映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「こどものため」という欺瞞

昨日時事ネタを書いたので、ついでにもう一つ書いてみます。

今回の話は、かなり時間が経ってしまっているので、興味がない人はスルーしてくださいませ。

元ネタ?はこの記事です↓

すげえ腹立つわ」(愛情料理研究家 土岐山協子の 『料理はしないんだけど料理研究家のブログ)

この方を知りませんでしたし、ちょっと見てみたプロフィールにも、ブログのタイトルにもかなり僕とは縁遠い存在(というか近寄りがたい思想の持ち主)であることは分かりました。

このブログ記事はNewsPicksなどでも扱われたようで、かなり反響があったようです↓

ブログ「イベントで家を空け子育てに集中しないバカ母親」→TLの感想「すげえ腹立つわ」(togetter)

で、僕としてはこの方のブログが一番腑に落ちるものでした↓

父が子育て身代金を減額した話」(white_cake)

ということで、「愛情料理研究家」なる人のブログ記事についての反応と僕の考え方はこれで終わりなのですが、こういう話が出る度に気になるのが、「こどものため」という理由で何かを語ることの危うさです。

我が家は、ツレがフルタイムで働き、お金も沢山稼いで、僕がちょこっと外で働き、お金を少々稼いで、家のことは僕が沢山やっています。

子どもたちの保育園や習い事の送り迎えのほとんどは僕がやっています。

そうすると、中にはこういう意見を言ってきたりする人(直接じゃなくてもネットなどで)がいます。

「小さいうちからお母さんがいないなんて子どもがかわいそう」

「お母さんの手料理の味が子どもには大切」

「(お父さんが家事や育児を担っているので)変な子どもに育ちそう」

などなど、例を挙げれば枚挙に暇がありません。

で、僕が気になるのは、意見を言う人はみんな「子どものことを考えると」という前提で言っている点です。

「子どもが小さいときから母親が働いているのをかわいそうだと思っているのは、あなたでしょ?」

「母親の手料理が大切だと思っているのは、あなたでしょ?」

「変な子どもに育ちそうだと思っているのは、あなたでしょ?」

ということです。

話が急に変わりますが、セクシュアルマイノリティだったり、あるいは発達しょうがいなどの話を生徒たちに話すと「自分は普通だから」だとか、「自分は正常だから」という声を結構聞きます。

僕はそういうとき、「ゲイは普通じゃないの?正常じゃないの?」「発達しょうがいは普通じゃないの?正常じゃないの?」と聞き返しています。

そこから話が膨らんでいくのですが、セクシュアルマイノリティだったり、発達しょうがいの人も自分のことは「普通」である、と考えているのではないか、ということです。

主夫の家庭だってそこにいる人たちは「普通」であり、「正常」だと思っているにも関わらず、全く知りもしない人たちが勝手に「普通ではない」「正常ではない」と意見を言って来る。

まぁ、それ自体は別に構いません。

そういう考え方の人もいるんだな、と思うだけです。

でも、そういう意見を言って来る人たちがずるいのは(僕が怒りを覚えるのは)、「子どものため」という前提(楯)を付けることです。

「子どもがかわいそう」というのは、「私は別に構わないけれど、その子どもはかわいそうなんじゃないかな」という逃げの表現でもあるわけです。

その当事者の子どもの気持ちが一切分からない状況でなぜ「子どもの立場」で語ることが出来るのか、本当に謎ですし、こういう「子どものため」だとかの楯を使って、自分の意見を言う人たちはすぐにそれをやめて「自分はこう思う」という風に言ってもらいたいなと思います。