映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

プラド夏樹 『フランス人の性 なぜ「#MeToo」への反対が起きたのか』

 先日、こんな記事を読みました。

 

gendai.ismedia.jp

 
 日本とフランスとの社会生活の違いについて書かれたもので、これ自体興味深い内容だったのですが、そんな時に、こんな本を目にしました。


フランス人の性~なぜ「#MeToo」への反対が起きたのか~ (光文社新書) Kindle版

 

フランス人の性 プラド夏樹 | 光文社新書 | 光文社

 

内容(光文社ホームページより)
2017年にはじまった「#MeToo」というムーブメント。
数々の有名人、権力者たちが糾弾・告発され、世界中がある種革命的な様相を呈する中、フランスでは女優カトリーヌ・ドヌーヴら100人の女性たちが反対声明を発表した――。
この時代にいったい、なぜ?
出生率2.01人の子どもを産み、育てやすい国。たとえ高齢者であってもセックスレスなどあり得ない国。子どもに8歳から性教育を施す国。大統領も堂々と不倫をする国。そんな「性」に大らかな国・フランスの現在を、在仏ジャーナリストが多角的に描く。


感想
 フランスは長くローマ・カトリックの国だったので、性、セックスに関しては、快楽としてのセックスが禁じられてきました。
 それは同時に、結婚=生涯のパートナーということをも意味しているのですが、PACS(参照:PACS(連帯市民協約)ついて : 在フランス日本国大使館)のような「結婚」ではない形のパートナー関係がなぜ形成されたのかが、自分の中で疑問でした。

 10代半ばの著者の子どもに性に関してどう教えたら良いのか、ということから始まり、公教育でどのように性が教えられているか、そこに至るまでどのような歴史があったのか、ということを紹介にあるように、「多角的に」書かれています。
 キリスト教(というか聖書の内容)が性に与えた影響は日本にも届いていて、それの結果として「不倫=悪」みたいな考え方が強くなっていて、むしろ厳格なはずのローマ・カトリック教会の影響が強いフランスをはじめ、イタリアやブラジルなどの国と逆転しているのは、皮肉さえ感じます。

 この本を読んで、そのまま日本も(かつての日本や)フランスのようになれば良いとは思いませんが、見習いたいな、と思うのは、家族ということへの考え方です。
 

フランスでは結婚という制度に対して大きな反発があり、20世紀半ばからは二人の個人の自由な結びつきである事実婚が主流となった。以来、愛情表現としてのセックスやスキンシップ以外にカップルを規定するものがなくなってしまったのである。
 逆に言えば、セックスは結婚という法的制度に付随する「生殖を目的とした義務」ではなく、二人の個人の間での「愛情の誓い」の象徴となったことで、愛情関係のメンテナンスとして捉えられるようになった。だから、病気でもないのにセックスレスになり、スキンシップもなくなり、さらに別のベッドで寝るようになれば「もう、私たちの間には何も起こらない、それなら別れてお互い他の相手を見つけましょう」ということになってしまうのだ。

 

 セックスやセックスレスについて書かれたものですが、第一に置かれる関係はパートナーとの関係で、たとえ実子であっても、自分の人生における第一の関係は子どもではなく、パートナーである、という考え方は自分自身の考え方に近いので、日本にいるよりは楽だろうな、と感じました。

 子どもを大切にするのは当たり前ですが、子どもはパートナーではない。
 子どもたちが健やかに成長していくことを促すけれど、それ以上に干渉することもない。
 毒親や毒母という表現がこれほど浸透するのも、日本では、パートナーよりも、親子関係が第一に置かれているからなのではないかと思います。
 それは以前紹介した齋藤直子『結婚差別の社会学』で強く印象に残ったことで、自分自身も結婚というものを親の了解を取らなければいけないもの、つまり実はパートナーとの関係が第一ではなく、親子関係が第一に置かれていたということに気付いたということがあります。

 『結婚差別の社会学』では、結婚自体に大きな意味はないということから2人の関係をはじめていくことが書かれていましたが、この本で紹介されているフランス人の性も、同じように、「結婚」という制度が第一ではなく、あくまでもパートナーとどのような関係を築いていくかを考え、実行していくと、メンテナンスには当然、性・セックスが欠かすことが出来ないという、ある意味で当然のことが書かれているように感じました。

 フランスではここ20年で大きく変わったということなので、日本も大きく変わると良いな、と思います。