「グリーンブック」
観たいなぁ、と思っていた映画がAmazonで観られるようになっていたので見ました。
最初は今自分が置かれている状況から(転職(第一志望に落ちた)と仕事(人がいない。休みたい。))、気軽な映画をと思っていたのですが、引き込まれていきました。
グリーンブック(字幕版)
映画『グリーンブック』公式サイト
作品データ(映画.comより)
原題 Green Book
監督 ピーター・ファレリー
製作年 2018年
製作国 アメリカ
上映時間 130分
配給 ギャガ
映倫区分 G
ストーリー(公式サイトより)
時は1962年、ニューヨークの一流ナイトクラブ、コパカバーナで用心棒を務めるトニー・リップは、ガサツで無学だが、腕っぷしとハッタリで家族や周囲に頼りにされていた。ある日、トニーは、黒人ピアニストの運転手としてスカウトされる。彼の名前はドクター・シャーリー、カーネギーホールを住処とし、ホワイトハウスでも演奏したほどの天才は、なぜか差別の色濃い南部での演奏ツアーを目論んでいた。二人は、〈黒人用旅行ガイド=グリーンブック〉を頼りに、出発するのだが―。
勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★
感想
アカデミー賞作品賞、助演男優賞(マハーシャラ・アリ)、脚本賞を受賞しているので、その時点で名作だということはわかるのですが、僕は実話をもとにした作品に弱いということもあり、この作品も例外でなく、心動かされるものがありました。
1960年代の初めに、人種差別の激しい南部にコンサートツアーに行く黒人ピアニストのドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)。
その運転手兼用心棒として雇われたトニー・リップ(ビゴ・モーテンセン)。
公式サイトに書かれていないことを書くと、トニーはイタリア系で、最初、黒人たちを「汚物」かのようにとらえています。
家の修理に黒人の作業員たちが来て、妻が彼らに出したグラスをゴミ箱に入れ、さらに彼らを「ニガー」と呼ぶ。
なので、ドクとの最初の面談でも彼に「雇われる」ということ自体を拒むのですが、お金がないためにその仕事を受けることになります。
この物語が作品として優れている点は、二人が抱える二重性にあると思います。
ドクはピアニストとして優れていて、聴衆は「白人」たちです。
けれど、ピアニストとしては優れていても「黒人」として扱われます。
では、「黒人」のコミュニティに入るとどうなるのかというと、それはそれで「ピアニスト」ということで、お高くとまっているようで、疎外されてしまうし、疎外感を感じてしまう。
また、トニーは「白人」なので、南部に行こうが差別の対象にならないのかと言えば、そうではなく、イタリア出身ということで差別される。
この二重性、あるいは逆転現象が起こっているという点を明確に描き出していることが、この作品の優れたところなのだと思います。
差別する側にも理由があるとかではなく(それは描かれていません。この作品では差別を絶対にダメなことだという点が貫かれています)、差別されていないかと言えば、実はそこにも差別の構造があって、差別され、あるコミュニティではもてなされるけれど、他の場面ではことごとく人間としては扱われなかったりする。
そして、その差別に対してある時は受け入れたり、折衷したり、断固として拒否をする(ので、攻撃も受ける)。
最初は黒人をニガーと呼び、「汚物」かのようにしていたトニーは、単に身近な存在に黒人がいなかったという、ある意味無垢で純粋な面を持ち合わせていたからこそ、ドクとの旅を通して、ドクを知るようになり、彼が受ける差別は不当であると、その差別に向き合うことになります。
誰かを差別するとき、そこにはいつも「知らない」ということが同居していると思います。
ある特定の国や地域から来た人たちを差別したりするとき、そもそも、「〇〇人」と言っている時点で、その「〇〇人」が身近にいないのだろうな、と思います。
〇〇は例えば「障害者」とかでもいいのですが、障害を持った人が身近にいないんだろうな、と思います。
もし、身近に障害を持った人がいれば、そもそも誰かのことを「障害者」とひとくくりにすることは出来ないとわかりますし、もしできたとしても、それはその人を表す一部分であることが分かるはずです。
例えば、僕は日本人ですが、「日本人は△△だ」みたいなことを言われたとして、確かにそこに僕は当てはまるかもしれないけれど、それは僕を表すほんの一部分にしかなりません。
けれど、この社会や人々は、「〇〇人」だとか、性別だとか、超ざっくりしたくくり方をしてとらえようとする。
その方が「楽」で「簡単」なのでしょうが、そんなに簡単に人のことは理解できないのが現状で、その簡単に理解できないこと、そして少しずつドクのことを知ったからこそ、トニーの黒人への認識が変わっていくという、その様がとても良いな、と思いますし、「楽」「簡単」だからと誰かをひとくくりにして語ろうとしてしまう自分たちへの戒めにもなっていると感じました。