映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

七海仁・月子『Shrink〜精神科医ヨワイ〜』

 先日最新刊(5巻)が出て、やっぱ良いなぁ、と思いつつ、そういえばここにはこの作品のことを書いたことがなかったので、書いてみようと思います。
 最初に目にしたのは、ちょうど去年の年明けに1巻が出たタイミングに近く、確かAmazonか何かで、おすすめ作品として表示されたのがきっかけだったかと思います。
 1巻目がとてもよかったので、メンタルヘルスに関わる知り合いにもプレゼントしました。

 


Shrink~精神科医ヨワイ~ 1

 

Shrink〜精神科医ヨワイ〜[漫画公式サイト/最新情報・試し読み]|集英社グランドジャンプ公式サイト

内容(公式サイトより)
パニック障害うつ病発達障害PTSD…。
心に病を抱えながらも、誰にも相談できずに苦しんでいる潜在患者が数多くいると言われる、隠れ精神病大国・日本。その自殺率は先進国では最悪レベル。なぜそのような事態に陥ってしまっているのか…。精神科医・弱井幸之助が、日本の精神医療が抱える問題に向き合い、人々の心の影に光を照らす!

感想
 現在僕は抗うつ薬を飲んでいるのですが、うつを発症する前から、精神疾患や「知的障害」、あるいは「発達障害」を持つ人たちとは関わりがありました。
 メンタルヘルスに関する本を読むのは、それらの人たちのことを理解したいということからだったのですが、途中からは自分自身が当事者となったので、治癒へのアプローチとして読むようになりました。
 そんなわけで、この漫画も「おすすめ作品」として表示されたのだと思います。

 5巻目を読んだばかりなので、どうしても5巻目の感想になってしまいますが、今までの4巻とは違って、今回の5巻目はメンタルヘルスを理解するとか、そうなんだよなぁ、とか共感するということよりもさらに踏み込んで、自分自身の傷を再認識する内容でした。
 簡単に言えば、幼少期の出来事を見つめなおすというものなのですが、あぁ、同じような経験をしたな、とどうしても自分が子どものときに親からされたことを思い出してしまいました。
 そのことに対して僕は今でも許すことは出来ないのですが、かといってそのことに対して今でもものすごく怒っているかといえば、その出来事自体が「傷である」「深く傷ついた経験である」ということを僕自身が認識し、一度そのことについて親に話したことがあるので、ちょっと距離を置いて捉えられるようになりました。

 その傷ついた出来事をいつまでも見つめていても過去の出来事なので変えることは出来ず、今とこれからを生きていくときには、変えられないことばかり考えていても仕方がないですし、僕は決してあのようなことを自分の子どもたちにはしないと思っていたし、実際にしなかったので、まぁ、僕自身としては良かったかな、と思っています。
 ですが、傷はやはり傷で、深くえぐられた傷は、肉体描写で表せば、表面上、あるいは機能上何の問題もなく治っているのですが、傷跡として残っている状態です。
 まだその傷から血が流れているだとか、かさぶたになっているとかそういう時期は過ぎたけれど、そこには大きな傷跡が残っていて、大きな傷を負ったな、と一目で分かるようになっています。

 そして、この5巻目を読んでいて思ったのは、傷跡になったと思っていたものが、実はまだ中で軋んでいるというか、コリが残っているというか、そんな感覚になりました。
 で、この作品では、その深い傷を負った出来事に向き合い、立ち直っていく様子が描かれているのですが、そこで重要になる伴走者が自分にはいないな、ということを改めて突き付けられました。
 やはり誰かしら伴走者が必要なのだろうな、と。
 それは、支えてもらうとか、依存するとかでは決してなくて、自分自身が一人で立ってはいるものの、安心して戻れる場所としての人が必要だということです。

 人によっては、それが精神科医の場合もあるでしょうし、パートナーや家族、友人など、あるいは人間にそれを求めるのではなく、神というような存在に求めるなど様々あるかと思いますが、そういえば僕が子どもの時に親からされたことは誰にも話したことがなかったな、と今更ながら気づきました。
 なんとなく自分自身で解決しなければいけないと無意識のうちに思っていたのかもしれないし、すでに解決したと思いこんで(思い込もうとして)いたのかも自分自身でもわからないのですが、そういえば、誰にもこのことを話したことがなかったな、と、自分の中ではまだ誰にも話せないような出来事なんだな、と気づかされました。

 いつか誰かに話せるようになれば、その時、僕自身も少しは治癒していくのかもしれないな、誰かに話せる日が来るのかな、とそんなことを思いました。

渡辺憲司『生きるために本当に大切なこと』

 ある日、ふとネットでこのニュースが表示されました。

mainichi.jp


 ここに写っているのはよく見覚えのある顔で、母校(大学)の学部の名物教授であり、その後母校(高校)の校長になった渡辺憲司先生です。
 学部では同じ文学部にいたものの、僕自身は大学で渡辺先生の授業は受けたことがないのですが(渡辺先生は当時日本文学科教授で僕は別の学科)、母が母校(大学)でパートとして働いていた際には母も接する機会があったとのことで、直接お話したことはほぼありませんが僕の中ではとても親近感のある大学の先生です。
 さらに、2011年の東日本大震災の際に学校HPに掲載した文章(「時に海を見よ」と題された訓示(卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。))もネットで反響があり、「さすが自由の学府」だな、と高校、大学の一卒業生として(特に自分自身は何もしていないものの)誇らしくさえ感じました。

 で、記事によるとその渡辺先生が本を出したということで、文庫だったので、読んでみることにしました。


生きるために本当に大切なこと (角川文庫)

 

 生きるために本当に大切なこと 渡辺 憲司:文庫 | KADOKAWA

 

内容KADOKAWAより)
僕たちは、未来をどう生きるか。今、本当のやさしさが求められている。
立教大学名誉教授、自由学園最高学部学部長、元立教新座中学校・高等学校校長の渡辺憲司は、2011年3月、立教新座高等学校の卒業式が中止となり、卒業生へのメッセージをインターネット上に公開した。TwitterをはじめネットやSNSで話題となり、3月16日の一日だけで30万ページビュー、合計で80万回以上の接続数を記録。その力強く優しいメッセージに老若男女が感動した。2020年3月、自由学園最高学部長ブログ146回「今本当のやさしさが問われている コロナ対策に向けて」が再び話題に。本書は当時のメッセージを再録しブログ原稿を採録、書下ろしを加えて再編成した。混迷の時代に、生きることの意味を問う、多くの気づきと自信を与えてくれる人生哲学書

感想
 自由学園最高学部長をしていることは知っていたものの(この3月で退職)、「今本当のやさしさが問われている コロナ対策に向けて」が話題になっていたことは知りませんでした。
 この本に収められているのは高校や自由学園最高学部長として書いていたブログを元に構成されていて、期間にするとおよそ10年間に書かれたものになります。

 東日本大震災から始まり、昨年からのコロナ禍を反映したものが書かれており、更に、江戸吉原の研究者でもある先生の専門分野に触れたものも多くあります。
 また、母校(高校)の校長はクリスチャンコード(クリスチャンじゃないと校長になれない)があったので、高校の校長に就任したということを聞いた時、「クリスチャンだったの?」と初めて先生がクリスチャンだったことを知ったのですが、キリスト教に触れた話もありました。

 今まで全くキリスト教の話を聞いたことがなかったので(話題を呼んだ訓辞でも特にキリスト教には触れられていません)、この本を読んで初めて渡辺先生からキリスト教の話を聞いたというか読みました。
 それがなんというか人柄を知っていると(ブラタモリに出演したこともあるので、それを観ると少しは伝わるかと思います)、なんとなくにやついてしまいつつも(愛とか説いてるので…)、とても新鮮な気持ちで読みました。

 僕が通った高校は本当に自由で、制服の着用義務もなく、基本的に「法律を犯さなければ良い」みたいな感じでした(注:20年近く前の話です)。
 なので、僕は暑くなるとハーフパンツとTシャツで学校に通い、寒くなってくると洋服を選ぶのが面倒なので学ランを着て行き、髪の毛を染めたり、ピアスをしていた時もあります。
 その高校3年間の間に与えられた「自由」というものが(まぁ、単位は取らないといけないので全くの自由というわけではないのですが)、とても居心地の良いものだったし、だからこそ、「責任」というものも感じることができ(基本的に放っておかれるので、やらなければ、そのままドロップアウトすることになり、実際にそういう奴や校内でタバコを吸っているのを見つかり停学になったりする奴や大学進学出来ない奴がいた)、担任からは「就職出来ないぞ」と言われるような学科に進学する選択が出来ました。

 渡辺先生の文章はその高校の時に感じたことを思い起こさせるような、そんな懐かしさを感じつつ、今こうして今の仕事を辞めることが決まり、どう生きていこうかと考えているときに、さて、どう生きていこうか、と考える時の杖(道しるべにはならないけれど、支えられ、どっちに行こうか迷ったら杖を倒して進む道を決めるような感じです)のように感じられました。

「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

 いつか観たいリストに入れておいた作品がAmazonで観られるようになっていたので、観ました。
 2015年の作品なので、どこでチェックしたのかは忘れてしまいましたが…。
 単に主演のジェイク・ジレンホール(ギレンホール)が好きだからかもしれません。

 


雨の日は会えない、晴れた日は君を想う(字幕版)

 

作品データ映画.comより)
原題 Demolition
監督 ジャン=マルク・バレ
製作年 2015年
製作国 アメリ
上映時間 101分
配給 ファントム・フィルム
映倫区分 PG12

ストーリー(映画.comより)
ウォール街のエリート銀行員として出世コースに乗り、富も地位も手にしたデイヴィスは、高層タワーの上層階で空虚な数字と向き合う日々を送っていた。そんなある日、突然の事故で美しい妻が他界。しかし、一滴の涙も流すことができず、悲しみにすら無感覚に自分に気付いたデイヴィスは、本当に妻のことを愛していたのかもわからなくなってしまう。義父のある言葉をきっかけに、身の回りのあらゆるものを破壊し、自分の心の在り処を探し始めたデイヴィスは、その過程で妻が残していたメモを見つけるが……。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 上に載せた映画.comによるストーリーでは、突然の妻の死に対し、「一滴の涙も流すことができず、悲しみにすら無感覚に自分に気付いたデイヴィス」とありますが、確かに涙も出ず困惑しているものの、そこで描かれているのは無感覚ではなく、「他者からは理解できない哀しむ姿」です。
 葬儀のすぐ翌日には出社し、いつも通り仕事をしようとし、(コネ入社しているので経営者でもある)義父からも止められるのですが、デイヴィスはそのまま仕事をしようとします。

 「悲しみにすら無感覚」というのは違っていて、それは、原題のDemolitionが示す通りです。
 Demolition=解体ということで、デイヴィスは妻の死後ひたすら解体し始めます。
 最初は、事故直前に妻と交わしていた話に出てくる冷蔵庫を、そして、妻が注文していて届いたコーヒーメーカー、自分の仕事場のPC、オフィスのトイレの個室用ドアと次々に解体していきます。
 最終的には解体から、破壊へと進んでいくのですが、これこそが、デイヴィス自身の悲しみの姿なのだと僕は思いました。

 他者からは、頭がおかしくなったのではないか、と懸念されるほど、解体し、破壊し続けていくその行為は、まさに自己破壊行動で、それは自傷行為と同じようなもので、悲しんでいるがゆえに、その悲しみが大きいがゆえに自分を傷つけるかのように、妻の死を想起させるもの、妻が話していた冷蔵庫を解体し、注文していたコーヒーメーカーを解体する。
 その行為でしか、悲しむことが出来なかったのではないかと思います。

 解体、破壊のあとは、再生、再構築、創造へ向かうということで、解体、破壊の限りを尽くした後で、妻の死の現実を受け止め、デイヴィス自身のやり方で妻の死から新たなものを生み出します。

 この作品の良いところは、その徹底した破壊行動にもあるのですが(僕も出来ることならここまでやってみたいです)、途中で関わることになるカレンと、その息子クリスとのやりとりです。
 周囲の人間には理解されない哀しみの中にあるデイヴィスが出した手紙によって関わることになるカレンは、デイヴィスの抱える哀しみを否定せず、受け入れます。
 けれど、映画とかドラマだとよくあるような男女関係ではなく(キスもセックスもない)、最初はカレンがデイヴィスを受けとめる側でしたが、徐々にお互いを尊重し合い、友情のようなものを築き上げていきます。
 それはクリスとの関わりも大きく、停学処分を食らって家に引きこもっているクリスをデイヴィスが受け止めるということで、デイヴィスがただ受け止められるだけの存在ではなく、受け止める存在でもあるということも描いていきます。

 ラスト近くのシーンでは突然のあまりにもむき出しにされた暴力が描かれていて目を背けるほどショックを受けたものの、「ケガした以外は良かった」という言葉とともに、カレンの姿は描かれなかったものの、デイヴィスとクリスの笑顔というエンディングに、そこにも年齢は離れているけれど二人の友情が見られ、とてもよかったです。

「ガーンジー島の読書会の秘密」

 年始に子どもたちに会った際に頼まれていた、クレヨンしんちゃんの映画、当初は4月末から公開ということだったのですが、緊急事態宣言の影響で公開が延期され、ゴールデンウィークあたりには映画見つつ、子どもたちに会えるかな、と思っていたら、ずるずると時間が経ち、子どもたちとはすでに4か月以上も会っていないので、暇をしています。
 ならば一人で映画館にでも、と思うのですが、緊急事態宣言の影響で公開されている作品も少ないため、見に行きたいな、という作品もなく、ひたすらAmazonで見ています。
 で、おすすめ作品になっていたので観たのがこの作品です。

 


ガーンジー島の読書会の秘密(字幕版)

 

『ガーンジー島の読書会の秘密』公式サイト


作品データ映画.comより)
原題 The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society
監督 マイク・ニューウェル
製作年 2018年
製作国 フランス・イギリス合作
上映時間 124分
配給 キノフィルムズ
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより)
1946年、終戦の歓びに沸くロンドンで暮らす作家のジュリエットは、一冊の本をきっかけに、“ガーンジー島の読書会“のメンバーと手紙を交わすようになる。ナチに脅えていた大戦中は、読書会と創設者であるエリザベスという女性の存在が彼らを支えていた。本が人と人の心をつないだことに魅了されたジュリエットは、読書会について記事を書こうと島を訪ねるが、そこにエリザベスの姿はなかった。メンバーと交流するうちに、ジュリエットは彼らが重大なひみと隠していることに気気付く。やがて彼女は、エリザベスが不在の理由にたどり着くのだが……。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 いろいろと映画やドラマ、アニメを見ているのですが、この作品のことを書こうと思ったのは、ラストシーンが良かったからです。
 物語の内容は公式サイトに書いてあるものではあるものの、重要な要素が抜けていて、それは、ジュリエットをめぐる男女関係です。

 ジュリエットに関わる男性としては、担当編集者のシドニー、婚約者のマーク、そして、「“ガーンジー島の読書会“のメンバー」であるドーシーの三人になります。
 他にも読書会メンバーの少年イーライや高齢の郵便局長エベンも男性ですが、男女の関係というような視点で見ると、上に書いた三人がジュリエットと深く関わることになります。
(と言っても、シドニーも途中でゲイであることが分かります。)

 もともとジュリエットが持っていて、戦争によって手放してしまった本がドーシーの手に渡り、それによって、ジュリエットとドーシーの文通が始まります。
 ジュリエットは職業作家として自立していて、仕事の予定(朗読会・サイン会)もあったのだけれど、「ガーンジー島の読書会」に興味を惹かれ、島に行くことに。
(ちなみに僕はこの映画を観るまでガーンジー島の存在、場所を知りませんでした…)

 急に行ったので、歓迎ばかりではなかったものの、少しの期間ですぐに帰るかと思われていたジュリエットはそのまま島に残り、読書会に参加し、さらに戦争下の島の様子を調べ続けるうちに、メンバーとも打ち解けていきます。
 そこで、「秘密」が明らかになっていくのですが、僕がこの作品で良いな、と思ったのはその「秘密」に関することではなく、ジュリエットの姿です。
(単にジュリエットを演じるリリー・ジェームズが好きということもありますが。)

 そもそも一人の作家として自立していて、けれど、やはりそこには時代の影響で「女性」というだけで低く評価されてしまう現実があり、男性のペンネームで仕事をしています。
 最初のシーンで、読者からも「なぜ男性の名前を使っているの?」と聞かれ、それに対しても微妙で曖昧な返事をしています。
 また、ガーンジー島へ旅立つ際には交際しているアメリカ兵のマークからプロポーズされ、一目で高価だとわかる指輪を渡され、それに対して「イエス」と言います。
 けれど、その指輪をはめていたのは島へ行くまでの間だけで、島についてからは、逆に目立ってしまうことから、指から外して財布の中にしまいます。

 ジュリエットが中々島から帰って来ないことにしびれを切らしたマークが突然島にやってきて、「なぜ指輪をしていないのか?」と問い、それに対するジュリエットの答えに納得しないマーク。
 そうして二人は飛行機で島を離れるのですが、その時に描かれるのは、ジュリエットのベルトを締めるマークの姿です。
 それは、女性を守る男、また、女性を高価な宝石で飾る(いわゆるトロフィーワイフ)男という価値観の象徴でもあります。
 実際に婚約指輪だけでなく、島にやって来たときも、ロンドンでもマークはジュリエットに真っ赤なバラを渡していて、まさに「飾り物としての女性」という価値観を持っていることが分かります。

 冒頭から描かれているように、ジュリエットは作家として担当編集者もいて、今後のスケジュールも埋まっているような仕事をこなしている人間です。
 それは「守られる存在」だったり、誰かに「飾られる存在」ではなく、自立した一人の人間です。

 そして、ラストシーンでどうなるのか、というと、ジュリエットを探しに来たドーシーを見つけたジュリエットが、自分から「結婚してくれる?」とプロポーズします。
 この、ジュリエットの姿がとても良いな、と僕は思いました。
 僕なんかはプロポーズなんかどっちがしたって良いと思っているのですが、日本だけではなく世界的にも、プロポーズは男性からするもの、みたいな価値観があるように思います。
 女性は守ってあげないと、とかトロフィーワイフみたいにする男性、あるいは、守られることやトロフィーワイフ扱いされることを拒む女性でさえ、プロポーズなどの場面では、なぜか男性がするものみたいな価値観を持っている気がします。

 そういう価値観がある中で、ジュリエットはドーシーにプロポーズします。
 そしてその前のシーンでは編集者のシドニーに、どのくらい印税が残っているか聞き、そのお金で島に家を買うことを決意していて、直接は描かれていないものの、島で暮らすことになる家もジュリエットが購入したことが分かるようになっています。

 この、ジュリエットが最初は男性の名前を使わないといけなかったこと、そして、守られたり、飾られる存在であったものから、自分はそのような存在ではない、と守り、飾ろうとする価値観や行為を拒み、自分自身の意思で結婚を申し込み、自分の稼ぎで家を買う。
 その行為は、何かを手放すわけでもないということが、プロポーズ後の最後のシーンでも描かれていて、それがとても良いな、と思いました。
 他にも、最後のシーンの3人がみんな血縁関係にはないけれど、「家族」であるというのもとても良いな、と思ったポイントです。

「花束みたいな恋をした」

  普段は直近で観た映画について書いているのですが、今回は誰かとこの映画の話をしたいな、というか、どう思ったのか聞きたいな、と思ったものの、結局誰とも話が出来ずにいるので、書いてみようと思います。
 そもそも、恋愛系の映画は苦手というか、避けているというか、映画館で観ることはまずないのですが、それは小学校高学年だったり、中学生の頃のいわゆる「思春期」というものに突入した人たちが、誰と誰が付き合ってるとか、誰が誰のことを好きだとか、そういうものに巻き込まれたりしてうんざりし、それも僕が学校が嫌いな理由の小さくない理由の一つだからです。
 なので、高校で男子校に入り、そういう「恋愛」というものが普段の生活からなくなったとき、本当にホッとし、自由になったと感じました。
 「でも、結婚したじゃん」と友だちには言われるのですが、それも「恋愛」というものからなるべく距離を置きたかったので、結婚したことによって、これで「恋愛」とかいうものが自分とは関係のないものになった、と安心したことを覚えています。

 ですが、いつも聞いているラジオ番組や(アフター6ジャンクションSpotifyでの別冊アフター6ジャンクション)、東京ポッド許可局文化系トークラジオLife)、Podcast戸田真琴と飯田エリカの保健室)で様々に語られているのを聞き、これは見に行こうと思い、映画館に見に行きました。

 

 

映画『花束みたいな恋をした』公式サイト

作品データ映画.comより)
監督 土井裕泰
製作年 2021年
製作国 日本
上映時間 124分
配給 東京テアトルリトルモア
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより)
東京・京王線明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った 山音麦 (菅田将暉)と 八谷絹 (有村架純)。好きな音楽や映画が嘘みたいに一緒で、あっという間に恋に落ちた麦と絹は、大学を卒業してフリーターをしながら同棲を始める。近所にお気に入りのパン屋を見つけて、拾った猫に二人で名前をつけて、渋谷パルコが閉店しても、スマスマが最終回を迎えても、日々の現状維持を目標に二人は就職活動を続けるが…。まばゆいほどの煌めきと、胸を締め付ける切なさに包まれた〈恋する月日のすべて〉を、唯一無二の言葉で紡ぐ忘れられない5年間。最高峰のスタッフとキャストが贈る、不滅のラブストーリー誕生!
──これはきっと、私たちの物語。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 僕が見に行ったのは(休みが平日なので)平日の昼間だったのですが、殆どの人は2人組でした。
 カップルが多かったわけでもなく、それよりも高校生くらいから年配の夫婦、あるいは友だち同士と見える人たちと年齢層が広く、僕のように1人で観に来ている人は殆どいませんでした。
 この作品を観終わった後、誰かと話したいというか、観た人の感想を聞きたいな、と思ったので、2人で来ていた人たちがうらやましく感じるとともに、カップルで観てはいけない作品だとも思いました。

 カップルで観ちゃいけない作品だな、と思ったのは、「別れる」という結論が最初から示されていて、それまでの流れが描かれているからで、今「恋愛」をしている人たちにとっては中々に気まずい雰囲気になるのではと思ったからです。

 最初に書いたように、いろんな人がいろんな視点でこの作品について語っているのを聞いて、何か僕がその人たちとは違った視点を持っているということはないのですが、僕がうらやましいな、と思ったのは、男女関わらず、「文化」で意気投合するということがこれまで経験したことがないからです。
 本だったり、映画だったり、あるいは美術作品でも何でも良いのですが、僕が好きなものを誰か他の人が好きで一緒にそれを語ったりした経験がありません。
 高校の時、僕が村上春樹作品を読み始め、友だちたちが原田宗典作品にはまっている中、僕は原田作品は読まずに、村上作品をごり押しして、結果的に2人が村上春樹作品にはまったり、あるいは、僕らと同世代の綿矢りさが『インストール』を発表して、3人で『インストール』についてあーだこーだ話したことはありますが、出会った人と好きな作品がマッチしていて意気投合というか、話したりするという経験はなく、こういう出会いがあること自体、とてもうらやましく感じました。

 けれど、一方で、好きな作家の名前や作品名は出てくるものの、その作家のどの作品が好きなのか、作品のどういう所が好きなのか、という部分の話は全く出て来ず、ただその作家が好きという点ばかりが出てきて、本当にその作家のことが好きなのか?という感じもしました。
 作中に出てきた作家だと僕は穂村弘さんの作品が好きなのですが、例えば、穂村さんが書いたエピソードの中に、あんパンをジャケットに突っ込むというものがあって、僕はそれが好きなのですが、そういう話は全く出てきません。
 麦くんの家にある本棚を絹ちゃんが見て、「うちと同じ」というようなことを言う場面がありますが、それでなんか通じ合う気になる気持ちも分からなくはないものの、でもそれはやっぱり背表紙でしかなく、中身ではないわけです。
 見ているのは背表紙だけで、その中に書かれていることのどれが好きだから本棚にあるのか、ということは語られることはありません。

 その背表紙だけを見て、この人とは通じ合えているような気がしてしまい、中身は丸で見ていなかったというのが、結局のところ、この2人の関係だったのかなと思います。
 表面上は似ているようでいて、でも、考えていることは全く違っている。

 それは、麦くんが「養わなければならない」とか、絹ちゃんに向かって「働かなくて良い。家にいれば良い」とか、どんどんマチズモ的思想を表面化してくることとも関係していて、結局の所、中身をお互い知らないまま、話し合うこともなく関係が始まり、だからこそ、終わったのだな、と思いました。

 まぁ、でもその「中身」も状況によって自分も相手も変わっていくので、僕の離婚という結果から考えると、普段からどれだけ2人で話しているか、それが当たり前になっているかということがやはり大切なんだよな、と痛感します。

「火口のふたり」

 今回も観たいなと思っていた映画がAmazonで観られるようになっていたので観た作品です。
 映画館で観ようという感じではなく、この映画が公開されたとき、たまたま原作者の白石一文さんの小説を読んでいたこともあり、映画評を読んで、観られるようになったら観ようと思っていました。

※ちなみに、今回観たのはR15となっていますが、劇場版ではR18だったようです。
 モザイクについて思っていることを書くとそれだけで何千文字にもなりそうなので省きますが、最初観ていたら僕の目が悪くなったのかと思いました。出演者も同意してることを前提に考えると、ホントにこのモザイク文化は早くやめて欲しいと思います。
 


火口のふたり (R15+)


作品データ
映画.comより)
監督 荒井晴彦
製作年 2019年
製作国 日本
上映時間 115分
配給 ファントム・フィルム
映倫区分 R18+

ストーリー(映画.comより)
東日本大震災から7年目の夏。離婚、退職、再就職後も会社が倒産し、全てを失った永原賢治は、旧知の女性・佐藤直子の結婚式に出席するため秋田に帰郷する。久々の再会を果たした賢治と直子は、「今夜だけ、あの頃に戻ってみない?」という直子の言葉をきっかけに、かつてのように身体を重ね合う。1度だけと約束したはずの2人だったが、身体に刻まれた記憶と理性の狭間で翻弄され、抑えきれない衝動の深みにはまっていく。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 作品の内容というか登場人物の2人は、他のサイトとかの説明だといとこ同士と書かれていたり、元恋人同士と書かれています。
 登場人物もほぼこの2人だけで、物語は進みます。
 父親からの電話でいとこが結婚するというので帰郷した賢治(けんちゃん)と、結婚式を控えた直子。
 2人はいとこで元恋人で、直子の結婚式を控え、直子の結婚相手が不在(自衛官で他の場所にいる)の数日間会い、セックスしまくるというものです。

 10代後半、あるいは20代最初に付き合い、その時にもセックスしまくっていて、それを思い出すかのように(別れて何年経ったのかは分からないけれど)、再会後にその時を思い出すかのようにセックスしまくる。

 僕にはそんな経験はないけれど、まぁ、こういうこともあるのかな、と思うのは、その最初の「別れ」が単にケンカしたとか、すれ違いとかではなく、お互いにお互いを思っていたけれど、「いとこ」という関係への後ろめたさなどによるものだったりするからです。

 まさにむさぼり合うかのようにセックスしまくる2人ですが、そこに少しだけ震災について触れられています。
 そしてラストも同じように大きな災害が出てくるのですが、僕はそれよりも、震災というよりも、結婚、離婚、子どもがいるかどうかやいとこという血縁というものがこの話の軸になっているように思いました。
 「いとこ」だから恋人だったけれど、どこか後ろめたさを感じていたという賢治、そして、その賢治と直子が結婚すれば良かったと言っていた賢治の母の話をする直子。
 子どもを産むくらいしか自分に出来ることはなくて、だからこそ結婚という選択をしたという直子。

 それらの様子を見ていると、2人はまだ互いに結び合っていて、だからこそ、再会して、期間限定という縛りも(最初)あったからこそお互いをむさぼり合う。

 セックスシーンがとても多く、会話も2人だけですが、僕がとても興味深かったというか、良いな、と思った台詞は賢治が言った「なぜ離婚したのか聞くけど、なぜ結婚したのかは聞かない」という言葉です。
 僕はまさに今賢治のように子どももいて離婚していて、このままだと無職になるかもという状況にいるのですが、その状況よりも、「なぜ結婚したのか(しようとしたのか)」ということを誰も聞かない、ということを感じていました(感じています)。

 賢治は自分からその話をするのですが、僕もこの作品を見ながら「なぜ結婚したのか」を考えていたら、その理由は明確にあって、それを考えたとき、やっぱり離婚したのは正解だったな、と思いました。
 それにしても、他人はなぜ離婚した理由を知りたがるんだろうな、と思います。

 あと、最後気になったのは、最後のシーンで「中出し」というのがクライマックスになっているのですが、そもそもコンドーム付けずに散々してるのに、「え?今更それ聞く?」と感じてしまいました。
 まぁ、2人にとっては気持ちの問題なのだろうとは思いますが。

「運び屋」

 ゴールデンウィークになったからなのか、仕事を辞めることが決まり、後任も正式に決まったことからか(でもまだ入ってきていない)、文章を書く気が少しずつ戻ってきました。
 僕はこうして文章を書いてきたし、これからも書ける生活をしていきたいなと思っています。
 ということで、今回も映画館で見たいと思っていたけれど、色々あった2018年公開で見られなかったクリント・イーストウッド監督作品の「運び屋」です。
 


運び屋(字幕版)

 

クリント・イーストウッド監督・主演最新作『運び屋』公式サイト 大ヒット上映中!

 

作品データ映画.comより)
原題:The Mule
監督 クリント・イーストウッド
製作年 2018年
製作国 アメリ
上映時間 116分
配給 ワーナー・ブラザース映画
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより)
90歳になろうとするアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は金もなく、ないがしろにした家族からも見放され、孤独な日々を送っていた。ある日、男から「車の運転さえすれば金をやる」と話を持ちかけられる。なんなく仕事をこなすが、それはメキシコ犯罪組織によるドラッグの運び屋。気ままな安全運転で大量のドラッグを運び出すが、麻薬取締局の捜査官(ブラッドリー・クーパー)の手が迫る……。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 クリント・イーストウッド監督作品は基本的に全部見ていて、特にこの20年あまりに発表された作品はどれも心に残っています。
 なので、当然のようにこの作品も見たいな、と思っていたところ、Amazonで観られるようになっていたので見ました。

 この作品を見たまず最初の感想は「クリント・イーストウッドがおじいさんになった。」ということです。
 現時点で90歳、作品の設定年齢も90歳なので、おじいさんになった、というのは当たり前の感想ですし、わざとそのように見せていたのかも知れませんが、それでも今までのクリント・イーストウッドとは明らかに違う「おじいさん」という感じがありました。
 それは背筋だったり、体躯だったり。あるいは、クリント・イーストウッドが放つ覇気というか、ドスが効いた感じというか。
 それでもこうして監督・主演をするということは本当にすごいなと思います。

 作品の内容としては、すごくいい話でも、大きな波がある訳でもないのですが(まぁ、あるといえばある出来事はあります)、仕事を優先し、家族を二の次にしていた人が、たまたま出会った仕事が法に触れる仕事で、なおかつ大金を手に出来る仕事だったので、ずるずるとその仕事を続けていく、というものです。

 大金というか、金銭的に余裕が生まれてきて、そうすると、今まで放っておいた家族のことも考えることが出来るようになって、家族と邂逅することが出来、この点が多分多くの人が「良い物語」として捉えるのかも知れませんが、僕としては、やはり「経済的な余裕が他の余裕も生む」という現代社会の状況を如実に現しているように感じました。

 DVや虐待など、あるいはそこまでいかなくても、家事育児などのワンオペの問題など、家族にまつわる話題だけでも事足りませんが、それらの多くは「お金」が関わっているというか、「お金があったら違っていた」ということがあります。
 お金があることによって気持ちに余裕が出来、暴言や暴力をすることもなかったり、不安になることもなく、誰かや何かに依存したりすることもなくなる。
 家事や育児の負担もお金があれば「外注」したり、機械などで済ますことが出来る。

 でも、実際にはその「お金」がないから、お金を稼ぐために仕事を優先することになり、結果として余裕がなくなり、追い込まれ、それが他のところにしわ寄せが行く。
 この作品は、まさか90歳の老人が運び屋だとは考えもしない麻薬取締局との駆け引きとしての痛快さや、最終的に元妻との別れの時間を持てたり、裁判で自ら有罪だとするところなど、見所はあるのですが、僕としてはどうしても、この現代社会の「お金」というものが持つ、「お金」そのものの価値だけではない様々な面が如実に表れているように感じました。