映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

わかりあえないことから

 今日は(も)うまく眠れるような気がしないので、久しぶりに文章を書いておきます。僕はこうして、文字にすることによって生きて来たので、今日もそうすることによって今日という日を終わらせようと思います。
 今日同僚から言われた言葉を何回か反芻し、その度にこの本のことというか、タイトルを思い出しました。

 


わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か

 

  読んだのはもう10年近く前のことなので、どんなことが書いてあったのかは忘れてしまいましたが、タイトルの「わかりあえないことから」というのは、僕にとってはとても重要な言葉というか人間関係における認識の根元にあるもので、基本的に他者とは「わかりあえない」ということを前提にしています。

 まぁ、今日はそれ自体もわかりあえていないんだなぁ、と、なんというか、怒るでも、悲しむでもなく、あぁ、やっぱり他者とはそもそも「わかりあえない」、そして「わかりあえない」ということからはじめるということ自体も「わかりあえない」んだな、と痛感しました。

 「SNSの使用に気をつけて」というのが、今日言われたことで、僕は本名を検索すればかつての出来事もあって、色々出てくるし、FacebookTwitter、このブログも簡単にたどり着く訳で。
 それで、どうやら僕が愚痴ってたり、書いていたことを「問題」だと感じた人がいたらしい、ということです。
 らしい、というのは本人から言われた訳ではないからで(同僚は自分に対して書かれたと、それこそ「勘違い」していたようですが)、読んだ人が読めば分かる、ということが「問題」のようです。

 らしい、とか、ようです、とか歯切れが悪いのは、直接言われたわけではないからで、僕はその「らしい」とか「ようです」とかいう曖昧な前提から考えることは出来ないので、やっぱりわかりあえないな、とも思うし、「(その言葉を)受け取る人のことも考えて」という発言にも、やはりわかりあえないな、と思いました。
 言葉を発したとき、それはブログでもTwitterでも実際に誰かと話すときも、それは何時までも残ることは十分に認識していて、誰がどう受け取るか分からないということも認識しているので、誰かを僕の自覚なしに傷つけてしまったのなら申し訳ないなと思います。
 けれど、そもそも、「(その言葉を)受け取る人のことも考えて」と僕に言ってきたということは、僕がそれを認識していないと思われているということであって、そこにもまた「わかりあえない」んだな、と感じました。

 大学生の時からこうしてブログだったり、mixiなんかから始まって色々文章を書いてきて、そこでいくつかの衝突も起き、まぁ、それはやはりオンラインによる「すれ違い」みたいなことでもあるとも思うので、じゃあ、書かなきゃ良いじゃん、と他の人は思うのかも知れません。
 けれど、僕はこうして「書く」ということでしか自分の考えをまとめられないし、書くことによってしか、自分の感じていること(それがポジティブなことであれ、ネガティブなことであれ)を認識することが出来ないというか、確認できないので、こうして今も文字にしています。
 だから、それをやめろと言われたら、僕が僕の感じていることを感じるな、認識するなということになるので、それはつまり、生きるな、ということを言われていることと同じことなので、僕にはやめることは出来ないのです。

 まぁ、端的に死ね、と言われているのと同じことなので。
 でも、何度か死ねるタイミングがあったにも関わらずこうして生きていて、やっぱり死ねないんだという絶望を経験した身としては、今日という日を生きていくしかないわけで、生きていくときに必要な「言葉」の発出をやめろと言われても無理なので、その僕が発した言葉が「問題」だとするならば、じゃあ、やめます、というのは、文字にすることをやめるのではなく、僕が発した言葉を「問題」だとする人がいる場に僕がいることをやめます、ということになります。
 ということで、終わりがはじまりました。

(書いていてめんどくさくなって色々端折ったので、また「勘違い」や「問題」が起きるかも知れませんが、「わかりあえない」ことを前提にしているので、それは仕方がないな、と思っています。)