映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

「グリーンブック」

 観たいなぁ、と思っていた映画がAmazonで観られるようになっていたので見ました。
 最初は今自分が置かれている状況から(転職(第一志望に落ちた)と仕事(人がいない。休みたい。))、気軽な映画をと思っていたのですが、引き込まれていきました。

 


グリーンブック(字幕版)

 

映画『グリーンブック』公式サイト

作品データ映画.comより)
原題 Green Book
監督 ピーター・ファレリー
製作年 2018年
製作国 アメリ
上映時間 130分
配給 ギャガ
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより)
時は1962年、ニューヨークの一流ナイトクラブ、コパカバーナで用心棒を務めるトニー・リップは、ガサツで無学だが、腕っぷしとハッタリで家族や周囲に頼りにされていた。ある日、トニーは、黒人ピアニストの運転手としてスカウトされる。彼の名前はドクター・シャーリー、カーネギーホールを住処とし、ホワイトハウスでも演奏したほどの天才は、なぜか差別の色濃い南部での演奏ツアーを目論んでいた。二人は、〈黒人用旅行ガイド=グリーンブック〉を頼りに、出発するのだが―。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 アカデミー賞作品賞助演男優賞マハーシャラ・アリ)、脚本賞を受賞しているので、その時点で名作だということはわかるのですが、僕は実話をもとにした作品に弱いということもあり、この作品も例外でなく、心動かされるものがありました。

 1960年代の初めに、人種差別の激しい南部にコンサートツアーに行く黒人ピアニストのドクター・シャーリー(マハーシャラ・アリ)。
 その運転手兼用心棒として雇われたトニー・リップ(ビゴ・モーテンセン)。

 公式サイトに書かれていないことを書くと、トニーはイタリア系で、最初、黒人たちを「汚物」かのようにとらえています。
 家の修理に黒人の作業員たちが来て、妻が彼らに出したグラスをゴミ箱に入れ、さらに彼らを「ニガー」と呼ぶ。
 なので、ドクとの最初の面談でも彼に「雇われる」ということ自体を拒むのですが、お金がないためにその仕事を受けることになります。

 この物語が作品として優れている点は、二人が抱える二重性にあると思います。
 ドクはピアニストとして優れていて、聴衆は「白人」たちです。
 けれど、ピアニストとしては優れていても「黒人」として扱われます。
 では、「黒人」のコミュニティに入るとどうなるのかというと、それはそれで「ピアニスト」ということで、お高くとまっているようで、疎外されてしまうし、疎外感を感じてしまう。

 また、トニーは「白人」なので、南部に行こうが差別の対象にならないのかと言えば、そうではなく、イタリア出身ということで差別される。
 この二重性、あるいは逆転現象が起こっているという点を明確に描き出していることが、この作品の優れたところなのだと思います。

 差別する側にも理由があるとかではなく(それは描かれていません。この作品では差別を絶対にダメなことだという点が貫かれています)、差別されていないかと言えば、実はそこにも差別の構造があって、差別され、あるコミュニティではもてなされるけれど、他の場面ではことごとく人間としては扱われなかったりする。
 そして、その差別に対してある時は受け入れたり、折衷したり、断固として拒否をする(ので、攻撃も受ける)。

 最初は黒人をニガーと呼び、「汚物」かのようにしていたトニーは、単に身近な存在に黒人がいなかったという、ある意味無垢で純粋な面を持ち合わせていたからこそ、ドクとの旅を通して、ドクを知るようになり、彼が受ける差別は不当であると、その差別に向き合うことになります。

 誰かを差別するとき、そこにはいつも「知らない」ということが同居していると思います。
 ある特定の国や地域から来た人たちを差別したりするとき、そもそも、「〇〇人」と言っている時点で、その「〇〇人」が身近にいないのだろうな、と思います。
 〇〇は例えば「障害者」とかでもいいのですが、障害を持った人が身近にいないんだろうな、と思います。
 もし、身近に障害を持った人がいれば、そもそも誰かのことを「障害者」とひとくくりにすることは出来ないとわかりますし、もしできたとしても、それはその人を表す一部分であることが分かるはずです。

 例えば、僕は日本人ですが、「日本人は△△だ」みたいなことを言われたとして、確かにそこに僕は当てはまるかもしれないけれど、それは僕を表すほんの一部分にしかなりません。
 けれど、この社会や人々は、「〇〇人」だとか、性別だとか、超ざっくりしたくくり方をしてとらえようとする。
 その方が「楽」で「簡単」なのでしょうが、そんなに簡単に人のことは理解できないのが現状で、その簡単に理解できないこと、そして少しずつドクのことを知ったからこそ、トニーの黒人への認識が変わっていくという、その様がとても良いな、と思いますし、「楽」「簡単」だからと誰かをひとくくりにして語ろうとしてしまう自分たちへの戒めにもなっていると感じました。

「ガーンジー島の読書会の秘密」

 年始に子どもたちに会った際に頼まれていた、クレヨンしんちゃんの映画、当初は4月末から公開ということだったのですが、緊急事態宣言の影響で公開が延期され、ゴールデンウィークあたりには映画見つつ、子どもたちに会えるかな、と思っていたら、ずるずると時間が経ち、子どもたちとはすでに4か月以上も会っていないので、暇をしています。
 ならば一人で映画館にでも、と思うのですが、緊急事態宣言の影響で公開されている作品も少ないため、見に行きたいな、という作品もなく、ひたすらAmazonで見ています。
 で、おすすめ作品になっていたので観たのがこの作品です。

 


ガーンジー島の読書会の秘密(字幕版)

 

『ガーンジー島の読書会の秘密』公式サイト


作品データ映画.comより)
原題 The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society
監督 マイク・ニューウェル
製作年 2018年
製作国 フランス・イギリス合作
上映時間 124分
配給 キノフィルムズ
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより)
1946年、終戦の歓びに沸くロンドンで暮らす作家のジュリエットは、一冊の本をきっかけに、“ガーンジー島の読書会“のメンバーと手紙を交わすようになる。ナチに脅えていた大戦中は、読書会と創設者であるエリザベスという女性の存在が彼らを支えていた。本が人と人の心をつないだことに魅了されたジュリエットは、読書会について記事を書こうと島を訪ねるが、そこにエリザベスの姿はなかった。メンバーと交流するうちに、ジュリエットは彼らが重大なひみと隠していることに気気付く。やがて彼女は、エリザベスが不在の理由にたどり着くのだが……。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 いろいろと映画やドラマ、アニメを見ているのですが、この作品のことを書こうと思ったのは、ラストシーンが良かったからです。
 物語の内容は公式サイトに書いてあるものではあるものの、重要な要素が抜けていて、それは、ジュリエットをめぐる男女関係です。

 ジュリエットに関わる男性としては、担当編集者のシドニー、婚約者のマーク、そして、「“ガーンジー島の読書会“のメンバー」であるドーシーの三人になります。
 他にも読書会メンバーの少年イーライや高齢の郵便局長エベンも男性ですが、男女の関係というような視点で見ると、上に書いた三人がジュリエットと深く関わることになります。
(と言っても、シドニーも途中でゲイであることが分かります。)

 もともとジュリエットが持っていて、戦争によって手放してしまった本がドーシーの手に渡り、それによって、ジュリエットとドーシーの文通が始まります。
 ジュリエットは職業作家として自立していて、仕事の予定(朗読会・サイン会)もあったのだけれど、「ガーンジー島の読書会」に興味を惹かれ、島に行くことに。
(ちなみに僕はこの映画を観るまでガーンジー島の存在、場所を知りませんでした…)

 急に行ったので、歓迎ばかりではなかったものの、少しの期間ですぐに帰るかと思われていたジュリエットはそのまま島に残り、読書会に参加し、さらに戦争下の島の様子を調べ続けるうちに、メンバーとも打ち解けていきます。
 そこで、「秘密」が明らかになっていくのですが、僕がこの作品で良いな、と思ったのはその「秘密」に関することではなく、ジュリエットの姿です。
(単にジュリエットを演じるリリー・ジェームズが好きということもありますが。)

 そもそも一人の作家として自立していて、けれど、やはりそこには時代の影響で「女性」というだけで低く評価されてしまう現実があり、男性のペンネームで仕事をしています。
 最初のシーンで、読者からも「なぜ男性の名前を使っているの?」と聞かれ、それに対しても微妙で曖昧な返事をしています。
 また、ガーンジー島へ旅立つ際には交際しているアメリカ兵のマークからプロポーズされ、一目で高価だとわかる指輪を渡され、それに対して「イエス」と言います。
 けれど、その指輪をはめていたのは島へ行くまでの間だけで、島についてからは、逆に目立ってしまうことから、指から外して財布の中にしまいます。

 ジュリエットが中々島から帰って来ないことにしびれを切らしたマークが突然島にやってきて、「なぜ指輪をしていないのか?」と問い、それに対するジュリエットの答えに納得しないマーク。
 そうして二人は飛行機で島を離れるのですが、その時に描かれるのは、ジュリエットのベルトを締めるマークの姿です。
 それは、女性を守る男、また、女性を高価な宝石で飾る(いわゆるトロフィーワイフ)男という価値観の象徴でもあります。
 実際に婚約指輪だけでなく、島にやって来たときも、ロンドンでもマークはジュリエットに真っ赤なバラを渡していて、まさに「飾り物としての女性」という価値観を持っていることが分かります。

 冒頭から描かれているように、ジュリエットは作家として担当編集者もいて、今後のスケジュールも埋まっているような仕事をこなしている人間です。
 それは「守られる存在」だったり、誰かに「飾られる存在」ではなく、自立した一人の人間です。

 そして、ラストシーンでどうなるのか、というと、ジュリエットを探しに来たドーシーを見つけたジュリエットが、自分から「結婚してくれる?」とプロポーズします。
 この、ジュリエットの姿がとても良いな、と僕は思いました。
 僕なんかはプロポーズなんかどっちがしたって良いと思っているのですが、日本だけではなく世界的にも、プロポーズは男性からするもの、みたいな価値観があるように思います。
 女性は守ってあげないと、とかトロフィーワイフみたいにする男性、あるいは、守られることやトロフィーワイフ扱いされることを拒む女性でさえ、プロポーズなどの場面では、なぜか男性がするものみたいな価値観を持っている気がします。

 そういう価値観がある中で、ジュリエットはドーシーにプロポーズします。
 そしてその前のシーンでは編集者のシドニーに、どのくらい印税が残っているか聞き、そのお金で島に家を買うことを決意していて、直接は描かれていないものの、島で暮らすことになる家もジュリエットが購入したことが分かるようになっています。

 この、ジュリエットが最初は男性の名前を使わないといけなかったこと、そして、守られたり、飾られる存在であったものから、自分はそのような存在ではない、と守り、飾ろうとする価値観や行為を拒み、自分自身の意思で結婚を申し込み、自分の稼ぎで家を買う。
 その行為は、何かを手放すわけでもないということが、プロポーズ後の最後のシーンでも描かれていて、それがとても良いな、と思いました。
 他にも、最後のシーンの3人がみんな血縁関係にはないけれど、「家族」であるというのもとても良いな、と思ったポイントです。

「花束みたいな恋をした」

  普段は直近で観た映画について書いているのですが、今回は誰かとこの映画の話をしたいな、というか、どう思ったのか聞きたいな、と思ったものの、結局誰とも話が出来ずにいるので、書いてみようと思います。
 そもそも、恋愛系の映画は苦手というか、避けているというか、映画館で観ることはまずないのですが、それは小学校高学年だったり、中学生の頃のいわゆる「思春期」というものに突入した人たちが、誰と誰が付き合ってるとか、誰が誰のことを好きだとか、そういうものに巻き込まれたりしてうんざりし、それも僕が学校が嫌いな理由の小さくない理由の一つだからです。
 なので、高校で男子校に入り、そういう「恋愛」というものが普段の生活からなくなったとき、本当にホッとし、自由になったと感じました。
 「でも、結婚したじゃん」と友だちには言われるのですが、それも「恋愛」というものからなるべく距離を置きたかったので、結婚したことによって、これで「恋愛」とかいうものが自分とは関係のないものになった、と安心したことを覚えています。

 ですが、いつも聞いているラジオ番組や(アフター6ジャンクションSpotifyでの別冊アフター6ジャンクション)、東京ポッド許可局文化系トークラジオLife)、Podcast戸田真琴と飯田エリカの保健室)で様々に語られているのを聞き、これは見に行こうと思い、映画館に見に行きました。

 

 

映画『花束みたいな恋をした』公式サイト

作品データ映画.comより)
監督 土井裕泰
製作年 2021年
製作国 日本
上映時間 124分
配給 東京テアトルリトルモア
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより)
東京・京王線明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った 山音麦 (菅田将暉)と 八谷絹 (有村架純)。好きな音楽や映画が嘘みたいに一緒で、あっという間に恋に落ちた麦と絹は、大学を卒業してフリーターをしながら同棲を始める。近所にお気に入りのパン屋を見つけて、拾った猫に二人で名前をつけて、渋谷パルコが閉店しても、スマスマが最終回を迎えても、日々の現状維持を目標に二人は就職活動を続けるが…。まばゆいほどの煌めきと、胸を締め付ける切なさに包まれた〈恋する月日のすべて〉を、唯一無二の言葉で紡ぐ忘れられない5年間。最高峰のスタッフとキャストが贈る、不滅のラブストーリー誕生!
──これはきっと、私たちの物語。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 僕が見に行ったのは(休みが平日なので)平日の昼間だったのですが、殆どの人は2人組でした。
 カップルが多かったわけでもなく、それよりも高校生くらいから年配の夫婦、あるいは友だち同士と見える人たちと年齢層が広く、僕のように1人で観に来ている人は殆どいませんでした。
 この作品を観終わった後、誰かと話したいというか、観た人の感想を聞きたいな、と思ったので、2人で来ていた人たちがうらやましく感じるとともに、カップルで観てはいけない作品だとも思いました。

 カップルで観ちゃいけない作品だな、と思ったのは、「別れる」という結論が最初から示されていて、それまでの流れが描かれているからで、今「恋愛」をしている人たちにとっては中々に気まずい雰囲気になるのではと思ったからです。

 最初に書いたように、いろんな人がいろんな視点でこの作品について語っているのを聞いて、何か僕がその人たちとは違った視点を持っているということはないのですが、僕がうらやましいな、と思ったのは、男女関わらず、「文化」で意気投合するということがこれまで経験したことがないからです。
 本だったり、映画だったり、あるいは美術作品でも何でも良いのですが、僕が好きなものを誰か他の人が好きで一緒にそれを語ったりした経験がありません。
 高校の時、僕が村上春樹作品を読み始め、友だちたちが原田宗典作品にはまっている中、僕は原田作品は読まずに、村上作品をごり押しして、結果的に2人が村上春樹作品にはまったり、あるいは、僕らと同世代の綿矢りさが『インストール』を発表して、3人で『インストール』についてあーだこーだ話したことはありますが、出会った人と好きな作品がマッチしていて意気投合というか、話したりするという経験はなく、こういう出会いがあること自体、とてもうらやましく感じました。

 けれど、一方で、好きな作家の名前や作品名は出てくるものの、その作家のどの作品が好きなのか、作品のどういう所が好きなのか、という部分の話は全く出て来ず、ただその作家が好きという点ばかりが出てきて、本当にその作家のことが好きなのか?という感じもしました。
 作中に出てきた作家だと僕は穂村弘さんの作品が好きなのですが、例えば、穂村さんが書いたエピソードの中に、あんパンをジャケットに突っ込むというものがあって、僕はそれが好きなのですが、そういう話は全く出てきません。
 麦くんの家にある本棚を絹ちゃんが見て、「うちと同じ」というようなことを言う場面がありますが、それでなんか通じ合う気になる気持ちも分からなくはないものの、でもそれはやっぱり背表紙でしかなく、中身ではないわけです。
 見ているのは背表紙だけで、その中に書かれていることのどれが好きだから本棚にあるのか、ということは語られることはありません。

 その背表紙だけを見て、この人とは通じ合えているような気がしてしまい、中身は丸で見ていなかったというのが、結局のところ、この2人の関係だったのかなと思います。
 表面上は似ているようでいて、でも、考えていることは全く違っている。

 それは、麦くんが「養わなければならない」とか、絹ちゃんに向かって「働かなくて良い。家にいれば良い」とか、どんどんマチズモ的思想を表面化してくることとも関係していて、結局の所、中身をお互い知らないまま、話し合うこともなく関係が始まり、だからこそ、終わったのだな、と思いました。

 まぁ、でもその「中身」も状況によって自分も相手も変わっていくので、僕の離婚という結果から考えると、普段からどれだけ2人で話しているか、それが当たり前になっているかということがやはり大切なんだよな、と痛感します。

「アリー スター誕生」

 久しぶりに映画について書いてみます。
 映画自体は結構見ているのですが、中々書く気にはなれず、それは仕事とも大きく関わっているのですが、それはまた違う時に(書く気が起きたら)書くとして、結論的なことを書くと、とりあえず今の仕事を辞めることが決まったので、気持ちが落ちついたということが大きいです。
 ということで、公開当時劇場で見たいなと思っていたものの、自分自身がそんな余裕もなかったので見られていなかった作品がAmazonで見られるようになっていたので見ました。
 


アリー/ スター誕生(字幕版)

 

映画『アリー/ スター誕生』ブルーレイ&DVDリリース

作品データ映画.comより)
原題:A Star Is Born
監督 ブラッドリー・クーパー
製作年 2018年
製作国 アメリ
上映時間 136分
配給 ワーナー・ブラザース映画
映倫区分 PG12

ストーリー(映画.comより)
歌の才能を見いだされた主人公がスターダムを駆け上がっていく姿を描き、1937年の「スタア誕生」を皮切りに、これまでも何度か映画化されてきた物語を、新たにブラッドリー・クーパー監督&レディー・ガガ主演で描く。音楽業界でスターになることを夢見ながらも、自分に自信がなく、周囲からは容姿も否定されるアリーは、小さなバーで細々と歌いながら日々を過ごしていた。そんな彼女はある日、世界的ロックスターのジャクソンに見いだされ、等身大の自分のままでショービジネスの世界に飛び込んでいくが……。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 
この作品について言えることは一言、主演のレディ・ガガがすごいです。
 歌については言うまでもなく、女優としてのキャリアも十分に積んできたかと思うかのような素晴らしさです。

 ストーリーで良かったのは、あくまでも原題のA Star Is Bornというように、「スター誕生」の話であることです。
 スターになるアリーがどのように見出されていくか、という物語の軸がスッと通っていて、そのアリーを見出し、パートナーになるジャックの人生とも絡み合うことになり、ジャックに振り回されることになるのですが、あくまでもこの物語はアリーの「スター誕生」の話であって、ジャックがどんな状態に置かれているのか、ジャックがどんなことをするのかという、とても大きなインパクトのある出来事の中でも、その物語の軸が通っています。

 逆に言えば、ジャックの物語ではないということから、ジャックが何に苦しみ、どうそれに立ち向かおうとしていたのか、ということが視聴者には断片的に提示されるものの、最終的にはアリーを見出し、パートナーにもなるジャックを救うことの出来なかった、しようとすれば出来たのではないか?という疑問に対しては曖昧さが残ります。

 けれど、自殺というのは結局その「原因」は本人以外には分からないし、自殺の「原因」とされているものも複合的に組み合わさっているので、何がいけなかったのか、どうすれば良かったのか、ということも簡単に答えられるものではなく、曖昧な原因で死んでしまうのだろうとも思います。

 ジャックの兄は「あいつがダメだった」と言いますが、それもやっぱり違っていると僕は思っていて、ジャック自身が悪かったのでも、あるいは弱かったのでもなく、ましてやアリーの言動が決定打だった訳でもなく、ただそういう沢山のものの中でジャックには自死という選択をせざるを得なかった、ということなのだろうと思います。

 この作品ではアリーがジャックを愛していること、ジャックもアリーを愛していることが伝わってきますが、このジャックの「自死」に至るまでについては、愛とかそういうものでは片付けられないし、片付けてはいけないものだと思います。
 誰かのことを愛していて、大切に思っているからこそ伝えた言葉や行いが相手を徹底的に打ちのめすこともあるので。
 だから、愛があれば救えたとか、愛していたのに何で?、とかいうのは意味がないと僕は思っていて、それよりも、愛とかいう言葉を使わずに、ジャックに対してどのようにすれば良かったのかということを考えることが重要なのではないかと思います。

 と、ジャックの話ばかりになってしまいましたが、アリーがいかにスターになるか、という点においては、冒頭に書いたようにレディ・ガガが圧倒的な歌唱力、演技力を見せつけるこの作品は本当に素晴らしいです。

「フランクおじさん」

 久しぶりに文章で書いておきたい作品だったので書いてみます。
 Twitterとかでちょこっと書くだけでは不十分で、書くことで僕自身の中にあるものが何かしら整理されると思うので。

 映画館で映画を観たのは前に書いた「スペシャルズ!」ですが、相変わらず映画はちょこちょこ観ています。
 プライベートというか仕事は壊滅的で、その辺のことはTwitterでつぶやいているので、今回は映画の感想を。

 観ようと思ったのは、ラジオ番組の「たまむすび」で映画評論家の町山智浩さんが紹介していたからです。

2020年12月1日(火)「たまむすび」アメリカ流れ者


 そこでこの「フランクおじさん」が紹介されていたので観てみました。

 


フランクおじさん



作品データAmazonより)
原題:Uncle Frank
監督 アラン・ボール
製作年 2020年
製作国 アメリ
上映時間 94分
配給 Amazonオリジナル
映倫区分 18+

ストーリーAmazonより)
1973年、フランク・ブレッドソーと18歳の姪ベスは、マンハッタンからサウスカロライナのクリークビルへ車の旅に出る。父親の葬儀に出席するためだ。図らずもフランクの恋人ワリードも途中から旅に加わることになる。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 ベスのおじさんであるフランクはゲイということで、家族にも隠し、離れて暮らしていたところ、大学進学を機にニューヨークにベスがやってきて、フランクがゲイということをカミングアウトし、フランクの父でありベスの祖父マックが亡くなり、そこで自分がゲイであるということ、そして、過去の出来事がフラッシュバックし、向き合うという様子が描かれています。

 1973年という時代はまだHIV/AIDSが「ゲイの病気」とされる前なので、ゲイ自体が差別の対象になるよりも以前の情況でした。
 差別の対象になるよりも以前ということは、まだ「病気」だとか、「悪魔の仕業」とか考えられていた時代だということです。
 今でもそういうことを言う人たちはいますが、とにかく、今では考えられないほど、「ゲイであること」自体に苦しまなければならない時代でした。

 その中で、実際にフランクはとてもつらい経験をし、葬儀でもつらい出来事が起きるのですが、とりわけ僕が気になったのは、「聖書」あるいは「キリスト教」の存在です。
 キリスト教の聖書を理由に同性愛(異性愛以外)を否定する人たちがいます。
 1973年という年代もそうですが、サウスカロライナはまさに、そのような「キリスト教」や「聖書」を理由に、今でいうLGBTQ+を否定する考えが強い地域になります。
 なので、フランクは「地獄に落ちる」とマックからも言われ、自分自身をも否定してしまいます。

 やはり、聖書は罪深いな、と思ったのですが、それだけでは表現として十分ではないな、と。
 もし、問題があるとしたら、聖書に書かれていることや神の存在にすがらなければ生きていけない人間の弱さの方にあるのではないかと。
 かといって、弱さがあるからこそ、それを認めているからこそキリスト教ではなくても何かしらの信仰だったりを持つのでしょうし、神の存在を信じたりするのだろうと思うので、それも悪いことではないとも思います。

 むしろ、僕は一応クリスチャンということになっていて、今はバプテスト教会に毎週通っているのですが、そこでは、「こんなにも正面から神の存在を信じられてすごいな」と思ったりしています。
 先日、洗礼式(バプテスト)があり、そこで洗礼を受けた人が信仰告白をしているのを見ながら、僕はそこまで何か信じることは出来ないな、と思いました。

 僕自身はそんなにも何かを信じることが出来ないということが問題なのかも知れないとも思います。
 神の存在を完全に信じている人を見ると、むしろうらやましく感じさえします。
 聖書に対してもそうで、僕は聖書に書かれていることそのものを信じている訳でもなく、一つの書物として読んでいて、読む際にはテキスト(文章)ではなく、コンテキスト(時代背景や環境など書かれた情況を考えて)を含めて読んでいます。
 だからこそ、様々な矛盾があっても受け入れられているとも言えます。
(聖書の中にあるどれか一つの文書を取り出しても、1人だけが書いたものは少ない。)

 神とか聖書に書かれていることが「真実」である、ということを信じているという人がクリスチャンである、ということであれば、僕はクリスチャンではないな、と思います。
 では、僕は何なのか。
 僕は神や「キリスト教」や聖書を信じている訳ではなく、イエスを信じています。
 イエスがしたこと、言ったことを手本にしていて、それは、その社会にあって、存在そのものが「ないもの」とされている人たちに積極的に関わっていったり、知識だけ詰め込んで論戦を仕掛けてきた人物(インテリや宗教指導者たち)に結構ひどい態度をとったりしていて、その姿がいわば僕の生きる上での「手本」になっています。
 こういう僕は果たして「クリスチャン」なのか。

 よく分かりませんが、でも、それに対してこの映画ではちゃんと答えを出しています。
 それはベスがかつてフランクに言われた言葉であり、フランクが苦しんでいる中でベスがフランクに言った言葉でもあります。
 「自分のなりたい自分になることが出来る。」
 だれかの基準にとらわれて悩んだり苦しむのではなく、自分では自分のことをどのように考えているのか、どうなりたいのか。
 そうすると自ずと、他のクリスチャンとは違うかも知れないけれど、まぁ、僕は神を信じ切っているわけでも、あるいは聖書に書かれていることが「真実」だとも考えていないけれど、イエスを「手本」に生きているという点でクリスチャンということで良いのではないか、と思いました。

「スペシャルズ!」

 観たいなぁ、と思っていた作品が公開されたので映画館で観てきました。
 観たいな、と思ったのは、この作品の監督が『最強のふたり』と同じ、エリック・トレダノオリビエ・ナカシュなのと、僕自身が生きる中での課題と考えている、「障害児・者」と「居場所」のない人たちの居場所をいかにつくりだすことが出来るかということがあります。
 これは僕が何か「施し」のような気持ちを持っているというわけではなく、僕自身もうつ病があり、「精神障害者」であり、多分「発達障害」的なものもあり、自分自身の安心して生活出来る居場所を探し求め続けているからです。 

 

youtu.be

映画『スペシャルズ! ~政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話~』 公式サイト

 
作品データ映画.comより)
原題:Hors normes
監督 エリック・トレダノ オリビエ・ナカシュ
製作年 2019年
製作国 フランス
上映時間 114分
配給 ギャガ
映倫区分 G

ストーリー(公式サイトより略出)
ブリュノ(ヴァンサン・カッセル)は、朝から駆けずり回っていた。自閉症の子供たちをケアする団体〈正義の声〉を運営しているのだが、支援している青年の一人ジョゼフが、電車の非常ベルを鳴らして鉄道警察に取り押さえられたのだ。ジョゼフを家まで送り届けると、今度は緊急地域医療センターへと向かう。重度の症状から6か所の施設に受け入れを断られたヴァランタンという少年の一時外出の介助を頼まれたのだ。長年にわたって閉じこめられたせいで、ヴァランタンは完全に心を閉ざしていた。頭突き防止のヘッドギアをつけて、一人で立ち上がることもできない彼を見ても、ブリュノはいつもの言葉を口にする─「何とかする」。
施設に戻ると、待ち受けていた会計士から、監査局の調査が入ることになり、不適切な組織だとジャッジされれば、閉鎖を命じられると忠告される。赤字経営で無認可、法律の順守より子供たちの幸せを最優先するブリュノの施設は、役人に叩かれれば山のように埃が出る状態だった。
ブリュノはヴァランタンの介助を、マリク(レダ・カテブ)に相談する。ドロップアウトした若者たちを社会復帰させる団体〈寄港〉を運営するマリクは、教育した青少年をブリュノの施設に派遣していた。マリクは遅刻ばかりでやる気のない新人のディランを、ヴァランタンの介助人に抜擢する。
そんな中、調査員が関係者との面談を始める。まずはジョゼフの母親が、無認可の組織の落ち度を探られるが、彼女はいかにブリュノが親身で熱心かを力説し、「認可なんて関係ない」と言い切るのだった。次なるターゲットのマリクに、大半の支援員が無資格だと詰め寄るが、マリクは資格があれば暴れる子を抑えられるのかと鼻で笑う。緊急地域医療センターの医師も、3か月で退院しなければならない患者を無条件で受け入れてくれるのは、「心と信念で働いている」ブリュノだけだと証言する。
調査員が称賛の声にも耳を貸さず、無秩序で怪しげな団体だと決めつける中、事件は起きてしまう。ディランが目を離した隙に、ヴァランタンが姿を消したのだ。ヴァランタンはどこへ消えたのか? そして施設はこのまま閉鎖に追い込まれるのか? 救いの手が必要な子供たちの未来は─?

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★


感想
 最初に僕自身がうつ病という「精神障害」を持っていること、そして、この社会での「居場所」を見つけられていないことから、それらの人びとに関心を持っていて、さらにどうにか安心して生活出来る「居場所」をつくれないか考えているというようなことを書きました。
 この作品ではまさに、その「精神障害」(あるいは「知的障害」)を持つ子どもたちと、社会でうまく「居場所」を見つけられない若者たちが描かれています。

 この作品が良かったのは、他の施設が受け入れを拒否するような子どもであっても受け入れるブリュノや、若者たちを支援するマリクが決して「善人」として描かれていない点です。
 彼らも単なる「人」であり、間違いを犯すし、コミュニケーションをうまく取れないこともある。
 コミュニケーションはそもそも相手がいるからこそ成立するので、相手に自分が伝えたいことが伝わっていなかったり、自分が誤解することもある。
 それは人間だからこそ、どんな人であっても起こることです。

 そして、ブリュノやマリクがやっていることは、その後のフランス社会を変えたとしても、彼らにとっては、その日その時の一瞬を生きていて、長期的な視野を持っている訳でもない。
 ただ、誰からも見放された子どもがいて、誰も受け止めてくれない子どもがいる。
 だから、その子たちを受け入れ、居場所のない若者たちを受け入れる。
 そのシンプルな出来事を描いていて、結果的にそれがどんな変化をもたらすかということは考えらるような情況ではない。

 また、この作品を観て、これこそ多様性(ダイバーシティ)だと思いました。
 ブリュノはユダヤ人で、ユダヤ人社会の枠組みにいることを描きながらも、「誰でも受け入れる」という姿勢から、そこに集まる人たちは、宗教や肌の色、年齢を超えています。
 ブリュノやマリクのように「白人」だけではなく、「黒人」や東アジア系、ムスリムイスラム教徒)など、多様な人たちが出てきます。

 それが「当たり前」のこととして描かれる。
 同一化を強いられたり、どちら「側」かを問われる現代において、そんな同一化やどちらの「側」に自分がいるかなど関係なく、単に目の前の「人」に出会い、関係を築いていく、というそのあり方が良いなと思いました。

 かといって、それは単なる理想郷ではなく、やはり現実は厳しく、運営資金もなく、明日も続けていけるかどうかも分からないということも描いているところが現実の厳しさとともに、わずかな希望を感じさせる作品でした。
 ブリュノやマリク、あるいはディラン、そしてジョゼフやヴァランタンの日々の、毎日接していると変化を感じないかも知れないけれど、少しずつ変わっていくということに、僕自身は毎日、やはりそれはとても小さなことで、他人からみれば変化とも思えないようなチャレンジをし続けようと思いました。
 その他人からすれば変化とも思えないような日々のチャレンジが、数年経ったとき、大きな変化になる、ということをこの作品では描いていたからです。

「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」

 観たいと思っていた映画がAmazonプライムで観られるようになっていたので観てみました。 

 


こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話

 

映画『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』公式サイト


作品データ映画.comより)
監督 前田哲
製作年 2018年
製作国 日本
上映時間 120分
配給 松竹
映倫区分 G

内容(公式サイトより)
鹿野靖明、34歳。札幌在住。幼少の頃から難病の筋ジストロフィーを患い、体で動かせるのは首と手だけ。人の助けがないと生きていけないにも関わらず、病院を飛び出し、風変わりな自立生活を始める。自ら大勢のボランティアを集め、わがまま放題。ずうずうしくて、おしゃべりで、ほれっぽくて!自由すぎる性格に振り回されながら、でも、まっすぐに力強く生きる彼のことがみんな大好きだった―。この映画は、そんな鹿野靖明さんと、彼に出会って変わっていく人々の人生を、笑いあり涙ありで描く最高の感動実話!

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 以前、原作(というか原案?)となる『こんな夜更けにバナナかよ』を書いた渡辺一史さんの『人と人はなぜ支え合うのか』でも触れましたが、僕は大学・大学院で「障害」「障害者」をテーマにしていました。
 もっと具体的に言えば、キリスト教(主義)に基づいた(主に)知的・精神「障害者」のコミュニティについてがテーマでした。

 そのため、原著となる『こんな夜更けにバナナかよ』は学部生の時に読んでいて、すごく衝撃と影響を受けつつ、論文でも引用させてもらいました。

 この映画は、その『こんな夜更けにバナナかよ』と同じタイトルになっていますが、描かれている内容は全く違うものです。
 『こんな夜更けにバナナかよ』は小説ではないからです。
 これは決して誰かを批判している訳でも責めているわけでもないので、もし、この映画の原作を知りたい、読みたいという方がいたら『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』を読んでいただければと思います。

 では、この映画では何が描かれているのかというと、鹿野靖明という1人の筋ジストロフィーを患う人を中心にした物語です。
 何度も笑い、何度も涙が出てきました。
 僕が読んだ『こんな夜更けにバナナかよ』とは違うものだとしても(そもそもが物語ではないので)、1人の人間が生きるとは、生ききるとはこれほどまでに力強いものなのかということを感じました。

 映画の作品としての良さは観てもらって確認してもらうとして、最後まで観たときに少なからず衝撃を受けたのは、鹿野さんが42歳で亡くなっているという事実です。
 僕が初めて本を読んだ時、多分20歳前後だったと思いますが、その時には既に鹿野さんは亡くなっていました。
 そして、今、映画を観た時、エンドロールに流れたのは「鹿野は2002年に42歳で亡くなった」ということ。
 初めて『こんな夜更けにバナナかよ』を読んだ時には遙か遠くにいるような鹿野さんの年齢に、今はすごく近いところにいる。

 そのことに、言葉にも出来ず、不思議な感覚でいます。
 憧れの人が亡くなった年齢と近くなった?
 いや、それは違う。

 なんだろう、この気持ち。
 よく分かりませんが、鹿野さんが亡くなった年齢に着実に近づいている自分にとって、なんというか、やっぱり、いつ死んでもおかしくないんだな、と再確認したというか、そんな気がしています。