映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

齋藤直子『結婚差別の社会学』

 前から気になっていた本で、メディアや他の本でも触れられていたのですが、自分にしては買うには勇気のいる値段だったのですが(図書館の近くに暮らしたい、と最近強く思うようになりました)、買って読んでみました。
 


結婚差別の社会学

結婚差別の社会学 - 株式会社 勁草書房


内容勁草書房より)
被差別部落出身者との恋愛や結婚を、出自を理由に反対する「結婚差別」。部落出身者との結婚をめぐる家族間の対立、交渉、破局、和解などのプロセスを、膨大な聞き取りデータの分析から明らかに。同時に、結婚差別の相談・支援活動の事例から「乗り越え方」のヒントを探る。部落差別の根本問題を徹底的に調査研究した画期的な成果。

感想
 この本は著者の博士論文を基にしているとのことで、出てくる例はその博士論文が提出された頃のもの(2000年代)が多くなっています。
 けれど、出版に合わせ、かなりの加筆修正をしたということと、博士論文では載っていなかった「支援」についてが、加えられています。

 僕がこの本に関心を持ったのは、自分にとってはあまり身近とは言えない「部落差別」が今なおあるということ、その中でも「結婚差別」が起きているということの「現状」を知りたいと思ったからです。
 僕自身は埼玉県出身なので、東京都とは違って同和教育も特に中学生の時にはありました。
 そして、母校の大学でもかつて被差別部落に関して差別発言があり、それ以来ライフワークとされていた教員を支える教員が近くにいたので、学ぶ機会や関心はありました。

 けれど、「身近」な問題かというとそうではなく、部落差別に関して聞いたことがあることとしては、亡くなった祖母がかつて被差別部落出身者との結婚は許さないというような発言をしていたと遠回しに聞いたことがあるくらいで、それも本人から聞いたことではなく、確認もしていません。
 だから、読もうと思ったのは、そもそもあまり身近とは言えない部落差別が「今」どのようにあるのかということと、「差別」や「結婚」がどう関わってくるのかを知りたかったからです。

 まず部落差別について、この記述がとても気になりました。

野口道彦は、差別する側が、ある人を部落かどうか判断するときの基準は非常に恣意的であるという[野口2000b]。そのため、差別する側が「間違って」差別することがしばしばあり、誰でも部落差別を受ける可能性がある。例えば、部落出身者との交際、部落内や部落周辺部での居住、部落産業主考えられている産業への従事などによって、「間違って」差別されることがありうる。
そして、人々が「間違われそうなこと」を避けようとして、部落や部落出身者から距離をとることで、部落差別の構造が維持されている。つまり、部落やその近くに住まない、部落出身者と友人や恋人になったり結婚をしない、食肉産業を避けるなどといった行為が、結果的に部落を排除することになる。

 
 インターネット上などではかつての部落地域が載っていたりするそうですが、移動の自由も職業の自由も認められるようになって何十年も経つので、流入や流出をしているのは当然のことです。
 けれど、その流出や流入の結果起きた「曖昧さ」が逆に差別を維持することになっている、ということは、重要な指摘だと思いました。

 では、なぜ今結婚差別が大きな問題なのかというと、このように説明されていました。

見合い婚では、部落外出身者との結婚から構造的に排除されていたわけだが、逆にいうと、あらかじめ結婚相手のリストから外されているということは、部落出身者一人ひとりが結婚差別事象に直面する可能性は低くなる。しかし、部落出身者と部落外出身者が自由に出会い恋愛をするということは、交際に至った後、交際相手やその親から直接的に排除を受ける可能性が生まれてしまうことを意味する。出会うチャンスの増大が、結婚差別体験の増加を生みだしているのである。結婚差別は、恋愛婚の時代にこそ重大な事件としてあらわれるのだ[齋藤2002]。


 以前は見合い結婚が多かったので、そもそも見合い相手として選別されていた時点で相手が部落出身者ということが分かっていた(排除されていた)ということです。
 自由恋愛が増加した結果、見合い婚ではそもそも交際相手にはならなかった相手とも交際することが起きたために、「今」結婚差別が大きな問題になっているということです。

 では、どのような差別の仕方があるのか、ということもパターン化しつつ、実例をあげて解説しています。
 この差別する側の論理というか「言い訳」は、他の差別でも同じか似た構図だと考えられそうです。
 これは、「部落差別」を取り上げると必ず出てくると言われる反論の「部落差別はもうない」という言説への反論についても同じで、「○○差別はもうない」という言説へどのように応答するか、なぜ応答しなければならないのか、ということは、他の差別にも共通すると思いました。

 個人的に興味深かったのは、この本で語れている「部落差別」や「結婚差別」と自分の出来事を結びつけて良いのかは分からないのですが、結婚と親との関係についての記述です。

 

親は、「祝福」を定義する有利な立場にあり、さらに結婚後の「カネ」と「ケア」という強力な切り札を持っている。このように、子どもを縛るのは、家制度の規範だけとは限らない。
また、子どもが親の言うことをはねつけることができないのは、親子関係の良さに由来する可能性もある。米村千代は、「家」をめぐる社会学的研究の再検討をおこなう中で、「現代において『家』の継承の葛藤を抱える人には、単に『家』と個人意識との狭間で悩むというより、そこに、親や祖父母に対する愛情が介在している場合が少なくない」と指摘している[米村2014]。 


 そもそも結婚は「両性の合意のみに基いて成立」するのだから、親や親族が賛成するか反対するかは関係がないということも出来ます。
 けれど、親や親族の「反対」によって、当事者2人の「結婚への意思」が揺らいでしまうくらい大きな課題となるのはなぜなのか。
 それは、親という存在が現代の日本では「カネ」(経済)、「ヒト」(人的)、そして「愛着」という部分で簡単には「切る」ことが出来ない存在だからです。
 もし、親の反対を押し切って結婚するとなれば、それらの「カネ」や「ヒト」がない状態で生活をし始めなければならず、それはゼロからのスタートではなく、マイナスと感じるかも知れないほど大きな影響力を持っています。

 それでも、僕はこの本を通底しているのは、 結婚は「両性の合意のみに基いて成立」するということで、それと同時に「結婚」に関して「大きなこと」と捉えないようにする姿勢が、自分自身の結婚がうまくいかなかったからこそ、とても重要だと感じました。
 結婚差別に合った当事者たちの相談にのる井上さんへの著者のインタビュー部分ではこのように書かれています。

 井上は、結婚をしないという選択も、本人が納得できるのであれば、ありうるという。結婚そのものが目的になってしまうと、抑圧的な規範を再生産することに加担するだけだという。
井上 「結婚することは簡単や」と思ってないと、それがものすごい大変なことなんやって(思って)、それが目的化してしまうと、制度に縛られていることになるかもわからないですよね。戸籍やら家長、家族制度やら。結婚にこだわるんじゃなくて、お互いの、生きてきたことの中身にこだわらないと。で、それがたまたま結婚(につながった)というパターンやったとしてもね。そこだけが目的化して、そこだけが問題になるんじゃないんですよ。 

 
 僕らの結婚では、少なくとも僕は「結婚することは簡単」という意識はありませんでした。
 沢山の人に反対され、義母から「条件」まで出され、でもその「条件」を受け入れないと結婚という「大きなこと」は出来ないと思っていました。
 でも、簡単だと思っていたら、「条件」なんて飲む必要もなかったし、そもそも当事者でもない人からの「条件」なんて考える必要もなかったでしょう。
 それでも相手が義母の「条件」を受け入れろという考えだったとしたら、それは僕とは「結婚」というスタート地点で大きな違いがあったのだから、今こうして家族ではなくなったことは、それはそれで良かったというか当然の結果だったのだと思います。