映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「永遠が通り過ぎていく」

 有給休暇を1年間に5日は取らないといけないことは十分承知の仕事をしているのですが、取る必要もなく、僕が働いている会社ではコロナにかかっても特別休暇扱いではなく、有休で処理するということもあり、取るタイミングがないな、と思っていたら、上司にやんわりと有休を取ることを促されたので、今日有休を取りました。
 かといって、特に何かする予定もなかったのですが、いつも聞いているAV女優で文筆家の戸田真琴さんと少女写真家の飯田エリカさんのポッドキャスト戸田真琴と飯田エリカの保健室)を聞いていて、戸田さんが監督した映画が上映しているということだったので、観に行くことにしました。
 最初は今日金曜日に行こうかと思っていたのですが、今日から夜遅い時間になるということだったので、昨日の夜7時過ぎからの回に観に行きました。
 会社から上映しているアップリンク吉祥寺が結構遠いので間に合うかなと思って行ったら余裕で、チケットを買ったあとちょっと外で夕食を取ってから戻って、エレベーターを降りた目の前にに戸田さんと飯田さん、ゲストに来ていた映画監督の菊池健雄さんらがお話をしていたので、すごくびっくりして、話してもいないのに緊張しました。

f:id:ysdnbm:20220408063806j:plain

 

戸田真琴監督作品 永遠が通り過ぎていく 公式


作品データ映画.comより)
監督 戸田真琴
製作年 2022年
製作国 日本
上映時間 60分
配給 para

内容(公式サイトより)
たった一人に語りかけるように、切実で美しい言葉を手向けるAV女優・文筆家の戸田真琴。2019年、「戸田真琴実験映画集プロジェクト」と称して、自らの人生における大きな喪失のようなものをベースに、言葉と映像で語り直すことを試みた。「自分の生きてきた世界のこと、ずっと興味がなくて見たことがなかった。(でも、)自分の生きてきた史実を愛している」。生まれたのは自伝的な3本の短編。植物園で互いの宿命を解析し合う少女たちの物語「アリアとマリア」、キャンピングカーで旅に出る男女の刹那の交流を描いた「Blue Through」、監督自身の送った手紙をもとに大森靖子氏が書き下ろした楽曲を使用した喪失と祈りを描く賛美歌「M」。戸田は全作品の脚本を執筆・初監督をつとめる。1年間の自主配給による上映が話題を呼び、「永遠が通り過ぎていく」が待望の映画館での上映決定。詩的で私的な短編集は、認められない自分も照らす“賛歌”となって、きっとあなたの世界に降り注ぐ──。

感想
 上に引用した内容の通り、3つの短編「アリアとマリア」、「Blue Through」、「M」が収められています。
 上映後に戸田さんと菊池さんの対談があったのですが、そこで戸田さんが「シングルではなく、ミニアルバムのようにしたかった」とおっしゃっていたように、一つの代表的な作品が印象に残るというよりは、三つの作品を通してミニアルバムのようになっていると感じました。
 最初の作品「アリアとマリア」は出てくる人物は少ないのですが、情報量が多くて飲み込むまでに時間がかかったというか、まだ飲み込めていないのが正直なところです。
 それは、字幕があること、それも日本語だけでなく、フランス語の字幕があることも僕にとっては大きく、どうしても字幕に目を取られてしまい、それとともに、登場人物の表情や言葉、洋服などの装飾品や背景なども取り込むことになるので、それを取り込むことで自分自身のキャパシティを使ってしまい、内容そのものを飲み込むというか咀嚼するまで至らなかったように思います。
 また、直前に、飯田さん、戸田さんが目の前にいたということから来る緊張感もありました。

 続く、「Blue Through」は打って変わって、落ち着いて観ることが出来ました。
 どこで出会ったのか分からない2人の一時期を描いたもので、この作品だけで長編にすることも出来るのだろうな、と思いました。
 
 最後の「M」は大森靖子さんの「M」のミュージックビデオになっている作品で、大森さんの歌声は僕が今まで持っていた印象とはちょっと違っていて、それは多分、歌詞そのものに戸田さんが関わっていることがあるのかな、と思います。

 全体を通して感じたのは、上映後の対談でも話されていたように、知ってもらいたいけど知られたくないということや、人間に関わるのが苦手、だけど関わりたい、あるいは一面で切り取られたくないので、むしろ真逆に見えるような振る舞いをする、といった、相反するものを描いている中で、戸田さん自身の内にあるものを見せようとしているのではないか、ということです。
 映画を作って公開して、上映後には連日ゲストと対談するということ自体が自分自身を知ってもらうということでもあるので、菊池さんと話している時に観客側を見る目線がちょっと上の方を向いていて、けれど、慣れてきたからなのか、あるいは伝えたいという意思があったからなのか、少しずつ目線が下がってきて、観客とも目線が合っているという瞬間もあり、それが、戸田さんの作品、戸田さん自身の魅力でもあるのだと感じました。

 僕自身は小さな時から他人からギャップに驚かれることも多く、例えば高校の時はずっと本を読んでいたので、運動が出来ないと思われていたけれど、体育は得意でしたし、年齢も実年齢を当てられたことがなかったり、慎重な面がありつつも割とすぐに行動に移したりと、自分では全然ギャップでもなんでもなく、僕は僕でしかないのだけれど、他の人からすると一つにはくくれない部分があって驚かれたり、謎に思われたりして、それで嫌なことを経験したりもするので、そういう多面的な部分があるということを身にしみているので、今回は映画でしたが、ポッドキャストや戸田さんの書く文章、話している様子でまた戸田さんのことを知ることが出来て、嬉しく感じました。

 かといって、近づくのも恐れ多いのでそそくさと帰ったのですが。
 もう一度観たいと思う映画はそこまで多くないのですが、この作品はもう一度、近いうちにというよりは、もう少し時間が経ってから、それが数週間なのか、数ヶ月なのか、あるいは1年後なのか分かりませんが、自分自身の中で咀嚼し、飲み込めたときにまた観たいなと思う作品でした。