「フランクおじさん」
久しぶりに文章で書いておきたい作品だったので書いてみます。
Twitterとかでちょこっと書くだけでは不十分で、書くことで僕自身の中にあるものが何かしら整理されると思うので。
映画館で映画を観たのは前に書いた「スペシャルズ!」ですが、相変わらず映画はちょこちょこ観ています。
プライベートというか仕事は壊滅的で、その辺のことはTwitterでつぶやいているので、今回は映画の感想を。
観ようと思ったのは、ラジオ番組の「たまむすび」で映画評論家の町山智浩さんが紹介していたからです。
そこでこの「フランクおじさん」が紹介されていたので観てみました。
フランクおじさん
作品データ(Amazonより)
原題:Uncle Frank
監督 アラン・ボール
製作年 2020年
製作国 アメリカ
上映時間 94分
配給 Amazonオリジナル
映倫区分 18+
ストーリー(Amazonより)
1973年、フランク・ブレッドソーと18歳の姪ベスは、マンハッタンからサウスカロライナのクリークビルへ車の旅に出る。父親の葬儀に出席するためだ。図らずもフランクの恋人ワリードも途中から旅に加わることになる。
勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★
感想
ベスのおじさんであるフランクはゲイということで、家族にも隠し、離れて暮らしていたところ、大学進学を機にニューヨークにベスがやってきて、フランクがゲイということをカミングアウトし、フランクの父でありベスの祖父マックが亡くなり、そこで自分がゲイであるということ、そして、過去の出来事がフラッシュバックし、向き合うという様子が描かれています。
1973年という時代はまだHIV/AIDSが「ゲイの病気」とされる前なので、ゲイ自体が差別の対象になるよりも以前の情況でした。
差別の対象になるよりも以前ということは、まだ「病気」だとか、「悪魔の仕業」とか考えられていた時代だということです。
今でもそういうことを言う人たちはいますが、とにかく、今では考えられないほど、「ゲイであること」自体に苦しまなければならない時代でした。
その中で、実際にフランクはとてもつらい経験をし、葬儀でもつらい出来事が起きるのですが、とりわけ僕が気になったのは、「聖書」あるいは「キリスト教」の存在です。
キリスト教の聖書を理由に同性愛(異性愛以外)を否定する人たちがいます。
1973年という年代もそうですが、サウスカロライナはまさに、そのような「キリスト教」や「聖書」を理由に、今でいうLGBTQ+を否定する考えが強い地域になります。
なので、フランクは「地獄に落ちる」とマックからも言われ、自分自身をも否定してしまいます。
やはり、聖書は罪深いな、と思ったのですが、それだけでは表現として十分ではないな、と。
もし、問題があるとしたら、聖書に書かれていることや神の存在にすがらなければ生きていけない人間の弱さの方にあるのではないかと。
かといって、弱さがあるからこそ、それを認めているからこそキリスト教ではなくても何かしらの信仰だったりを持つのでしょうし、神の存在を信じたりするのだろうと思うので、それも悪いことではないとも思います。
むしろ、僕は一応クリスチャンということになっていて、今はバプテスト教会に毎週通っているのですが、そこでは、「こんなにも正面から神の存在を信じられてすごいな」と思ったりしています。
先日、洗礼式(バプテスト)があり、そこで洗礼を受けた人が信仰告白をしているのを見ながら、僕はそこまで何か信じることは出来ないな、と思いました。
僕自身はそんなにも何かを信じることが出来ないということが問題なのかも知れないとも思います。
神の存在を完全に信じている人を見ると、むしろうらやましく感じさえします。
聖書に対してもそうで、僕は聖書に書かれていることそのものを信じている訳でもなく、一つの書物として読んでいて、読む際にはテキスト(文章)ではなく、コンテキスト(時代背景や環境など書かれた情況を考えて)を含めて読んでいます。
だからこそ、様々な矛盾があっても受け入れられているとも言えます。
(聖書の中にあるどれか一つの文書を取り出しても、1人だけが書いたものは少ない。)
神とか聖書に書かれていることが「真実」である、ということを信じているという人がクリスチャンである、ということであれば、僕はクリスチャンではないな、と思います。
では、僕は何なのか。
僕は神や「キリスト教」や聖書を信じている訳ではなく、イエスを信じています。
イエスがしたこと、言ったことを手本にしていて、それは、その社会にあって、存在そのものが「ないもの」とされている人たちに積極的に関わっていったり、知識だけ詰め込んで論戦を仕掛けてきた人物(インテリや宗教指導者たち)に結構ひどい態度をとったりしていて、その姿がいわば僕の生きる上での「手本」になっています。
こういう僕は果たして「クリスチャン」なのか。
よく分かりませんが、でも、それに対してこの映画ではちゃんと答えを出しています。
それはベスがかつてフランクに言われた言葉であり、フランクが苦しんでいる中でベスがフランクに言った言葉でもあります。
「自分のなりたい自分になることが出来る。」
だれかの基準にとらわれて悩んだり苦しむのではなく、自分では自分のことをどのように考えているのか、どうなりたいのか。
そうすると自ずと、他のクリスチャンとは違うかも知れないけれど、まぁ、僕は神を信じ切っているわけでも、あるいは聖書に書かれていることが「真実」だとも考えていないけれど、イエスを「手本」に生きているという点でクリスチャンということで良いのではないか、と思いました。