映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「アリー スター誕生」

 久しぶりに映画について書いてみます。
 映画自体は結構見ているのですが、中々書く気にはなれず、それは仕事とも大きく関わっているのですが、それはまた違う時に(書く気が起きたら)書くとして、結論的なことを書くと、とりあえず今の仕事を辞めることが決まったので、気持ちが落ちついたということが大きいです。
 ということで、公開当時劇場で見たいなと思っていたものの、自分自身がそんな余裕もなかったので見られていなかった作品がAmazonで見られるようになっていたので見ました。
 


アリー/ スター誕生(字幕版)

 

映画『アリー/ スター誕生』ブルーレイ&DVDリリース

作品データ映画.comより)
原題:A Star Is Born
監督 ブラッドリー・クーパー
製作年 2018年
製作国 アメリ
上映時間 136分
配給 ワーナー・ブラザース映画
映倫区分 PG12

ストーリー(映画.comより)
歌の才能を見いだされた主人公がスターダムを駆け上がっていく姿を描き、1937年の「スタア誕生」を皮切りに、これまでも何度か映画化されてきた物語を、新たにブラッドリー・クーパー監督&レディー・ガガ主演で描く。音楽業界でスターになることを夢見ながらも、自分に自信がなく、周囲からは容姿も否定されるアリーは、小さなバーで細々と歌いながら日々を過ごしていた。そんな彼女はある日、世界的ロックスターのジャクソンに見いだされ、等身大の自分のままでショービジネスの世界に飛び込んでいくが……。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 
この作品について言えることは一言、主演のレディ・ガガがすごいです。
 歌については言うまでもなく、女優としてのキャリアも十分に積んできたかと思うかのような素晴らしさです。

 ストーリーで良かったのは、あくまでも原題のA Star Is Bornというように、「スター誕生」の話であることです。
 スターになるアリーがどのように見出されていくか、という物語の軸がスッと通っていて、そのアリーを見出し、パートナーになるジャックの人生とも絡み合うことになり、ジャックに振り回されることになるのですが、あくまでもこの物語はアリーの「スター誕生」の話であって、ジャックがどんな状態に置かれているのか、ジャックがどんなことをするのかという、とても大きなインパクトのある出来事の中でも、その物語の軸が通っています。

 逆に言えば、ジャックの物語ではないということから、ジャックが何に苦しみ、どうそれに立ち向かおうとしていたのか、ということが視聴者には断片的に提示されるものの、最終的にはアリーを見出し、パートナーにもなるジャックを救うことの出来なかった、しようとすれば出来たのではないか?という疑問に対しては曖昧さが残ります。

 けれど、自殺というのは結局その「原因」は本人以外には分からないし、自殺の「原因」とされているものも複合的に組み合わさっているので、何がいけなかったのか、どうすれば良かったのか、ということも簡単に答えられるものではなく、曖昧な原因で死んでしまうのだろうとも思います。

 ジャックの兄は「あいつがダメだった」と言いますが、それもやっぱり違っていると僕は思っていて、ジャック自身が悪かったのでも、あるいは弱かったのでもなく、ましてやアリーの言動が決定打だった訳でもなく、ただそういう沢山のものの中でジャックには自死という選択をせざるを得なかった、ということなのだろうと思います。

 この作品ではアリーがジャックを愛していること、ジャックもアリーを愛していることが伝わってきますが、このジャックの「自死」に至るまでについては、愛とかそういうものでは片付けられないし、片付けてはいけないものだと思います。
 誰かのことを愛していて、大切に思っているからこそ伝えた言葉や行いが相手を徹底的に打ちのめすこともあるので。
 だから、愛があれば救えたとか、愛していたのに何で?、とかいうのは意味がないと僕は思っていて、それよりも、愛とかいう言葉を使わずに、ジャックに対してどのようにすれば良かったのかということを考えることが重要なのではないかと思います。

 と、ジャックの話ばかりになってしまいましたが、アリーがいかにスターになるか、という点においては、冒頭に書いたようにレディ・ガガが圧倒的な歌唱力、演技力を見せつけるこの作品は本当に素晴らしいです。

わかりあえないことから

 今日は(も)うまく眠れるような気がしないので、久しぶりに文章を書いておきます。僕はこうして、文字にすることによって生きて来たので、今日もそうすることによって今日という日を終わらせようと思います。
 今日同僚から言われた言葉を何回か反芻し、その度にこの本のことというか、タイトルを思い出しました。

 


わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か

 

  読んだのはもう10年近く前のことなので、どんなことが書いてあったのかは忘れてしまいましたが、タイトルの「わかりあえないことから」というのは、僕にとってはとても重要な言葉というか人間関係における認識の根元にあるもので、基本的に他者とは「わかりあえない」ということを前提にしています。

 まぁ、今日はそれ自体もわかりあえていないんだなぁ、と、なんというか、怒るでも、悲しむでもなく、あぁ、やっぱり他者とはそもそも「わかりあえない」、そして「わかりあえない」ということからはじめるということ自体も「わかりあえない」んだな、と痛感しました。

 「SNSの使用に気をつけて」というのが、今日言われたことで、僕は本名を検索すればかつての出来事もあって、色々出てくるし、FacebookTwitter、このブログも簡単にたどり着く訳で。
 それで、どうやら僕が愚痴ってたり、書いていたことを「問題」だと感じた人がいたらしい、ということです。
 らしい、というのは本人から言われた訳ではないからで(同僚は自分に対して書かれたと、それこそ「勘違い」していたようですが)、読んだ人が読めば分かる、ということが「問題」のようです。

 らしい、とか、ようです、とか歯切れが悪いのは、直接言われたわけではないからで、僕はその「らしい」とか「ようです」とかいう曖昧な前提から考えることは出来ないので、やっぱりわかりあえないな、とも思うし、「(その言葉を)受け取る人のことも考えて」という発言にも、やはりわかりあえないな、と思いました。
 言葉を発したとき、それはブログでもTwitterでも実際に誰かと話すときも、それは何時までも残ることは十分に認識していて、誰がどう受け取るか分からないということも認識しているので、誰かを僕の自覚なしに傷つけてしまったのなら申し訳ないなと思います。
 けれど、そもそも、「(その言葉を)受け取る人のことも考えて」と僕に言ってきたということは、僕がそれを認識していないと思われているということであって、そこにもまた「わかりあえない」んだな、と感じました。

 大学生の時からこうしてブログだったり、mixiなんかから始まって色々文章を書いてきて、そこでいくつかの衝突も起き、まぁ、それはやはりオンラインによる「すれ違い」みたいなことでもあるとも思うので、じゃあ、書かなきゃ良いじゃん、と他の人は思うのかも知れません。
 けれど、僕はこうして「書く」ということでしか自分の考えをまとめられないし、書くことによってしか、自分の感じていること(それがポジティブなことであれ、ネガティブなことであれ)を認識することが出来ないというか、確認できないので、こうして今も文字にしています。
 だから、それをやめろと言われたら、僕が僕の感じていることを感じるな、認識するなということになるので、それはつまり、生きるな、ということを言われていることと同じことなので、僕にはやめることは出来ないのです。

 まぁ、端的に死ね、と言われているのと同じことなので。
 でも、何度か死ねるタイミングがあったにも関わらずこうして生きていて、やっぱり死ねないんだという絶望を経験した身としては、今日という日を生きていくしかないわけで、生きていくときに必要な「言葉」の発出をやめろと言われても無理なので、その僕が発した言葉が「問題」だとするならば、じゃあ、やめます、というのは、文字にすることをやめるのではなく、僕が発した言葉を「問題」だとする人がいる場に僕がいることをやめます、ということになります。
 ということで、終わりがはじまりました。

(書いていてめんどくさくなって色々端折ったので、また「勘違い」や「問題」が起きるかも知れませんが、「わかりあえない」ことを前提にしているので、それは仕方がないな、と思っています。)

2020年とこの1週間

 夏が終わる頃、2020年に何があったのか、自分の周りのことだけでも記録しておこうと思っていました。
 記憶はすぐに薄れていくし、時が過ぎれば過ぎるほど、誤作動も発生してしまうので。
 夏が終わる頃だったら、まだ1月からのこともなんとか書けるのではと思っていたのですが、結局2020年も終わり、2021年になってから10日も過ぎてしまいました。
 2020年の1年については、フィクションという形で書こうと思っていたのですが、それにも時間がかかってしまうのと、年明けからの仕事が1週間過ぎ、やはりそれはきつくて、それが理由でメンタルがやられていて、それに対する方法が、僕にとっては「書く」ということなので、とりあえず、2020年にどんなことがあったのか、今、書いてみようと思いました。

  1. 仕事
    2020年の1月から新しい職場で働くことになりました。
    本当は4月からの採用予定だったのですが、1日でも早く来て欲しいということで、10月に決まった採用を前勤務先との折り合いでなんとか区切れたので12月に辞め、1月から働くことになりました。
    それに当たって関東ではあるもの、今まで住んだことのない県に引っ越し、全く知らない土地で暮らすことになりました。
    それ自体は、22歳で実家を出てから引っ越しを繰り返してきた身としては引っ越し代は毎回かかるものの、まぁ、こんなものだよな、という感じだったのですが、仕事自体はとてもきつかったし、今もきついな、と思います。
    それというのも、簡単に言えば、当初からの人員不足に加え、引き継いだ仕事を把握している人が殆ど誰もいないという状況、そして、前職の関係で、そういうのは僕が詳しいということで、振られる仕事が多々あるからです。
    僕は3月末で定年退職になった人の代わりとして入ったのですが、3か月でその方がやっていた仕事を引き継げるわけでもなく、残りの9か月はほぼ何も分からず、自分でなんとかするしかありませんでした。
    当然ながら、そうするとミスも出て来るし、分からないこと、知らないこともあって、怒られるということもありました。
    また、COVID-19の影響は僕の職場にも当然やってきて、2月末から完全オンラインということになったので(と言っても、僕は毎日出勤していましたが)、6月頃から少しずつ戻ってきましたが、その対応にも追われました。

  2. 2020年の目標と資格取得
    2020年にどうしても終わらせておきたかったことがありました。
    それは、47都道府県全部を旅行しておくことでした。
    あと数県行けば終わるというところまで来ていた2020年ですが、日本でもCOVID-19の流行が起き、これは出来ないかも知れないと思いつつ、出来ないかもと思っていたら、いつまでも出来ないだろうし、何よりも日々ストレスを感じていた毎日の中で、ここで諦めてしまったら、何もせずに1年が終わるし、精神衛生上も良くないと思い、今となってはまだまだ序の口とも言えるような3月末に九州中央3県(宮崎、大分、熊本)に行きました。
    あと残すは三重県のみとなったのですが、この後すぐに緊急事態宣言が出て、もはや無理かな、と思っていたのですが、長男が通う中学校の運動会が完全無観客で行うことになり、その日有給を取っていたので、普段は土曜日は出勤なのですが、土日が連休になったので10月末に一泊二日で三重県に行ってきました。
    これで47都道府県旅行したことがあることになって、それはまぁ、実際のところ「おまけ」のようなもので、改めて実感したのは、旅に出ること自体が僕にとってはとても必要なことなんだということでした。
    以前から「(ムーミンに出てくる)スナフキンになりたい」と公言してきましたが、何故スナフキンになりたいのかと言えば、旅人だからです。
    まぁ、そんな感じで47都道府県旅行したことがあることになったのですが、もう一つ、これはとても簡単なものなのですが、資格も取得しました。
    一日講習を受け、学科試験と実技講習を受ければ取得出来るものなのですが、何せこのCOVID-19が流行る中、講習自体が制限されていて、2か月前から申し込み、なんとか取得することが出来ました。
    今の仕事に何の役に立つの?と言われれば全く役に立たないのですが、「何でも自分でやりたい」「何でも自分で出来るようになりたい」という性質の僕にとっては一つ「出来ること」「公にやって良いこと」が出来たのは嬉しいことです。

  3. パステル画
    2020年の僕の生活で大きく変わったことの一つは「絵を描くようになった」ということです。
    これは、以前書きましたが(パステル画はじめました)、坂口恭平さんの影響です。
    絵を描くことは僕自身とても苦手だと思っていました。
    それは、小学5、6年生の時の担任の影響で、その時、僕は人間を描いたのですが、その教師は「これは人間ではない。描き直すように。」と言ってきました。
    その時のことが僕の中ではずっと残っていて、学校の美術の授業と、子どもたちに頼まれて描くとき以外は、絵というものを描きませんでしたし、苦手でなるべく距離を取りたいものでした。
    けれど、描いてみると周りの人たちの反応は全く違うものでした。
    美術を専門にしていた大学&大学院の先輩からも褒められ、想像も出来ないような反応が返ってきました。
    正月にもらった年賀状でも、僕の絵について触れてくれている人も多く、僕が知っていた以上に僕の絵を見ていてくれて、楽しみにしていてくれる人がいることを知りました。
    褒められてとても嬉しいのですが、絵を描くこと、パステルで絵を描くことは、何よりも自分のためになっています。
    僕は夕食をとった後に一枚描くことにしていて、誰かと食事を取る(といっても2020年はほぼありませんでした)時や、泊まり(これもほぼなし)の時以外は毎日描いています。
    どんなに仕事で嫌なことがあったときも、昨日がそうだったのですが、メンタルがやられていて、あぁ、死んでしまいたい、と思うような日でも、描けるような気が全くしない日でも描いています。
    絵を描いているのは大体30分から長くても1時間なのですが、その時間だけは苦しくなることもなく、絵に集中することが出来ます。
    また、僕にとって良い働きになっているのは、絵の具がパステルだということが大きいと思います。
    絵を見せると、何で描いているのか、どんな道具を使っているのか聞かれるのですが、道具といえるものと言えば、紙を押さえるため(指に付いたパステルが付かないように)の小さな薄いステンレス板だけで、パステルと指を使って描いています。
    この「指で描く」ということが良いような気がしています。

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  4.  年末とこの1週間
    2020年が終わり、年が明け仕事が始まって1週間、何だがとても疲れました。
    2020年10月から、そもそも人員不足なところに、双極性障害のある同僚が休みがちになりました。
    遅刻と欠勤を繰り返し、それが12月まで続きました。
    僕が担当する仕事さえ分かっていないのに、その方の仕事もカバーしなければならず、流石にこれ以上は僕も続けられない、と上司にもそのまた上司にも伝え、12月には一番トップにも時間を作ってもらい、話をしました。
    そうして、とりあえず1月から3か月ということで、人を増やしてもらえることになったのですが、それが決まった12月中旬から、双極性障害のある方が躁状態になっていました。
    あまりの躁状態ぶりに年明けはうつになるかもな、なんて思っていたのですが、今のところ遅刻もせずに、若干躁状態気味ですが、また近々うつ状態になりそうな感じがしています。
    そんな状態なので、その方の状態にあまり左右されないようにしつつも、やはり影響はありますし、僕は躁にはならないので(うつだけ)、自分を保つことに集中しています。
    それと年末24日には出勤時にバイクに巻き込まれる事故に遭いました。
    その日から上司が入院が決まっていて、年内は出勤しないことが分かっていて、同僚も遅刻する状態だったので(実際遅刻してきた)、僕が出勤しなければ誰もいないという状況だったので、骨とかは折れていなさそうだったのと、頭は打たなかったので、そのまま出勤しました。
    バイク(原付)に乗っていた人には、クソとは思いましたが(状況としては僕が右曲がりの直線を走っていたところに左に入る道に進もうとしたバイクが無理矢理追い越そうとして僕を巻き込んだ形です)。
    とにかくその時は出勤しないと誰もいないということしか考えられず、あとになってみると結構ひどい状態でした。
    右に倒れたのでズボン、手袋、ジャンパーの右が破け、ズボンと手袋は捨てなければならなくなりました。
    そして、左ふくらはぎを自転車にぶつけていたようで、当日からとても痛かったのですが、肉離れを起こし、さらに内出血もしていたようで、左足を引きずりながら歩き、日に日に左足の足首にかけて赤黒くなっていきました。
    当然右側の身体も傷を負っていて、擦り傷でしたが、血が出ていました。
    1月に入り、新しく人も増えているのになんでこんなに疲れているのかと言えば、やっぱりCOVID-19の影響かな、と思っています。
    僕自身はほぼ外食もしないし、通勤も自転車ですし、休日も家で過ごしていて、関わる人も決まっているので、感染に関しては特に不安などもないのですが、とにかく2021年になってからというもの、周りの人がピリピリしています。
    12月31日の感染者(陽性判明者)数だったり、緊急事態宣言だったりと不安になったり、実際に困っているのだろうとは思いますが、僕はなんというか、「文句を言いやすい人」「文句を言われやすい人」で、年が明けてからすでに数人から色々言われ、それがメンタルをやられている理由だと思っています。
    まぁ、言い返せば良いのかも知れませんが、僕はあとからゆっくり考えるという性質なので、結局あとから色々あの時こう言えば良かったとか思ったところでも何にもならないので、結局メンタルはやられたままになります。

    ということで、メンタルをやられたままにしておかない方法として、少しでも回復させようということの一つが、僕にとってはこうして「書く」ということなので、書いてみました。

「フランクおじさん」

 久しぶりに文章で書いておきたい作品だったので書いてみます。
 Twitterとかでちょこっと書くだけでは不十分で、書くことで僕自身の中にあるものが何かしら整理されると思うので。

 映画館で映画を観たのは前に書いた「スペシャルズ!」ですが、相変わらず映画はちょこちょこ観ています。
 プライベートというか仕事は壊滅的で、その辺のことはTwitterでつぶやいているので、今回は映画の感想を。

 観ようと思ったのは、ラジオ番組の「たまむすび」で映画評論家の町山智浩さんが紹介していたからです。

2020年12月1日(火)「たまむすび」アメリカ流れ者


 そこでこの「フランクおじさん」が紹介されていたので観てみました。

 


フランクおじさん



作品データAmazonより)
原題:Uncle Frank
監督 アラン・ボール
製作年 2020年
製作国 アメリ
上映時間 94分
配給 Amazonオリジナル
映倫区分 18+

ストーリーAmazonより)
1973年、フランク・ブレッドソーと18歳の姪ベスは、マンハッタンからサウスカロライナのクリークビルへ車の旅に出る。父親の葬儀に出席するためだ。図らずもフランクの恋人ワリードも途中から旅に加わることになる。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 ベスのおじさんであるフランクはゲイということで、家族にも隠し、離れて暮らしていたところ、大学進学を機にニューヨークにベスがやってきて、フランクがゲイということをカミングアウトし、フランクの父でありベスの祖父マックが亡くなり、そこで自分がゲイであるということ、そして、過去の出来事がフラッシュバックし、向き合うという様子が描かれています。

 1973年という時代はまだHIV/AIDSが「ゲイの病気」とされる前なので、ゲイ自体が差別の対象になるよりも以前の情況でした。
 差別の対象になるよりも以前ということは、まだ「病気」だとか、「悪魔の仕業」とか考えられていた時代だということです。
 今でもそういうことを言う人たちはいますが、とにかく、今では考えられないほど、「ゲイであること」自体に苦しまなければならない時代でした。

 その中で、実際にフランクはとてもつらい経験をし、葬儀でもつらい出来事が起きるのですが、とりわけ僕が気になったのは、「聖書」あるいは「キリスト教」の存在です。
 キリスト教の聖書を理由に同性愛(異性愛以外)を否定する人たちがいます。
 1973年という年代もそうですが、サウスカロライナはまさに、そのような「キリスト教」や「聖書」を理由に、今でいうLGBTQ+を否定する考えが強い地域になります。
 なので、フランクは「地獄に落ちる」とマックからも言われ、自分自身をも否定してしまいます。

 やはり、聖書は罪深いな、と思ったのですが、それだけでは表現として十分ではないな、と。
 もし、問題があるとしたら、聖書に書かれていることや神の存在にすがらなければ生きていけない人間の弱さの方にあるのではないかと。
 かといって、弱さがあるからこそ、それを認めているからこそキリスト教ではなくても何かしらの信仰だったりを持つのでしょうし、神の存在を信じたりするのだろうと思うので、それも悪いことではないとも思います。

 むしろ、僕は一応クリスチャンということになっていて、今はバプテスト教会に毎週通っているのですが、そこでは、「こんなにも正面から神の存在を信じられてすごいな」と思ったりしています。
 先日、洗礼式(バプテスト)があり、そこで洗礼を受けた人が信仰告白をしているのを見ながら、僕はそこまで何か信じることは出来ないな、と思いました。

 僕自身はそんなにも何かを信じることが出来ないということが問題なのかも知れないとも思います。
 神の存在を完全に信じている人を見ると、むしろうらやましく感じさえします。
 聖書に対してもそうで、僕は聖書に書かれていることそのものを信じている訳でもなく、一つの書物として読んでいて、読む際にはテキスト(文章)ではなく、コンテキスト(時代背景や環境など書かれた情況を考えて)を含めて読んでいます。
 だからこそ、様々な矛盾があっても受け入れられているとも言えます。
(聖書の中にあるどれか一つの文書を取り出しても、1人だけが書いたものは少ない。)

 神とか聖書に書かれていることが「真実」である、ということを信じているという人がクリスチャンである、ということであれば、僕はクリスチャンではないな、と思います。
 では、僕は何なのか。
 僕は神や「キリスト教」や聖書を信じている訳ではなく、イエスを信じています。
 イエスがしたこと、言ったことを手本にしていて、それは、その社会にあって、存在そのものが「ないもの」とされている人たちに積極的に関わっていったり、知識だけ詰め込んで論戦を仕掛けてきた人物(インテリや宗教指導者たち)に結構ひどい態度をとったりしていて、その姿がいわば僕の生きる上での「手本」になっています。
 こういう僕は果たして「クリスチャン」なのか。

 よく分かりませんが、でも、それに対してこの映画ではちゃんと答えを出しています。
 それはベスがかつてフランクに言われた言葉であり、フランクが苦しんでいる中でベスがフランクに言った言葉でもあります。
 「自分のなりたい自分になることが出来る。」
 だれかの基準にとらわれて悩んだり苦しむのではなく、自分では自分のことをどのように考えているのか、どうなりたいのか。
 そうすると自ずと、他のクリスチャンとは違うかも知れないけれど、まぁ、僕は神を信じ切っているわけでも、あるいは聖書に書かれていることが「真実」だとも考えていないけれど、イエスを「手本」に生きているという点でクリスチャンということで良いのではないか、と思いました。

「スペシャルズ!」

 観たいなぁ、と思っていた作品が公開されたので映画館で観てきました。
 観たいな、と思ったのは、この作品の監督が『最強のふたり』と同じ、エリック・トレダノオリビエ・ナカシュなのと、僕自身が生きる中での課題と考えている、「障害児・者」と「居場所」のない人たちの居場所をいかにつくりだすことが出来るかということがあります。
 これは僕が何か「施し」のような気持ちを持っているというわけではなく、僕自身もうつ病があり、「精神障害者」であり、多分「発達障害」的なものもあり、自分自身の安心して生活出来る居場所を探し求め続けているからです。 

 

youtu.be

映画『スペシャルズ! ~政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話~』 公式サイト

 
作品データ映画.comより)
原題:Hors normes
監督 エリック・トレダノ オリビエ・ナカシュ
製作年 2019年
製作国 フランス
上映時間 114分
配給 ギャガ
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより略出)
ブリュノ(ヴァンサン・カッセル)は、朝から駆けずり回っていた。自閉症の子供たちをケアする団体〈正義の声〉を運営しているのだが、支援している青年の一人ジョゼフが、電車の非常ベルを鳴らして鉄道警察に取り押さえられたのだ。ジョゼフを家まで送り届けると、今度は緊急地域医療センターへと向かう。重度の症状から6か所の施設に受け入れを断られたヴァランタンという少年の一時外出の介助を頼まれたのだ。長年にわたって閉じこめられたせいで、ヴァランタンは完全に心を閉ざしていた。頭突き防止のヘッドギアをつけて、一人で立ち上がることもできない彼を見ても、ブリュノはいつもの言葉を口にする─「何とかする」。
施設に戻ると、待ち受けていた会計士から、監査局の調査が入ることになり、不適切な組織だとジャッジされれば、閉鎖を命じられると忠告される。赤字経営で無認可、法律の順守より子供たちの幸せを最優先するブリュノの施設は、役人に叩かれれば山のように埃が出る状態だった。
ブリュノはヴァランタンの介助を、マリク(レダ・カテブ)に相談する。ドロップアウトした若者たちを社会復帰させる団体〈寄港〉を運営するマリクは、教育した青少年をブリュノの施設に派遣していた。マリクは遅刻ばかりでやる気のない新人のディランを、ヴァランタンの介助人に抜擢する。
そんな中、調査員が関係者との面談を始める。まずはジョゼフの母親が、無認可の組織の落ち度を探られるが、彼女はいかにブリュノが親身で熱心かを力説し、「認可なんて関係ない」と言い切るのだった。次なるターゲットのマリクに、大半の支援員が無資格だと詰め寄るが、マリクは資格があれば暴れる子を抑えられるのかと鼻で笑う。緊急地域医療センターの医師も、3か月で退院しなければならない患者を無条件で受け入れてくれるのは、「心と信念で働いている」ブリュノだけだと証言する。
調査員が称賛の声にも耳を貸さず、無秩序で怪しげな団体だと決めつける中、事件は起きてしまう。ディランが目を離した隙に、ヴァランタンが姿を消したのだ。ヴァランタンはどこへ消えたのか? そして施設はこのまま閉鎖に追い込まれるのか? 救いの手が必要な子供たちの未来は─?

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★


感想
 最初に僕自身がうつ病という「精神障害」を持っていること、そして、この社会での「居場所」を見つけられていないことから、それらの人びとに関心を持っていて、さらにどうにか安心して生活出来る「居場所」をつくれないか考えているというようなことを書きました。
 この作品ではまさに、その「精神障害」(あるいは「知的障害」)を持つ子どもたちと、社会でうまく「居場所」を見つけられない若者たちが描かれています。

 この作品が良かったのは、他の施設が受け入れを拒否するような子どもであっても受け入れるブリュノや、若者たちを支援するマリクが決して「善人」として描かれていない点です。
 彼らも単なる「人」であり、間違いを犯すし、コミュニケーションをうまく取れないこともある。
 コミュニケーションはそもそも相手がいるからこそ成立するので、相手に自分が伝えたいことが伝わっていなかったり、自分が誤解することもある。
 それは人間だからこそ、どんな人であっても起こることです。

 そして、ブリュノやマリクがやっていることは、その後のフランス社会を変えたとしても、彼らにとっては、その日その時の一瞬を生きていて、長期的な視野を持っている訳でもない。
 ただ、誰からも見放された子どもがいて、誰も受け止めてくれない子どもがいる。
 だから、その子たちを受け入れ、居場所のない若者たちを受け入れる。
 そのシンプルな出来事を描いていて、結果的にそれがどんな変化をもたらすかということは考えらるような情況ではない。

 また、この作品を観て、これこそ多様性(ダイバーシティ)だと思いました。
 ブリュノはユダヤ人で、ユダヤ人社会の枠組みにいることを描きながらも、「誰でも受け入れる」という姿勢から、そこに集まる人たちは、宗教や肌の色、年齢を超えています。
 ブリュノやマリクのように「白人」だけではなく、「黒人」や東アジア系、ムスリムイスラム教徒)など、多様な人たちが出てきます。

 それが「当たり前」のこととして描かれる。
 同一化を強いられたり、どちら「側」かを問われる現代において、そんな同一化やどちらの「側」に自分がいるかなど関係なく、単に目の前の「人」に出会い、関係を築いていく、というそのあり方が良いなと思いました。

 かといって、それは単なる理想郷ではなく、やはり現実は厳しく、運営資金もなく、明日も続けていけるかどうかも分からないということも描いているところが現実の厳しさとともに、わずかな希望を感じさせる作品でした。
 ブリュノやマリク、あるいはディラン、そしてジョゼフやヴァランタンの日々の、毎日接していると変化を感じないかも知れないけれど、少しずつ変わっていくということに、僕自身は毎日、やはりそれはとても小さなことで、他人からみれば変化とも思えないようなチャレンジをし続けようと思いました。
 その他人からすれば変化とも思えないような日々のチャレンジが、数年経ったとき、大きな変化になる、ということをこの作品では描いていたからです。

テイラー・スウィフトの「the 1」和訳

 最近、新しい歌を聴きたいなという気持ちもあり、AmazonMusicの「All Hits」というプレイリストを流しています。
 その中でもいくつかの曲が良いな、と思ったのですが、テイラー・スウィフトの「the 1」という曲が耳に残ったので、訳してみました。

www.youtube.com


 このYouTubeに上がっていた歌詞を載せてみます。

I'm doing good, I'm on some new shit
Been saying "yes" instead of "no"
I thought I saw you at the bus stop, I didn't though
I hit the ground running each night
I hit the Sunday matinée
You know the greatest films of all time were never made

I guess you never know, never know
And if you wanted me, you really should've showed
And if you never bleed, you're never gonna grow
And it's alright now

But we were something, don't you think so?
Roaring twenties, tossing pennies in the pool
And if my wishes came true
It would've been you
In my defense, I have none
For never leaving well enough alone
But it would've been fun
If you would've been the one
(Ooh)

I have this dream you're doing cool shit
Having adventures on your own
You meet some woman on the internet and take her home
We never painted by the numbers, baby
But we were making it count
You know the greatest loves of all time are over now

I guess you never know, never know
And it's another day waking up alone

But we were something, don't you think so?
Roaring twenties, tossing pennies in the pool
And if my wishes came true
It would've been you
In my defense, I have none
For never leaving well enough alone
But it would've been fun
If you would've been the one

I, I, I persist and resist the temptation to ask you
If one thing had been different
Would everything be different today?

We were something, don't you think so?
Rosé flowing with your chosen family
And it would've been sweet
If it could've been me
In my defense, I have none
For digging up the grave another time
But it would've been fun
If you would've been the one
(Ooh)


 これをかなり荒削りですが訳してみました。

I'm doing good, I'm on some new shit
私はよいことをしている、いくつもの新しいくそみたいな上で
Been saying "yes" instead of "no"
「ノー」の代わりに「イエス」と言い続けてる
I thought I saw you at the bus stop, I didn't though
私はあなたがバス停にいるのを見たと思ってた、違ったけれど
I hit the ground running each night
私は毎晩地面をかけずりまわって
I hit the Sunday matinée
日曜の昼興行をこなしてる
You know the greatest films of all time were never made
あなたは最高の映像を作れなかったことを知ってる

I guess you never know, never know
あなたは知らないと思うけど、絶対に知らないと思うけど
And if you wanted me, you really should've showed
そしてもしあなたが私を求めてたなら、あなたは真剣に示すべきだった
And if you never bleed, you're never gonna grow
そしてもしあなたが血を流さないなら、あなたは決して成長することはない
And it's alright now
今ではもういいんだけど

But we were something, don't you think so?
だけど私たちには何かがあった、あなたもそう思わない?
Roaring twenties, tossing pennies in the pool
二十代をぶんまわして、プールに小銭を投げ入れ
And if my wishes came true
そしてもし私の願いが本当に叶ってたら
It would've been you
それはあなただった
In my defense, I have none
私の守るものはひとつもなくて
For never leaving well enough alone
決して離れないためには一人で十分
But it would've been fun
だけどそれは楽しかったよ
If you would've been the one
もしあなたがたった一人の人だったなら
(Ooh)

I have this dream you're doing cool shit
私はあなたがやってるくそみたいなことについてこんな夢がある
Having adventures on your own
あなた自身の上で冒険し
You meet some woman on the internet and take her home
あなたはインターネット上で何人かの女性に会って、家に持ち帰る
We never painted by the numbers, baby
私たちは決して数字として塗られないよ、坊や
But we were making it count
だけど私たちはそれとしてカウントされた
You know the greatest loves of all time are over now
あなたはもう愛に包まれた偉大なときが過ぎたことを知ってる
I guess you never know, never know
あなたは知らないと思うけど、絶対に知らないと思うけど
And it's another day waking up alone
そしていつか一人で起き上がるの

But we were something, don't you think so?
だけど私たちには何かがあった、あなたもそう思わない?
Roaring twenties, tossing pennies in the pool
二十代をぶんまわして、プールに小銭を投げ入れ
And if my wishes came true
そしてもし私の願いが本当に叶ってたら
It would've been you
それはあなただった
In my defense, I have none
私の守るものはひとつもなくて
For never leaving well enough alone
決して離れないためには一人で十分
But it would've been fun
だけどそれは楽しかったよ
If you would've been the one
もしあなたがたった一人の人だったなら

I, I, I persist and resist the temptation to ask you
私は、私は、私は誘惑に主張し続け抵抗しあなたに聞くの
If one thing had been different
もし一つのことが違ったなら
Would everything be different today?
今日の何もかもが違ってた?

We were something, don't you think so?
だけど私たちには何かがあった、あなたもそう思わない?
Rosé flowing with your chosen family
ロゼがあなたの選んだ家族と流れ
And it would've been sweet
そしてそれは甘かったの
If it could've been me
もしそれが私だったら
In my defense, I have none
私の守るものはひとつもなくて
For digging up the grave another time
違う時間の墓を掘り出すために
But it would've been fun
だけどそれは楽しかったよ
If you would've been the one
もしあなたがたった一人の人だったなら
(Ooh)


 訳していて思ったのは、ここ数年のテイラー・スウィフトは本当に良い曲を作るな、と。
 それは、政治的な発言への制約があった中で吹っ切れたということでもあって、訳しようとすれば、この曲は「the 1」とあるように、「たった1人の人」、つまり「運命の人」とも訳すことが出来て、恋愛の歌に訳すことも出来るのだろうけれど、ここ数年のテイラー・スウィフトの動きを見ていると、この曲はトランプ政権やそれを支持する人たちへの彼女なりの抵抗なんだろうな、と思います。
 だからこそ、この曲を聴いていて僕は何か引っかかったんだろうな、と思います。

アルフレッド・D・スーザ(Alfred D' Souza)の詩2

 先日書いた(訳した)アルフレッド・D・スーザ(Alfred D' Souza)の違うバージョンの詩を見つけたので訳してみました。
 原文は以下の通りです。

 

For a long time it seemed to me that life was about to begin – real life.
But there was always some obstacle in the way,
something to be gotten through first,
some unfinished business,
time still to be served,
a debt to be paid.
Then life would begin.

At last it dawned on me that those obstacles were my life.

This perspective has helped me to see that there is no way to happiness.

Happiness is the way.

So, treasure every moment that you have.
And treasure every moment that you have.
And treasure it more because you shared it with someone special,
special enough to spend your time…
and remember that time waits for no one…

So stop waiting until you finish school,
until you go back to school,
until you lose ten pounds,
until you gain ten pounds,
until you have kids,
until your kids leave the house
until you start work,
until you retire ,
until you get married,
until you get divorced,
until Friday night,
until Sunday morning,
until you get a new car or house,
until your car or home is paid off,
until spring,
until summer,
until fall,
until winter,
until you are off welfare,
until the first or fifteenth,
until your snog comes on,
until you’ve had a drink,
until you’ve sobered up,
until you die,
until you are born again to decide that there is no better time than right now to be happy…
Happiness is a journey, not a destination.

Thought for the day:
Work like you don’t need the money.
Dance like no one is watching you.
Love like you have never been hurt.
Sing like no one is listening you.
Live like it is heaven on earth.

 

For a long time it seemed to me that life was about to begin – real life.
僕は長い間、本当の人生はこれから始まるのだと思っていました
But there was always some obstacle in the way,
けれど、いつもそこにはいくつもの障害があった
something to be gotten through first,
すぐに取りかからなければならないこと
some unfinished business,
いくつかの終わらない仕事
time still to be served,
やりかけの仕事
a debt to be paid.
返さなければならない借金
Then life would begin.
そこから人生が始まるのだと

At last it dawned on me that those obstacles were my life.
それらの障害を片付けてから僕の人生はやっと夜が明けると思っていました

This perspective has helped me to see that there is no way to happiness.
これでは私を幸せへ導かないと気づきました
Happiness is the way.
幸せは道です

So, treasure every moment that you have.
だから、どんな出来事も宝物で
and treasure every moment that you have.
どんな出来事も宝物であると
And treasure it more because you shared it with someone special,
そして、誰かと分かち合うことが宝物であり
special enough to spend your time…
特別な時間を過ごすことで満たされ
and remember that time waits for no one…
時間は誰も待ってくれないことを忘れないでください

So stop waiting until you finish school,
だから、待つのをやめること、学校が終わるのを
until you go back to school,
学校に戻るのを
until you lose ten pounds,
10ポンド減るのを
until you gain ten pounds,
10ポンド戻るのを
until you have kids,
子どもが出来るのを
until your kids leave the house
子どもが離れるのを
until you start work,
仕事を始めるのを
until you retire,
仕事を辞めるのを
until you get married,
結婚するのを
until you get divorced,
離婚するのを
until Friday night,
金曜の夜になるのを
until Sunday morning,
日曜の朝になるのを
until you get a new car or house,
新しい車か家を手に入れるのを
until your car or home is paid off,
家か車の支払いを終えるのを
until spring,
春になるのを
until summer,
夏になるのを
until fall,
秋になるのを
until winter,
冬になるのを
until you are off welfare,
福祉の対象外になるのを
until the first or fifteenth,
10日か15日になるのを
until your snog comes on,
抱き合えるようになるのを
until you’ve had a drink,
酒を飲めるようになるのを
until you’ve sobered up,
冷静になるのを
until you die,
死ぬのを
until you are born again to decide that there is no better time than right now to be happy…
今幸せになるよりも良いと思って生まれ変わろうとするのを
Happiness is a journey, not a destination.
幸せは旅で、行き先ではないのです

Thought for the day:
日々を過ごしなさい
Work like you don’t need the money.
お金が必要ないかのように働きなさい
Dance like no one is watching you.
誰も見ていないかのように踊りなさい
Love like you have never been hurt.
一度も傷ついたことのないかのように愛しなさい
Sing like no one is listening you.
誰も聞いていないかのように歌いなさい
Live like it is heaven on earth
この地球が天国かのように生きなさい