映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

モヤモヤの正体

 毎年年賀状を出しています。
 その多くは結婚したときに出すようになった親戚なのですが、中学の時の担任、高校・大学の友だちだったりします。
 殆どの人は1年に一度も会わずにいるので、自分自身を含め生存確認でもあるのですが、ネットではつながっていなかったり、つながっていてもネットでは連絡などをしていない人もいて、年賀状だけの付き合いになっていたとしても、自分にとってはとても大切なものになっています。
 
 去年だと、一昨年から描き始めた絵を実はネットで見ていたという人が何人かいて、嬉しく思ったり、今年だと、今回年賀状用に描いた絵だったり、今まで描いてきた絵について触れてコメントしてきてくれた人たちがいて、とても嬉しく感じました。

 

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 自己満足でもあるので、返事がない人がいてもそれは全く気にならないのですが(高校からの友だち2人はずっと返って来なかったけれど、1人は結婚してからくれるようになった)、大学の友だちからの年賀状に書いてあったコメントにモヤモヤしてしまいました。

 その友だちには何ら非があるわけではなく、単に僕自身の問題なのですが、何が書かれていたのかというと、一昨年から東北にある実家に引っ越したこと、大学時代の僕を思い出したことが書かれていました。
 引っ越したことは去年来た年賀状で住所が変わって知っていて、そこが実家の住所だったので、何かあったのかなぁ、と気になっていたのですが、家族で実家に戻りそこでの暮らしを満喫しているとのことで良かったです。
 東京から離れたいという気持ちを僕は持っているので、それが再燃したかと言えば、映画館、美術館や画材屋さんへのアクセスもよく、子どもたちも近くに住むようになって、会う頻度が増えたわけではないのですが、嬉しそうにしているので、今の生活というか生活圏には満足しているので、(豪雪地帯なので)雪がない季節に訪ねたいなとは思うものの、地方移住の気持ちは高まりませんでした。

 では、何にモヤモヤしているかというと、その友だちから見た大学生の時の僕についてです。
 その友だちは僕の「きれっきれのゼミの発言がなつかしい」と書いていました。
 そのゼミでは同じグループにいて、ディベートがメインだったので、それを懐かしんでるだけで他意は全くないのは分かった上なのですが、それに対し、「今の自分といったら…」と考えてしまいました。

 学問の世界で生きていくことは大学院に進む前から自分には向いていないと分かっていたというか、僕がいた学科の専門領域ではかなり難しいことが分かっていたので、学問を続けていれば良かったという気持ちはありません。
 それに学問は年齢は関係がないので、やろうと思えば今からでもやれるわけなので、それについては、論文という形になるかどうかは分かりませんが、何かしらやろうとは思っています。

 その友だちは僕らの代の総代で、とても優秀でした。
 実際、就職先もどんなところでもその友だちを選んだだろうと思う中、彼女らしい選択をしたと思います。
 その彼女から見えていた僕が「きれっきれ」の発言をしていたということが、モヤモヤしているところです。

 このコメントを読んで、なんというか僕自身がまるで変わってしまったな、ということを考えずにはいられませんでした。
 「きれっきれ」の発言をするような(討論する)機会自体がないということはもちろんのこと、そもそもそうやって人と関わるパワーというもの自体がないこと、そして、そのパワーは若さ故とはいえ、健康だったからこそ出来たものだったような気がします。
 寝ることに何の苦もなく、23時まで働き、9時からの授業にも出て、勉強し、本を読み、ボランティアをしていた、かつてのパワーが今ではないこと、薬を飲むことによって寝て、勉強しようとも思わず、本もあまり読まなくなった今の自分に対してモヤモヤしたものを感じてしまいました。

 それは端的に言えば、およそ15年前に自分にあったものが失われてしまったという現実を目の前に映し出されたような感じで、そこには後悔も悲しみも苦しさも混ざっていて、何よりも、今の僕自身に対し、僕自身が納得していないということが分かってしまいました。
 そんなこんなでモヤモヤしつつ、とりあえず、雪がない季節になったら、会いに行こうかと思います。