「○○やってないよ」→「お前の仕事だろ。やれよ。」
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猛毒です。
夫婦だとか家族間の一方的な愚痴が苦手な人はスルーしてください。
では、本題に。
昨夜、ツレが布団に入っている僕にこう言いました。
「アイロンがけしてないよ。」
ツレに言われるまで忘れていたのですが、次男S(6歳)が先週、給食当番だったので、給食当番が着る白衣を持って帰ってきていたのでした。
それを洗濯したものの、アイロンがけをしていませんでした。
それに気づいたツレが僕に言った言葉が「(給食当番の白衣を)アイロンがけしてないよ。」という言葉でした。
僕はこの言葉にカチンと来ました。
それは、
「アイロンがけしてないよ。」→「(Bの仕事であるはずの)アイロンがけしてないよ。」
と、僕が仕事をし忘れている、つまり、「Bの仕事であるアイロンがけを忘れているから、やりなよ。」とツレが言っていると受け取ったからです。
でも、(これはツレに数百回、もしかしたら千回以上言っているのですが)家事は僕だけの仕事ではないので、「なぜ僕がやらなくてはいけないの?」と思ったわけです。
アイロンをかけ忘れていることに気づいたのなら、気づいたツレがやればいいのではないか、と。
布団に入っている僕にわざわざ言う必要はないだろう、と。
で、ツレのこの「アイロンがけしてないよ。」というのは、「Bがやるべき仕事を忘れているから、やれという意味としか思えない。」とツレに言ったところ、ツレは、「そんなつもりはない。被害妄想だ。」と反論してきました。
「被害妄想だ。」と言う言葉にもかなりカチンと来たのですが、
(なぜなら、「被害妄想」だとしたら、被害妄想をするくらい僕は家事を押しつけられているわけで、そういう情況に僕が置かれているということへの想像力が皆無であり、責任が自分(=ツレ)にあるとは全く考えていないからです。)
本当にこの言葉(「アイロンがけしてないよ」)を「お前(=僕)がしろよ。」と受け取ったのは「被害妄想」とも言うべきような「あり得ない解釈」だったのでしょうか?
ツレは「全くそんなつもりじゃなかった。」と言いますが、「じゃあ、なんでそんなことを言ったのか?」と問うても答えはありません(僕の「被害妄想」というのはありましたが)。
思い出すのは、僕の父がたまに、家でぼそっと、「ここ汚れてるね。」とか言って、それを母が怒っていたことです。
「ここ汚れてるね。」と汚れに気づいた父がその後どうするかと言えば、何もしませんでした。
ただ「ここ汚れてるね。」と言うだけ。
つまり、それは「汚れに気づいてはいるけれど、その汚れをきれいにするのは自分の役目ではない。」ということだったのでしょう。
じゃあ、その汚れをきれいにするのは誰かと言えば、母でした。
母は父のそんな言動がある度に怒っていました。
「気づいたなら(父が)やれば良いのに。」と。
まさに僕はそれを経験しているわけです。
先日も、ツレは台所にあるいっぱいになったゴミ袋を見て「今日ゴミの日だから捨てた方が良いかな。」と言って、結局何もしませんでした。
僕はその言葉を聞かされ、結局、ツレはゴミを捨てに行かなかったので、僕が捨てに行きました。
そのときは「○○やってないよ」という言葉ではありませんでしたが、同じことです。
目の前に【誰か】(ツレや父にとっては決して自分ではない)がやるべき仕事があり、それを指摘する。
でも、自分はその【誰か】ではないので、決してやらない。
誰がやるのかといえば、家事を担わされており、「やってないよ」と指摘された母や僕がやるわけです。
まとまりがなくなりましたが(そもそも愚痴なのでまとめる気もあまりありませんが)、実家での父と母のやりとりを思い起こして、僕が決して「被害妄想」ではなかったということが分かって(少なくとも母は同じように感じていたので)、良かったです。
が、ツレも父も(特に僕に「被害妄想」呼ばわりしたツレは)、誰がその仕事を担わされているのかを全く考えていないかが明確になりました。
「シュフなんだからお前の仕事だろ」と言う人もいるかと思いますが、結局そういう人は「一緒に生活している」という感覚が欠如しているんですよね。
一緒に生活しているのだから、お互いが気持ちよく過ごすために気づいたことは相手に指摘するのではなく、指摘する前に自分でやるということが必要じゃないか、と思うのです。
今回の場合でいえば、アイロンがけをしてないことに気づいたら、自分でやって、僕に言いたければ「アイロンがけしといたよ」と言えば良いだけで、父の場合だったら、掃除したあとに「ここが汚れていたから掃除しといたよ」と言えば良いだけです。
それを、「被害妄想」だなんて、一緒に【他人】と円滑に生活をしていこうという自覚がないように僕は思います。