山と本と映画と自分

山や映画&本の感想、身の回りの出来事について

間違ってはないのかもしれない、と思えたちょっとした瞬間

子どもたちといっしょに生活をしていて、自分の接し方が「正しい」と思ったことはないのですが、「間違ってはないのかな」と思える瞬間に出会える時がたまーにあります。

この間、そういう場面がありました。

9月はじめにあったお祭りですくってきた金魚が全滅してしまったことは書きましたが、その金魚たちをどうしたかというと、S(4歳)のリクエストでSが通う保育園の目の前にある公園にみんなで埋めました。

Sは保育園にお迎えに行くと、その公園で遊びたがるのですが、先日、Sと公園に行くと、真っ先に遊びに行くのではなく、金魚を埋めた場所に行き、そっと手を合わせていました。

一週間もいっしょにいられなかった金魚に思いを馳せているSを見て、なんだか「間違ってはないのかもしれない」と思いました。

それと同時に、以前(多分10年近く前)、僕が通っていた大学の機関誌に載っていたチャプレン(病院や学校にいる牧師)が書いていたことを思い出しました。

(ネット上で探してみましたが、なかったので、うろ覚えですが)こんな話だったと思います。

そのチャプレンは大学ではなく、小学校担当だったのですが、あるとき、生徒たちがチャプレンの部屋にやってきて、その日の朝にあった出来事を話してくれたそうです。

その日、いつものように学校に向かおうと何人かで電車(山手線)に乗っていると、学校の最寄り駅で急停車し、電車が止まりました。

止まった理由は、人身事故でした。

生徒たちは、電車を降りたあとにすぐに学校に向かうのではなく、事故があった場所の近くに行って手を合わせたそうです。

でも、それで良かったのかなぁ、と思ってチャプレンの所にその生徒たちが話しに来た、というような話でした。

この話を読んで、(僕はその小学校の卒業生ではありませんが)この学校も捨てたもんじゃないな、とすごく印象に残ったのを覚えています。

Sの先日の金魚を埋めた所に向かって手をそっと合わせている姿を見て、この話を思い出しました。

Tは僕の事情もあって、1歳の時からそれこそ毎日のようにいっしょに礼拝に連れて行かれ、M(2歳2ヶ月)も今僕といっしょに教会に行っていますが、Sはそもそも殆ど行かないし、たまに子どもたちの礼拝に連れて行っても走り回っているだけなので、こういうこととは一番縁遠い存在だと思っていました。

僕は子どもたちに宗教的なものを強制するつもりは一切ないので、Sがそういう感じでも別に特に何も思わなかったのですが、それでも、Sなりに、金魚のことを思って手を合わせていること自体がとても嬉しいものでした。

こういう、ちょっとした出来事、瞬間に出会うことで、僕(たち)の接し方は間違ってはいないのかな、このままでも大丈夫かな、と勇気づけられる気がします。

(ちなみに、金魚屋さんですくってきた金魚は何事もなく、飼育から2週間経過しました。)