映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

負わせた傷と負った傷

 先月書いた、元配偶者とまともに話が出来ないので、子どもたちとの面会も終わりだろうという記事ですが、Facebookにも載せたら、何人かの人から直接メッセージをもらいました。
 こういう直接連絡してきてくれたり、実際に会ってくれる人がいることで、なんとか自分は生きていけている、と感じています。
 本当にありがとうございます。

 さて、そんな中、元配偶者から、かなり久しぶりに連絡が来ました。
 何について連絡が来たのかというと、子どもたちの面会ではなく、インターネットとメールが使えないから、なんとかしろ、という内容でした。
 インターネットというか、結婚して以来ずっと使っていたOCNが僕の名義での契約のままで、7月末に事実婚の解消が確認されたので、それから数ヶ月待ち、契約を解除しました。
 家のインターネット回線と電話は、僕を家から追い出したすぐあとに元配偶者が主体的に僕の名義から元配偶者に変更していたのですが、なぜかこちらはしていませんでした。
 関係解消の確認がされたので、僕の名義になっているもので、もはや僕には関係のないものの契約を解除したり、あるいは保険の受取人を変更したりした結果、OCNのメールアドレスとSIMが使えなくなった、ということのようです。

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 この、SIMとメールアドレスが使えないのをなんとかしろ、という連絡ですが、本当に元配偶者の実態を表しているな、と感じました。
 元配偶者にとって、結婚の最初から今まで、一番優先されていることは、子どもたちのことでも、共に人生を歩んでいこうというパートナーとの関係でもなく、あくまでも「自分」だということです。

 自分がメールアドレスやSIMを挿入して使っているタブレットが使えなくて困っている、ということが何よりも最優先なのです。
 父親にずっと会えないでいる子どもたちのことを案じ、僕に連絡する、ということは一切しないのに、「自分」が困っているから、と連絡をしてくる。

 元配偶者と僕の関係が破綻し、元配偶者が僕を暴力的な仕方で家から追い出した経緯には、もちろん僕が元配偶者にそこまでさせた理由があります。
 けれど、元配偶者は、自分が僕に負わせた傷というものに無自覚であるばかりか、そもそも自分が僕に様々な傷を負わせたという認識すらない、ということが、関係の破綻に至った一番の理由だと僕は考えています。

 僕をなぜうつ病になるほど追い詰めたのか、全く考えたこともないでしょうし、考えたこともないようだったので、実際に僕はそれを認識するように何度も促しましたが、元配偶者は絶対にそのことを直視せず、目をそらし続けました。
 それはなぜかというと、元配偶者は「自分」のことしか考えていないからです。
 自分が思い描いていた「子どもが3人いる家庭」というもののパーツとして、そのときたまたま使いやすそうだったのが僕であって、実際にそのパーツ(僕)は家事育児を専業主婦なみにこなしていた。
 自分(元配偶者)が家事を全くしなくても家事育児をやってくれるので、すごく都合の良い人生のパーツだったのでしょう。

 僕がなぜブログに元配偶者のことを書くのかというと、これまでの生活で、元配偶者の人生のパーツとして働かされてきたことによって負った傷を回復させるためです。
 これまでの元配偶者との関係で、いつも「自分が黙って受け入れれば良い」と自分で全てを負ってきました。
 たとえば、日常的なことで言えば、収入や勤務時間の多少はありますが、家事をもっとやってほしいと何度伝えても元配偶者は無視し続け、その結果、僕は諦めて、自分がやれば良いと、99%の家事をやってきました。
 また、結婚前から、姓は元のままでいたい、出来るなら戻したい、ということを言ってきたにも関わらず、結局元配偶者はそのことを無視し、最高裁判決後に戻す、ということも僕だけの責任に押しつけるばかりか、10年間に及ぶ姓を変えたことによる様々な悩みや苦しみを理解しようとはしませんでした。
 しまいには、僕が勝手に希望していることで、僕のわがままである、とさえ元配偶者は主張してきたのです。

 と、日常的な些細なことから、名字の変更という、人生でも大きな出来事についても、元配偶者は僕に負わせている傷というものを認識しようとはしませんでした。
 僕も諦めて、全てを自分で負えば良いと思ってきたのですが、それではいけなかった、ということが、今回のうつ病からの回復で分かりました。

 「僕だけ」が背負うべきものではなかったものが沢山あって、それを黙って背負ってきていたからこそ、追い詰められてしまった。
 その荷物はあなたのですよ、とか、あなたによって僕はこんなに傷つけられてきた、傷つけられていますよ、ということを伝えても良いのだということが分かりました。

 誰かに、「あなたに私は傷つけられました」と言われなければ、そもそも自分が誰かを傷つけていたことを認識していなかったり、あるいは1回言われてもすぐに忘れてしまう人がいる。
 それもあって、まずは自分は傷ついているんだ、ということを相手に言っても良いし、何回言っても良いと思うのです。
 傷ついているのは自分であって、傷つけた人の都合、例えば「まだそんなこと言ってるの?」とか、「いまさらそんなこと言ってるの?」とかを、傷つけられた側が配慮することなどないのです。

 だからこそ、僕は自分が付けられた、負わされた傷が癒やされる時が来るまで、(僕の場合はこうして文章にして残すということがコーピングなので)僕はその時々に抱えている苦しさをこれからも書いていこうと思います。