映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

細川貂々、水島広子『それでいい。』

 医師から突然、薬を飲まなくても良いと言われ不安になっていたからか、 ある本が目に留まりました。
 (目に留まるとは言っても、そもそもAmazonで表示されたので、類似本を買っていた履歴があることや、そのとき類似本を見ていたということなのですが)


それでいい。:自分を認めてラクになる対人関係入門 Kindle版


 以前にもうつ病になったことがあるので、僕自身原作を読んだことがあり、TVドラマになったり、映画にもなった『ツレがうつになりまして』(ツレうつ)作者の細川貂々さんが書いた本です。
 ちょっと見返してみたら、貂々さんの本は今まで14冊読んだことがありました。
 ツレうつのようなパートナーの様子を綴ったものではなく、うつの専門家に聞きに行った本子育てに関する本不眠の本など自分の予想以上に沢山の本を読んでいました。

 貂々さんの本を沢山読んでいるものの最近はあまり読んでいなかったのですが、ふとそのタイトルに目が留まりました。
 実は、目に留まったのは新刊の『生きづらい毎日に それでいい。実践ノート』でした。
 他人と比べられないのでよく分からないのですが、最近、多分僕は他人よりも生きづらいのかも知れないと思っていたので、気になりました。
 そして、ちょっと見てみると、タイトルに実践ノートとあるように『それでいい。』という本があることが分かり、ちょっと勇気のいる値段ではあったものの、Kindle版だと少し安かったので読んでみることにしました。

 自分が以前にもうつ病を患ったこともあり、貂々さんのような柔らかい本をはじめ、専門書的なものまで読んできたのですが、それらの本を読んで初めて涙が出ました。
 本を読んで涙を流したこと自体もスティーブン・キングの『グリーン・マイル』以来20年ぶりくらいのような気がします。

 どこの箇所で涙が出てきたのかというと、そろそろ読み終わりそうな所でした。
 そこにはこんな言葉が書かれていました。

 

人は、成長する存在です。いくら口で「自分はこのままでよいのだ」と言っていても、ちゃんと前進するのです。逆に、「今は、これでよい」と思えない人は前進しない、ということを臨床経験から感じています。(157頁)


 「今は、これでよい」つまり、ここから、本のタイトルにもなっている「それでいい」ということへつながっていくのですが、これ以降涙が出てくるのを我慢しようとしながら読み進めました。

 薬を飲むことで、今では薬を飲まなくても良いと医師に言われるまで僕のうつ病はよくなりました。
 最近は希望を感じることもないものの、絶望感や不安で満たされることはなくなりました。
 僕自身もうつ病の一番ひどかったときから回復したことを実感しています。

 けれど、薬を飲んでいたことや、薬物治療以外でのうつ病に対する画期的な治療方法として取り入れられている認知行動療法含め、結局は、うつ病である自分というものは良くないもので、良くない状態なのだ、と考えて来ました。
 薬物療法認知行動療法も共通するのは、今の自分の状態が良くないから薬を飲んだり、認知(考え方、出来事の捉え方)を変えることによって、その良くない状態を良くしようというものです。

 それは、今まで散々自分でもやってきた、「ダメな自分」というものを突きつけられるものでした。

 でも、この本では、「それでいい」、うつの反応は当然のことで、それは当たり前のことなのだ、ということが書かれていました。
 うつによる症状は自分がいかにダメージを負っているかを表しているもので、自分がダメージを負っていることを認めよう、ということが書かれていました。
 これが僕にとってはとても新鮮で、心強い内容でした。

 読み返してみると、最初の方から貂々さんが対人関係療法について聞きに行った医師の水島広子さん(元衆議院議員)が担当するコラムの中で同じことを繰り返して書いていました。 
 

人間の変化は、現状の肯定からしかあり得ないのです。今の自分を否定し続けていると、地に足の着いた変化など起こせないのです。まずは、「事情を考えれば、今の自分はこれでよいのだ(当然なのだ)」ということを認めた上で、「でも、できればこういうふうになっていきたいな」と思えれば、実際に変化は可能でしょう。(51頁)

 

 水島医師は同じことを違う言葉で、違う具体例を使って何度も繰り返していました。
 例えば、沈めなければならない、抑えなければならないとされている「怒り」という感情について、こんなことを書いています。

 

「怒り=自分は困っている」という原点に返れば、攻撃的でないコミュニケーションが可能となるのです。まずは、自分の頭の中に「怒っている」=「困っている」という自動翻訳機を持ってみましょう。(68頁)

 

 「怒り」を覚えるのが当たり前な出来事がある。
 怒りを押さえ込むのではなく、怒りを覚えるのは自分が困っているということなのだから、怒りを覚えるほど困っていることを自分自身でまず理解し、身近な他者に伝え、助けを求めながら怒りのもとを解決していこう、と書かれていました。

 対人関係療法(Interpersonal psychotherapy、IPT)というだけあって、他にも以前から気になっていたコミュニケーションということについても書かれていました。
 

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 僕が大学に在学していた十数年前くらいからコミュニケーション能力だとか言われはじめ、その能力って一体何なんだ、と小馬鹿にした気持ちがありつつも、自分にはそんな能力がないと(元配偶者にも言われてきたし)自分で思ってきました。

 でも、そのコミュニケーションって一体何か、ということを考えてみれば、万人に好かれたり、万人と友だちになることもでもなく、親しい人、ちょっと仲がいい人、仕事上付き合う人、モブ、とそれぞれの層があって、それが自分の中で分けられるかどうか、ということが分かります。
 親しい、あるいは親しくしたいと思っている、パートナーだったり、子どもだったり、親だったり、親しい友だちと、仕事上付き合う人との親しさ、親しくしたいと思っていることは違います。
 指摘されれば当たり前のことなのかも知れないけれど、どこか、出会った全員と仲良くならなければならない、横暴な上司であっても受け入れなければならないという気持ちがあり、それが出来ない自分を責めてきました。
 70億人と仲良く出来るわけなんてないし、親しくなりたい、場合によっては親しくせざるを得ない人は実は数人、あるいは10人程度なのだから、その人たちと他の人を同列に考える必要はない、という指摘は改めてとても大切なことだと感じました。