映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

戸田真琴『あなたの孤独は美しい』

 一ページ目を読んで涙が出たのは初めてです。
 戸田真琴さんの文章を初めて読んだのは、どんなきっかけだったのかは忘れてしまいましたが、(無料で読める範囲だけだけど)noteでの文章を読み、この人の文章と感性は良いなぁ、と思いました。
 ですが、本を買うまでにはならなかったのですが、最近のnoteでの投稿(「悪気のない最悪」-岡村隆史さんのANNでの発言に対して思うこと|戸田真琴|note)を読んで、出している本が気になりました。
 で、いくつかのインタビュー記事を読んで、最初に出したこの本が良さそうだなと思って読みました。

 


あなたの孤独は美しい

 

あなたの孤独は美しい|書籍|竹書房 -TAKESHOBO-


内容竹書房より)
SNS社会で異彩の存在――AV女優・戸田真琴、書き下ろし処女エッセイ。
格差社会の拡大、未来への薄暗い不安、ただなんとなく日々苦しい……そんな押しつぶされそうな現実の中で、戸田真琴が贈る孤独賛歌。

感想
 最初に書いたように、最初のページを読んで涙が出ました。
 それは何というか、予想もしていなかったのに、突然今までのこともすべて肯定され包み込まれたような、そんな感覚でした。

 そこから読み進めていって、まぁ、いろんなことを考えたのですが、この本のタイトルにあるように「孤独」について書いていきたいと思います。
 「あぁ、僕は孤独だな」と、改めて思いました。
 今までも孤独だったし、今も孤独で、でも、それは決して悪いことではない。

 一昨年、暴力的に家から追い出された時、「さみしい」と感じました。
 それは一人暮らしをした経験がなかったこと、3人の子どもたちがいつもいたこと。
 その環境から突然切り離され、一人きりになったからで、その時「さみしい」と感じました。

 今はどうかというと、特にさみしいという気持ちはありません。
 子どもたちと離れて暮らす生活にもようやく慣れ、一人暮らしも3年目になり、一人で暮らす快適さも身についてきました。
 なので「さみしさ」は感じないのですが、この本を読んで改めて気づかされたのは、僕は孤独だったし、今も孤独だ、ということです。

 僕が一番孤独を感じていたというか、孤独であるということをひしひしと感じていたのは10代後半です。
 村上春樹の小説から始まって、小説を読むようになり、映画を年に100作品くらい観るような生活を送っていた10代後半、僕は僕が孤独であるということをひしひしと感じていました。

 時にはそれが「さみしい」という気持ちにも結びついたのですが、人間はそれぞれが孤独なのだということの気づきは、僕にとっては生き方の指針になりました。
 それから割とすぐに結婚し、子どもが生まれ、その家族と一緒に暮らしてきたので、いつの間にか忘れてしまっていた「孤独である」ということ。

 僕は今また10数年経って、孤独である、ということを教えてもらいました。
 僕にとって「孤独である」ということは決して「さみしさ」と結びついているわけではなくて、それは、「個」であるということを表しているような気がします。

 僕は僕であって、僕以外の誰も僕にはなれないし、同じように、目の前にいる相手はその人であって、僕がその人になることも出来ない。
 だからどんなに自分が感じていることを伝えようとしても、相手に伝わったかのように自分が感じられたとしても、それが本当に「同じ」かどうかはわからない。
 というか、どんな言葉や行動、時間を費やしたとしても、わかり合えるなどありえないということ。
 それは相手のことを理解したいということや、自分のことを知って欲しいということへの諦めではなくて、僕の中では大切な「事実」である、ということ。

 10年以上「自分の」家族と暮らしていたことですっかり忘れてしまっていたなぁ、と。
 僕は今までも孤独だったし、今も孤独である、と。
 そこからまたはじめようと思いました。

 この本の中に書いてある戸田さんのエッセイは、その「孤独である僕」を包むというか、隣にいてくれるというか、そういう感じがしました。
 そして、なんてこの人は優しいんだろう、と。
 それはあらゆる「他者」への態度で伝わってきて、お姉さんとのエピソードでも、両親への接し方、クラスメイトへの接し方にあらわれているし、仕事の話でも伝わってくるし、「優しさの周波数」という項目も実際にあって、そういうことを考えること自体がそもそも「優しさ」に満ちあふれているな、と。

 まだまだたくさんのことを読みながら考えたのだけれど、今回はこの辺で。