映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「神は耐えられない試練を与えない」について

 最近、このコロナ禍にあって「神は耐えられない試練を与えない」という言葉が身近なところからも、世間からも聞こえて来るようになりました。

 まず、僕が伝えたいことは、神は耐えられない試練を与えます。
(原典での著者本来の意図は違うのですが、あえてこのように書きます。)

 なので、耐えられなさそう、というか、少しでもやばいなと思ったら、逃げたり、相談したり、休んだりしてください。
 具体的な対処法としては、一昨日書いたものにも載せた心理的危機対応プラン「PCOP」を用いてみてください。

 その上で、じゃあ、この言葉がそもそもどこから出てきたのかということと、僕自身の経験を書いておきたいと思います。
 「神は耐えられない試練を与えない」というこの言葉、キリスト教新約聖書の中に載っている、『コリントの信徒への手紙Ⅰ』という、パウロという人が書いた手紙の中に出てきます(10章13節)。
 パウロという人は、イエスの弟子ではなく、最初イエスの弟子やイエスのことをキリスト(救世主)だと信じていた人たちを迫害していた人で(少なくともイエスをキリストだと信じる人が処刑される場に居合わせていたことがある)、のちに回心して、イエスのことをキリスト(救世主)だと信じるようになり、各地を旅し、それを伝えた人です。

 このパウロという人がいなかったら、キリスト教は世界に広がることはなかったでしょうし、今、キリスト教は残っていなかったと僕は考えています。
 また、パウロは何らかの身体的な「障害」を持っていたと考えられ、多分それが理由で身体的「障害者」に対しては「優しい」眼差しを持っています。
 ですが、同性愛的行為を禁じる言葉も残していて(『ローマの信徒への手紙』1章24-32節)、これは当時の社会文化的背景を考慮したとしても、現在にも及ぶ多大な影響を考えると、決して評価出来るものではありません。
 簡単に言えば、パウロもただの人であって、良いところもあれば、悪いところもあり、良いことも書き残していれば、悪いことも書き残している、ということです。

 で、ここからは実際にどのように書かれているのかを、載せておきたいと思います。
 まずは、原文とされる(コイネー)ギリシア語です(用いたのはNESTLE-ALANDの、最新28版ではなく、手元にあった26(2006年発行)版です)。

πειρασμος υμας ουκ ειληφεν ει μη ανθρωπινος πιστος δε ο θεος, ος εασει υμας πειρασθηναι υπερ ο δυνασθε αλλα ποιησει συν τω πειρασμω και την εκβασιν του δυνασθαι υπενεγκειν.

 
 これを日本で一般的に用いられている新共同訳ではこのように訳しています。
 

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 
 次に、僕が訳として一番信頼している岩波書店版(青野太潮訳)ではこのように訳されています。
 

人間的[な試練]以外の試練があなたがたを捕らえたことはない。神は真実[な方]である。その神は、あなたがたが[耐え]得ないような仕方で試練に会うようにはせず、むしろあなたがたが[それに]耐えることができるために、試練とともに出口をも造って下さるであろう。
(引用注:[]内の言葉は文脈から補われた言葉です。)

 
 まず、簡潔に言っておきたいのは、「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(新共同訳)、「試練とともに出口をも造って下さる」(青野太潮訳)と書いてあるように、「逃れる道」「出口」もあるということです。

 決して、「耐えろ」というニュアンスで書いているものではありません。
 なので、この言葉を使って、「耐えましょう」みたいに用いること自体がパウロの意図したものと全く違っています。

 耐えられるように「逃れる道」「出口」も神は用意している。
 つまり、僕ら人間としては耐えられそうになかったら、さっさと逃げるということも、試練に向かう一つの方法なのです。

 その上で僕の個人的な体験を書いておきます。
 僕が最初にうつ病になったのは、牧師になるための神学校で教員だった司祭や僕が所属していた教区の主教たち(≒牧師たち)によるパワハラが原因です。

 僕はキリスト教の「聖職者」によって心身の健康を破壊されました。
 一度壊れた心身の健康は二度と回復することはありません。
 もし、回復したかのように思えても、元に戻ることはなく、前よりも脆くなります。
 それは、一度寛解したものの(寛解:病気そのものは完全に治癒していないが、症状が一時的あるいは永続的に軽減または消失すること。(広辞苑第六版))、うつ病を再発したという体験からも言えることです。

 なので、今回のコロナ禍で、少しでも耐えられそうにない、と思ったら、逃げて下さい。
 休んで下さい。
 助けを求めて下さい。
 耐えようとすれば死にます。

 耐えられなさそうというサインは何か、というと、「眠れなくなること」です。
 少しでも眠れなくなったら、すぐに相談しましょう。
 というか、病院に行って睡眠薬をもらって、とりあえず寝ましょう(休みましょう)。
 そして、誰かに相談しましょう。

 相談場所はいくつもあります。

・信頼できる人(友人、知人、家族など)。

心療内科、精神科などの病院(予約が必要なところが多く、すぐには診てもらえないかもしれませんが、とりあえず予約して下さい)。
 病院は敷居が高いかもしれませんが、健康保険が使えるので経済的負担も少なく(初診で薬を含めて数千円、生活保護対象世帯はお金はいりません)、専門の医師が診てくれます。
(「カウンセリング」はよく調べないと質の担保ができないとともに、経済的負担も大きいのでお勧めできません)

・電話での相談
 これは、厚生労働省が一覧を載せているので、電話できそうなところがあったら、そこに電話して下さい。
 電話相談|厚生労働省

 耐えられそうもないことから、逃げること、休むこと、助けを求めること、それも神は「逃れる道」「出口」として用意しています。
 そもそも、多くの日本の人たちはキリスト教徒じゃありませんし、普段から教会に行っているわけでも、聖書を読んでいるわけでもないので、こんな言葉に振り回されずに過ごしましょう。

※尚、神学論争をするつもりは全くありませんので、議論したい方は教会や学会でお願いします。