家族観に当てはまります。
 けれど、その中身は、僕が主夫で、妻の姓に改姓した側(先日も「(サザエさんの)マスオさんだったの?」と聞かれました…。)というものでした。

 そのどっちかが「シュフ」で、どっちかが姓を強制的に変更しなければならないという「不均衡」「不平等」には目をつむり、あたかも「結婚」や「家族」がそのまま「自然」だったり「幸せ」と結びつけられる。
 そこでは、どちらかが姓を強制的に変えさせられたということも、同じように仕事をしているにも関わらず家事育児を一方的に押しつけられていることも、稼ぐということを一方的に押しつけられていることも、ないものにされています。

 そのことを武田さんは自民党改憲案を持ち出すことはもちろんのこと、ゼクシィなどの「結婚情報誌」などから、「それ、ちょっと違うように感じるんだけど?」と疑問を投げかけています。

 例えば、就活に関してはこんな文章が書かれています。

シューカツでメンタルをやられやすいのは、否定され続けるからではなくて、肯定したのに否定され続けるからだ。
 胸を張れるほどの肯定を自分の人生から引っ張り出すことは簡単ではない。しかもその私的な肯定を必死に公的化しなければいけない。おばあちゃんが病に倒れた時、真っ先に病院へ駆けつけた話をしても面接官には響かない。オリジナルブレンドでは「肯定」を作れないから、ガイド本を手にして、推奨されている肯定に準じていく。

 
 自分が就活をしていたり、それが終わったばかりの時だったので、すごく印象に残る言葉でした。
 無理矢理、世間というか企業で決まっている(と思われる)型にはめて自分を肯定的に語ることが求められ、その挙げ句にそれを否定される。
 そもそも、「世間一般」とか「みんな」とか「一緒」とかいう言葉に警戒心や嫌悪感を抱くような自分にとって、何が苦しいのかということをそのまま言語化してくれているように感じました。

 他にも秋元康がプロデュースするいくつかのアイドルグループを巡るあれこれ(この本ではのこぎりでの刺傷事件について書かれているけれど、NGT48も行き着くところは同じ)だったり、「言葉」についての考察も見事だと感じました。
 「言葉」についての考察は引用自体が長くなってしまうので割愛し、沖縄の在日米軍司令官に「風俗業をもっと活用してはどうか」と発言した(参照:【続・沖縄ワジワジー通信(2)】 あったことをなかったことにすること――whitewash | タイムス×クロス 金平茂紀の新・ワジワジー通信 | 沖縄タイムス+プラス)件についての文章を引用してみます。

 

中でも森岡正博の指摘に大いに納得させられた(『毎日新聞』2013年5月16日夕刊)。橋下発言を「男もバカにしている」と題し、「女性観というより男性観が貧困。米軍の男性兵士でも結婚し子供がいて風俗の利用を拒否する人もいるだろうし、過酷な訓練をしても性欲が増さない草食系もいるかもしれない」と解説している。無難な指摘ではある。しかし、橋下の発言自体にはもちろんのこと、受け取る側にもこの当たり前の指摘をする者はいなかった。(略)男性から男性に対して冷静に提出された、ほぽ唯一の真っ当な反意だった。
 橋下の男性観、「男性=性欲=女が必要」という無謀な数式は「そんな本音は言っちゃいけないよ」と受け止められた。米兵による婦女暴行事件の予防のために「溜まった性欲を解放する必要がある」ことを本音ベースでは承認していた。(略)
 性欲を考える時、「性」と「欲」を分離して考えるべきなのだ。性にはあらゆる種類があるのと同様に欲にもあらゆる種類がある。


  引用文冒頭に出てくる森岡正博さんは、現在早稲田大学の教授で、この当時(2013年)は大阪府立大学の教員でした。
 僕は、大学&大学院で生命倫理を学んでいたので、森岡さんの本は大体そのときに読みました(指導教授の指導教授が森岡さんに論破されてた)。

 森岡さんの指摘は「無難な指摘」だと思います。
 けれど、そもそもその「無難な指摘」をする人さえいませんでした。
 武田さんが書いているように、「男性=性欲=女が必要」というのが男性で、「女性をなんだと思っているんだ!」という批判は沢山ありましたが、「男には女(性欲を発散するために風俗)が必要」だということは「本音」だとされ、「そんな本音は言っちゃいけないよ」と受け止められていました。

 それに対して、男性ってそんなのばっかりじゃないけど?という人はいませんでした。
 性欲があったとしても、それを発散出来る場がなくても、風俗など必要ない男性は沢山いるし(というか、この部分の「男性」を「女性」に置き換えてもらってもいい)、そもそも、性暴力が男性の性欲に基づいているという認識も間違っている。
 性欲と性暴力は関係がない(そのことについては、 斉藤章佳『男が痴漢になる理由』を読んで下さい)。
 
 そういう、「それ、ちょっと違うように感じるんだけど?」ということを1つ1つ拾い上げていっているのがこの本に載っているコラムになります。
 それに対していちいち口挟むなよ、という反応もあると思いますが、そういう態度を取られてしまうからこそ、「それ、ちょっと違うように感じるんだけど?」ということをいちいち言っていくことの大切さが分かるようになっています。

 それは、最後にこの文庫化に当たって、新潮社への批判も掲載されていることからより鮮明になっています。
 自社が文庫化して出版する際に、わざわざ自社の批判を載せる。
 武田さんが書いている指摘はもちろんのこと、新潮社の中にもこの本(コラム)を改めて載せて出版しようとする人がいる、ということに社会への気概を感じました。

「映画 ブラフマン」

 ブラフマンというか、TOSHI-LOWという人を初めて知ったのは、多分、親戚の葬式で、その葬式は告別式だったので親戚しかいなかったのですが、その場にいたのがTOSHI-LOWさんと、その家族でした(お連れ合いのりょうさんはいませんでした)。
 その場で、「あの人はバンドやってるんだよ」と教えてもらい、初めてTOSHI-LOWという人と、ブラフマンの存在を知りました。

BRAHMAN

 そして、それと同じような時期に、購読している津田大介さんのメールマガジンTOSHI-LOWさんと津田さんが原発や福島、東日本大震災について語る対談が載っていることが度々ありました。
 ブラフマンの音楽は知らないし(失礼)、 文字でしかTOSHI-LOWさんの言葉を読んだことがありませんが、そのTOSHI-LOWさんがというかブラフマンが映画になっているということで観てみました。

 


映画 ブラフマン

 

youtu.be

 

作品データ(映画.comより)
監督 箭内道彦
製作年 2015年
製作国 日本
配給 プレシディオ
上映時間 118分
映倫区分 G

あらすじシネマトゥデイより)
1995年に結成され、「SEE OFF」「arrival time」など印象的な曲を世に放ってきたバンドBRAHMANは、抜きん出たパフォーマンスで日本のみならず外国でも認められてきた。音楽性やパフォーマンスが話題になる一方、ステージ外でのメンバーの言動はあまり知られていない。そんな彼らの素顔に、クリエイティブディレクターの箭内道彦が迫る。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 最初に書いたように、僕はブラフマンのファンではないし、音楽も聴いたことがなく、TOSHI-LOWさんがしゃべっている姿というか声もちゃんと聞いたことがありません。
 けれど、そのブラフマンについて、TOSHI-LOWさんの特に音楽活動について殆ど知らないという状態だったからこそ興味深く観ることが出来ました。

 もし、僕が、昔からのブラフマンのファンで、メンバーのこともよく知っていて、バンドの成り立ちもブラフマンというバンド名についてもよく知っていたら、「そんなこと知ってるよ」と思ってしまったかもしれません。
 けれど、何も知らないので、ブラフマンというバンド名はどういう経緯で付けられたのか、抜けたメンバーのことをどう思っているのか、抜けたメンバーは今どうしているのか、今のブラフマンはどういう思いでどうやって一つの曲を作っていくのか、それら、つまりバンド結成から20年は経っているものの、彼らの「自己紹介」のような感じで受け取ることが出来ました。

 既に知っている人なら「今更自己紹介なんていらない」と思うでしょうが、何も知らない僕のような人にとっては「そうなんですね」「へぇ~」「そういうことを考えているんですね」と色々分かって興味深いのではないか、と思います。

 また、元メンバーは自死をしていて、その元メンバーの家族の元にもインタビューに行っているのですが、自死したメンバーが何故自死をしたのかということも含めて、何となく分かるような気もしましたし、それに対するTOSHI-LOWさんの、ブラフマンの応えのひとつが最後に流れる(そして劇中でメンバーが作っている)曲になっていて、それが自死に向かう側に近い自分としてはとても心に残りました。

親が高齢で良かったと思ったこと

 この1年、僕の今までの人生の中で「どん底」とも言える日々を過ごしてきました。
 ある程度の荷物を持っていくことは出来たものの、お金もなく、仕事もなく、家族も失い、おまけにというかどっちが鶏の卵か分かりませんが、うつ病も患い、何度となく死のうとしました。

 けれど、その「どん底」から少しずつ、病院に通ってうつの状態と睡眠を安定させることから始め、家族は失ったままですが、2ヶ月に1回くらいは子どもたちに会えるようになり、(元配偶者が財産分与に応じないこともあり)お金はなく、増える見込みもないけれど、なんとか今までよりは安定した仕事も見つけることが出来、少しずつ這い上がっていくことが出来ました。
 これは色んな人たちの支えがあったからで、パート先で親しくなった2人の女性もそうですし、以前からの友人の何人かは実際に時間を作って会ってくれたり、連絡をくれました。

 彼らがいなければ、今もまだどん底にいたと思います。

 そして、彼らと同じように僕が助けてもらったと思っているのは、両親です。
 僕は、今では都市部ではそこまで珍しくなくなってきたかもしれませんが、両親が割と高齢になってから生まれてきた子どもです。
 同級生や同年代の人たちの親と比べると10歳は年上です。

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 小さい時(幼稚園だったり、小学生の時)は、その、両親が年を取っているということをイヤだと思っていました。
 また、両親は僕にそんなことは全く言いませんでしたが、父の定年退職が数年後だと分かっているにも関わらず、学費の高い私立の学校に通って良いのかどうか、僕はかなり悩みました(出身高校は父の、出身大学は両親の母校だったので快く通わせてくれましたが)。

 それもあって、僕は早く自立しなければ、自分だけで生きていけるようにしなければと、中学生くらいの時から思っていました。
 実際に、大学卒業後すぐに結婚し、自分の家庭を持つようになり、両親が両親の同年代の人たちと同じような、子どもたちが自立した生活をし、幸運なことに孫もいるという状態になったことで、少しは安心させられたかなと思っていました。

 けれど、それから12年経って、出て行った時よりもひどい状態で僕は戻ってきてしまいました。
 両親からすれば、年老いて年金で何とか暮らしているところに、僕が何もないばかりか、病気までして、死にたいと言って、戻ってきたわけです。

 そんな息子に対して、両親がどうしたかというと、同じ言葉を繰り返し何度も言ってきました。 

まだ若いんだから、大丈夫 

 
 60歳くらい生きれば十分だと思っていた僕にとって、30代半ばで振り出し(というかマイナス)になり、これからまた最初から何かを築いていくのは、考えるだけで正直かなりきつかったのですが、両親は何回も繰り返し「若いから大丈夫」と言ってくれました。

 何回も言われている内に、最初に書いたように少しずつ這い上がることが出来てきたことで、自分でも「(今が自分史上一番年を取っているので、若いとは思えないけれど)なんとかなるかもしれない」という気持ちになって来ました。

 両親からしてみれば、両親が僕の今の年齢の時、まだ僕は生まれておらず、本当に「若い」と思っているのだと思います。
 だからこそ、「まだこれから」「大丈夫」、と言ってくれているのだと思います。

 両親だからということではなく、幸運なことに、お金は十分とは言えないし、少し困る時もあったけれど、なんとかなって来たし、大病することもなく、この年齢まで生きてきたという「とりあえずなんとかなって長く生きてきた人」だからこそ、説得力みたいなものがあるのかな、と思います。

「奇蹟がくれた数式」

 Amazonプライムで観られる作品を眺めていたら、レビューの評価が高かったので観てみた作品です。
 


奇蹟がくれた数式(字幕版)

 

youtu.be

 

映画「奇蹟がくれた数式」公式サイト


作品データ(映画.comより)
監督 マシュー・ブラウン
原題 The Man Who Knew Infinity
製作年 2015年
製作国 イギリス
配給 KADOKAWA
上映時間 108分
映倫区分 G

 

内容(公式サイトより)
 1914年、イギリス。名門ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのG・H・ハーディ教授は、当時イギリス植民地のインドから届いた1通の手紙に夢中になる。そこには著名な数学者である彼も驚く“発見”が記されていた。ハーディは差出人の事務員ラマヌジャンを大学に招聘する。ラマヌジャンは妻と離れることに胸を痛めながらも、研究を発表できる喜びに海を渡る。しかし、独学で数学を学んだため、学歴もなく身分も低いことから教授たちに拒絶され、頼りにしていたハーディも公式を証明することしか頭にない。
 妻からの手紙も途絶え、孤独と闘いながらひたすら研究に身を捧げるラマヌジャンは、遂に命にかかわる重い病に倒れてしまう。ラマヌジャンを失うかもしれないと知ったハーディは、初めて彼への友情と尊敬の念に気付き、ラマヌジャンを救うために立ち上がる──。
 第一次世界大戦下の激動の時代に、全てが正反対の二人が、文化と個性の違いに葛藤し、やがてそれを乗り越えて、かけがえのない絆で結ばれていく。歴史に名を残す二人の天才数学者が、今この時代に生きる私たちに、年齢や肌の色、生き方や信じるものが違っても、人は互いを思いやり、愛し合えることを教えてくれる。輝かしくも美しい二人の友情を描く涙の実話。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 観始めてすぐに分かったのは、主演が3月に書いた「LION/ライオン 25年目のただいま」と同じデーヴ・パテール だったことです。
 デーヴ・パテールの出演作品リストを見ていたら、彼のデビュー作である「スラムドッグ$ミリオネア」だけでなく、「チャッピー CHAPPIE」と、割と結構観ていることがわかりました。
 最近見た「LION」もそうだったのですが、今回の作品もデーヴ・パテールがとても上手でした。

 その上手さは何かというと、悲しみをたたえた存在感です。
 「LION」では、とりつかれたように自分の故郷を探し求めながらも、育ててくれた家族を裏切る行為なのではないかという苦しみや悲しみを、今回の作品では、1914年でイギリス領だったインドから1人イギリスに渡り、周りに殆どインド出身者どころか非白人がいない環境で、差別や偏見にさらされながら、何故自分のことを認めないのかと苦しみ、耐える様子が印象的でした。

 彼が演じるシュリニヴァーサ・ラマヌジャンは敬虔なヒンドゥー教徒で厳格な菜食主義者だったこともあり、今では日本でもビーガン料理をアピールするお店もありますが(というか伝統的には日本は菜食主義に近かったので戻ったとも言えますが)、第一次世界大戦下のイギリスはドイツによる通商破壊もあり、そのような食材は確保が困難で、こうしたことが原因で衰弱していく様子が描かれています。

 インド人という「見た目」と「出身地」による差別や偏見だけでなく、食べものが合わないという生活の一番基本的な部分が整っていなかったことは本当に大変な苦しみだったと思います。

 そんな中でも彼は様々な数学的業績を残し(数学は無知すぎるのでどのくらいすごいことなのかは理解出来ませんが)、現存する最も古い科学学会である王立協会(ロイヤル・ソサエティ)のフェロー(終身会員資格)になっています。
 数学的な業績は分かりませんが、ロイヤル・ソサエティのフェローのすごさは少しは知っているつもりで、歴代の有名なフェローだけを見ても分かります。
 アイザック・ニュートンチャールズ・ダーウィンアルベルト・アインシュタインスティーヴン・ホーキング…。
 合計8000人以上の今までのフェロー中、280人以上がノーベル賞を受賞しています。

 とにかく、そんなにすごい人なのに僕はこのシュリニヴァーサ・ラマヌジャンという人のことを、この映画を観るまで全く知りませんでした。
 しかも、わずか32歳で亡くなっているにも関わらず、こんなにも多くの業績を残していることに、ただただ圧倒されます。

 が、業績に圧倒されるものの、この作品で描かれるのは、ラマヌジャンと彼の妻、彼の共同研究者であり、ケンブリッジ大学に招聘したハーディ教授との関係です。
 育った環境や、学んで来た経緯が違うことで、ラマヌジャンとハーディは度々衝突し、共同研究者でありながらも、中々相手のことを受け入れようとしないハーディ。
 息子が1日でも早く帰ってきて欲しいと願うばかりにラマヌジャンと彼の妻の手紙を隠す母。
 そのことを知らずに、悲しみくれるラマヌジャンとその妻。

 業績もさることながら、この一対一の人間関係がどう動いていくのかという点を中心に描いていたことで、半ば認めつつも中々「異質な他者」を認められない人間や、誤解などで関係が崩れてしまうことなど、普遍的な人間関係について描かれていると感じました。

澤江ポンプ『パンダ探偵社』

 週末に載っている新聞の書評を読んで気になったので手に取ってみた漫画です。

(コミック)『パンダ探偵社』(1) 澤江ポンプ〈著〉:朝日新聞デジタル


 気になった理由は、書評に書かれている内容と共に、書いている人がかつて紹介したこともある『悟りパパ』と同じ、澤江ポンプさんだったからです。
 『悟りパパ』とても良くて、好きだったのですが、続かなかったんですよね…。
 なので、同じ澤江ポンプさんが描いているということで、読んでみました。

 


パンダ探偵社 (1)

 

トーチweb パンダ探偵社

 

内容(公式サイトより)
パンダ化する半田と、先輩・竹林の探偵物語
アニマル化、プランツ化する変身病患者を専門とする彼らの調査。
その結末は…!?
不治の病に罹る人間の覚悟と選択ーーー

感想
 内容にある「パンダ化する半田」ととか読んでもよくわからないかもしれませんが、変身病という、人間から動物になってしまう、不治の病にかかった半田が探偵業を営む先輩竹林と一緒に働かせてもらいながら、そこで出会う変身病患者たちとの関わりを描いた作品です。

 「人間がパンダになる」という設定は突飛に感じるかもしれませんが、これは様々な病を捉えるヒントになる作品だと僕は感じました。
 完全に変身すると、その動物そのものになってしまい、人間としての「理性」や「知識」「記憶」は失われてしまう。
 人間も認知症を患ったり、あるいは事故などで脳の機能がそれまでと全く違ってしまうと、「理性」や「知識」「記憶」が失われたかのように、それまでとは全く違った人間になってしまったと感じることがある。

 僕自身もうつを患っていますが、うつは不治の病ではないものの、うつの症状がひどいときは、記憶することが困難になり、文字を読むことも難しくなり、イライラも募るので「理性」が失われたかのような状態になります。
 (まぁ、だからこそ、そんな「人間ではなくなった」「完全に変わってしまった」と思った元配偶者は「追い出した」のでしょう)

 この漫画では、完全に動物化した患者が行く場もなく、羽ばたいていく場面が描かれます。
 これは羽ばたいていくという新たなステップと捉えることも出来ますが、その半面、この「人間の社会」では受け入れられない存在だということを表しています。

 つまり、パンダになったりと「あり得ない」病気を患っている人たちを描いていますが、この社会の様々なところで起きている、何かしらの病にかかったことによって「人間」扱いされず、社会から追い出されている人たちの姿を描いているのです。

 まだ一巻なので今後の展開がどうなるのか楽しみですが、「記憶」や「理性」を失い社会(家族)から追い出された経験のある身としては、この後、社会と彼ら変人病患者がどう折り合っていくのかに注目していきたいと思います。

「ビッグ・フィッシュ」

 Amazonプライムで観られる作品を眺めていたらレビューの評価が高かったので見てみました。
 全く知らなかったのですが、ティム・バートン監督作品で、ティム・バートンってかなり有名な監督なのに、作品リストを見てみたら、たぶん僕が見たことがある作品は「チャーリーとチョコレート工場」くらいしかありませんでした。
 「チャーリーとチョコレート工場」はすごく面白かったし、ティム・バートンも有名なのに、何故僕は殆ど見ていなかったんでしょうか、とこの作品を観終わったあとにも思いました。

 


ビッグ・フィッシュ (字幕版)

 

作品データ(映画.comより)
監督 ティム・バートン
原題 Big Fish
製作年 2003年
製作国 アメリ
配給 ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
上映時間 125分

ストーリーミュージカル公式サイトより)
エドワード・ブルームは昔から、自らの体験談を現実にはあり得ないほど大げさに語り、聴く人を魅了するのが得意。
自分がいつどうやって死ぬのかを、幼馴染のドン・プライスやザッキー・プライスと一緒に魔女から聴いた話や、共に故郷を旅立った巨人・カールとの友情、霧の中で出会った人魚の話、団長のエイモスに雇われたサーカスで最愛の女性、妻・サンドラと出逢った話を、息子のウィルに語って聞かせていた。
幼い頃のウィルは父の奇想天外な話が好きだったが、大人になるにつれそれが作り話にしか思えなくなり、いつしか父親の話を素直に聴けなくなっていた。そしてある出来事をきっかけに親子の溝は決定的なものとなっていた。
しかしある日、母サンドラから父が病で倒れたと知らせが入り、ウィルは身重の妻・ジョセフィーンと両親の家に帰る。
病床でも相変わらずかつての冒険談を語るエドワード。本当の父の姿を知りたいと葛藤するウィルは、以前父の語りに出ていた地名の登記簿を見つけ、ジェニー・ヒル(鈴木蘭々)という女性に出会う。
そしてウィルは、父が本当に伝えたいことを知るのだった-。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 父親と距離を感じている息子、特に、僕もそうですが専業主婦世帯で育った子ども、あるいは日本だと1980年代まで主流だった男は外で働き(「24時間働けますか?」)、女性は家のことをするという時代で育った身としては、父親との距離感はなんというか、とても微妙です。
 あんまり家にいないくせに口出してきて、かといって全く無視するわけにもいかない。
 毒親でもないので、完全に無視したり関係を絶つことはしないけれど、かといって積極的に関わる気にもなれない。

 息子ウィルの父エドワードは暴力を振るうこともなく、悪い父親ではありません。
 むしろ、その時代にあっても、積極的に妻や子ども、家族を大切にしてきた人です。

 けれど、その「たまにしか現れない」父親から語られることが本当のことなのか、息子にはわからない。
 小さな時は面白く聞いていたけれど、何回も聞くと「またか」と思うし、父親が語っていたことは全部嘘だったんじゃないかとも思えてくる。

 時代も含め、この父親と息子との微妙な関係を、ファンタジー要素を入れつつ、とても上手に描いているように感じました。
 もっとシンプルに言えば、こういうユーモアのある父親って良いよな、と思います。

やまもとりえ『30歳女子、ネコを飼いはじめました。』

 cakesで毎回楽しみにしていた連載がありました。 

cakes.mu

 
 僕が読んでいたのはcakesですが、cakesでは第1話しか今は読めないようになっていますが、こっち↓の方では第3話まで無料で読めるようになっています。

30歳女子、ネコを飼いはじめました。(やまもとりえ)|猫漫画|ねこねこ横丁

 で、読み始めた理由としては、30歳も大分過ぎた男ですが、ネコ飼いたいなぁ、と思っていたことが大きな理由です。
 元々、父親の生家は猫屋敷というか、家の前に捨て猫をされるような家で、それらのネコを祖母や父たちが育てていました。
 それで僕も小さい時に祖母の家に行くとネコが何匹もいて、いつかネコ飼いたいなぁ、と思っていて、家にいるとネコの鳴き声が聞こえたりすることもあるので、飼う機会があれば飼いたいなぁ、と(買うつもりはありませんが)。

 ということで、連載を読んでいたのですが、単行本でも出ているのを、cakesで転載していたようです(平野啓一郎『ある男』と同じパターン)。


30歳女子、ネコを飼いはじめました。 (マーガレットコミックスDIGITAL) Kindle版

 

30歳女子、ネコを飼いはじめました。 – ホーム社

 

内容ホーム社ホームページより)
恋人、婚活、趣味、仕事、なにもかも中途半端な30歳女子の下に喋るネコさんがやってきた。正論のするどいツッコミに落ち込んだり、ふて寝したり、空回ったり…。後ろ向きでも愚痴っぽくても、ネコさんの力を借りても、一歩ずつ自分らしく生きていこう。

 

感想
 コマ漫画なのと、絵もほんわかしている感じで読みやすかったです。
 タイトル通り、30歳の女性がネコを飼いはじめる話なのですが、主な内容としては、30歳女子(以下、女子)が、恋人と別れ、結婚に焦り、婚活を始めたり、やりたいと思っていた仕事も出来ずにいることに対して、ネコが突っ込みを入れつつ、女子が自分の生き方とかを改めて考えたり、仕事も徐々に好転していくという物語です。

 その中で、印象的だった2コマを紹介したいと思います。
 婚活を始めた女子にネコが突っ込みを入れるシーンです。

女子「そうよ 結婚したいわよ
   結婚して 早いとこ 幸せになりたい
   悪い?」

ネコ「何それ 意味わからん」

女子「結婚できるラストチャンスかもしれないし…」

ネコ「でたよ 「結婚」
   そんなにしたいか 結婚」

女子「結婚して 早いとこ 幸せになりたい
   悪い?」

ネコ「アカンね」

 
 このシーンが印象に残ったのは「結婚」が目的(ゴール)になっていないか?というネコの突っ込みです。
 結婚すれば幸せになれる、だから、結婚したいという女子。
 それに対して、ネコは「結婚=幸せ」ではない、ということを突っ込んでいます。

 結婚についてのやり取りの中で離婚したらどうなるかみたいな話が出てきます。

ネコ「え ちょ 待って
   それ 結婚相手 関係なくない?」

女子「ん?」

ネコ「そもそも 離婚したら
   相手の条件 意味ないやん
   「金」も 「笑い」も 相手に 求める前に
   まずは自分1人でも
   生きてけるようになって」

 
 「結婚=幸せ」と考えていたり、あるいは結婚相手が「お金」や「笑い」を持っていて、そういう人と結婚すれば自分が幸せになれる、という女子に対し、ネコは、結婚相手に自分が思う幸せである「お金」や「笑い」を求めるのではなく、自分自身で手に入れろ、と突っ込んでいます。

 結婚経験があり、(ほぼ会えない状態が続いているものの)子どももいる僕が言うと「お前は一度結婚したこともあって子どももいるからそんなこと言えるんだ」と反論が来るかと思いますが、「結婚=幸せ」だったり、誰かが持っているもので幸せだと感じたり、求めていると、その相手がいなくなった瞬間に幸せではなくなってしまいます。
 つまり、自分の幸せ自体が実は自分の幸せではなく、他人に左右される状態になってしまう。
 それはかなりリスクがあるというか、不安定な状態なので、自分自身で幸せな状態になって、そこから誰か合う人がいれば(したければ)結婚でもすれば良いんじゃないか、と。

 まぁ、でもそんなことを言えるもの、「子どもを産む」ということが僕自身の問題ではないからなのもあって、「子どもを産む」ということはどうしても相手が必要になるので、それだけは自分だけでは解決出来ない部分かな、と思います。