映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

ヤマザキマリ『ヴィオラ母さん』

 前から読みたいなぁ、と気になっていたのですが、単行本は高いので基本的に買わないようにしているのですが、ついポチってしまいました。
 が、結果的にとても良かったです。
 もの凄く良かったです。
 今の自分に必要なことが沢山詰まった本でした。


 ヴィオラ母さん 私を育てた破天荒な母・リョウコ

『ヴィオラ母さん 私を育てた破天荒な母・リョウコ』ヤマザキマリ | 単行本 - 文藝春秋BOOKS

作品紹介文藝春秋より)
「生きることって結局は楽しいんだよ」
音楽と娘と自分の人生を真摯に愛する規格外な母リョウコのまるで朝ドラのような人生!
「リョウコ」とは、漫画家・ヤマザキマリの今年で86歳になる「規格外」な母親のこと。
昭和35年、リョウコが27歳の時、勝手に仕事を辞め、新設された札幌交響楽団で音楽をやるため、半ば勘当状態で家を飛び出した。
新天地・北海道で理解者となる男性と出会い結婚するものの早逝され、シングルマザーとしてふたりの幼い娘を抱えることとなる。
戦後、まだまだ女性が仕事を持つのが難しかった時代。
ヴィオラ演奏家という職業を選び、家族を守るために、大好きな音楽を演奏するために、リョウコが選んだ道は平坦ではなかった。鼻息粗く自分の選んだ道を邁進し、ボーダレスな家庭の中で子供を育てあげた破天荒・母リョウコの人生を、娘マリが語る。
見本となるような「いい母親」ではなかったけれど、音楽と家族を愛し、自分の人生を全うする、ぶれないリョウコから娘マリが学んだ、人生において大切なこととは?
昭和を駆け抜けたリョウコの波瀾万丈な人生!

勝手に五段階評価
★★★★★

感想
 映画にもなった『テルマエ・ロマエ』などの作品で知られるヤマザキマリさんがお母さんのリョウコさんのことを所々イラストを交えながらも基本的には文章で書いたものです。
 サブタイトルに「私を育てた破天荒な母」とあるように、「破天荒な母」がどのような人生を歩んできたのかが書かれているのですが、僕の中にあったいくつもの偏見が打ち破られたり、勇気づけられたり、自分でも気付いていなかった自分が大切にしたいことを発見出来た内容でした。

 僕の中にあったいくつもの偏見というのは、例えばローマ・カトリック教会に対してのもので、母リョウコさんやヤマザキさんはカトリックの信者だそうで、カトリック(だけではないのですが)では「離婚」というのはかつては破門(除籍)さえされるような忌むべき事柄でした。
 けれど、リョウコさんは離婚を経験し、ヤマザキさんも離婚は分かりませんが、シングルマザーを経験しています。
 現代なら「離婚」やシングルマザーということは珍しいことではなくなりましたが、1923年(昭和8年)生まれのリョウコさんが生きた時代は風当たりも強く、本当に辛い思いや経験をしてきたと思います。
 けれども、リョウコさんは教会を離れること無く、公演のために北海道各地に行くときには知り合いの修道士のいる教会へ訪ね、地元でも娘たち(ヤマザキさん姉妹)を修道士さんたちに預けたりする。
 ヤマザキさんが経験したそこでの出来事や親しかった修道士さんとの思い出も書かれているのですが、「ローマ・カトリック教会」という大きなくくりでしか見ていなかった自分の偏見を思い知らされました。

 また、勇気づけられた言葉はいくつかあって、たとえばこれらのものです。

 家族の愛情は、接触時聞が短くてもちゃんと通じる。やむを得ない距離感を強いられても、愛情はその力を必ず発揮する。

 

 もちろん、時聞があればめいっぱい子供と過ごすことは大事だと思うし、リョウコもそうしてきた。私自身も母親になってからは、子供と過ごす日をできるだけ作るようにした。かといって、親子の愛情は距離を縮め共有する時間を増やすだけで確かめ合えるものなのだろうか。
 いつもそばにいればいいというものではない。ずっと子供のことばかり考えてくれればいいというものでもない。親というものは、子供にとって、まず強く生きる人間の手本であるべきだと思うし、手放しでも子供がしっかり育っていけること、生きていけることを信じてあげるべきなのだと思う。 

 
 母リョウコさんが公演旅行の為に海外に何日間も行っていたり、夜遅くまで帰ってこなかった時のことをヤマザキさんが振り返って書いているものなので、子どもたちと完全に離れて暮らしている僕とは情況が違うのですが、これらの言葉を読みながら、涙が止まりませんでした。
 子どもたちが大人になったときに、いつかこう思ってくれたら良いな、と思います。

 また、個人的に親近感を覚えたのはこの箇所です。

 昭和八(一九三三)年生まれのリョウコの父親は、明治二十九(一八九六)年生まれの横浜出身で、二十二歳から十年間のアメリカ駐在を経験した銀行員である。母親は九州の熊本から嫁いできた。一家は父母に加え、父方の両親と数人のお手伝いさんという大所帯だったそうだ。
 そんな家に生まれたリョウコは、それはそれは可愛がられて育ったらしい。生まれて数カ月目の赤ん坊リョウコに、若く美しい母親がぴったりと頬を寄せる微笑ましい写真が今でも彼女の寝室に飾られている。あどけなく幸福そうなリョウコの表情から、彼女がどれだけ外界の毒気から手厚く守られ、育てられていたのかがうかがえる。 

 
 ヤマザキさんにとっての母方の祖父が明治29年生まれということが書かれているのですが、僕の母方の祖父も明治29年生まれです。
 僕の祖父は日本橋生まれ日本橋育ちの生粋の江戸っ子で、尋常小学校卒業後(当時は4年生=10歳で卒業)から働き始め、自分の会社を作り、10人の子どもがいる家庭を築きました。
 10人目の子どもが僕の母なので、互いの祖父の年齢は一緒でもヤマザキさんと僕とは15歳近く年齢が違いますし、僕の祖父はアメリカどころか海外には行ったこともありませんが、何となくその時代の雰囲気を感じることが出来ました。
 たとえば、家に「家族以外の誰かがいる」という部分は、僕のうっすらとした祖父母の家もそうだったな、とか(僕は祖父母にとって18人いる孫の中で最後の孫で僕が5歳の時に祖父は亡くなりました)、母から聞かされた家の様子でもあります。
(10人きょうだいだったので、お手伝いさんや近所の人など「家族以外の誰か」が家にいたそうです)
 今はもうない祖父母の家の、特に玄関だったり、掘りごたつだったり、居間の様子がぶわっと鮮明に思い出されました。

 また、子育てだけにかかわらず、自分がどう生きたいのか、どういう生活をしたいのか、ということについて、気付くことが出来ました。
 僕はリョウコさんのヴィオラや、ヤマザキさんの漫画のように「一つの好きなこと」を突き詰めていくという生き方は出来ませんし(あえて言うなら「色んなものを知りたいし、色んなことを経験したいし、色んなことが出来るようになりたい」ということが「好きなこと」です)、実際に出来ていないのですが、どういう生活を送りたいのかは、気付くことが出来ました。

 それは、リョウコさんが愛読していた(している)という雑誌「暮しの手帖」についての文章を読んでいて、僕もそう、「暮しの手帖」のような、流行にいち早く乗ったり、着飾ったりすることではなく、「丁寧な暮らし」がしたいんだよな、と。
 すぐに使い捨てることが出来るようなものを一切買わないということはなくても、こだわりの逸品を大切に使い続け、食事もお菓子も外食や買えば簡単だけれど、自分で作ってみる。
 料理は前から結構好きでしたが(今は1人なのでほぼしませんが)、アイロンかけが好きなのもそういう生活を送りたいという深層心理みたいなのがあるからなのかな、と気付きました。

 そして、最後に、子どもたちとの接し方だけでなく、自分がこれからどう生きていくかについても勇気をもらったのはこの言葉です。
 

「この地球に生まれてきたからには、この海がどれだけ広いのかを教えてあげる。海という世界で生きるのは厳しいけど、どこまでも、どんどん思う存分に泳げるということだけは教えてあげる。だから、そのあとは自分で好きなようにどんどん生きていくのよ」 

 
 この世界が広いことを教えてあげるためには、親である僕自分自身がこの世界がいかに広いかを知っていなければ出来ません。
 僕はだからもっとこの世界の知らないことを知りたいし、行ってみたいし、体験したいし、色んなことが出来るようになりたい。
 そして、それを子どもに伝えられたら良いな、と。
 でも、世界の広さと泳ぎ方は教えるけれど、あとは自分で生きていってね、自分も自分で生きていくからと。
 その生きる姿勢と、子どもとの距離感がうなずくばかりでした。

 学問としては教えていましたが、これっぽっちもないと思っていた信仰心が去年の「離婚」という経験でかなり深く罪悪感を感じていた(いる)ことから始まり、子どもたちとの接し方、それだけでなく自分がこのあとどう生きていくのか(そもそも生きていけるのか)悩み、不安を抱えていた(いる)ので、リョウコさんの生き方とヤマザキさんのリョウコさんへの思いを読んで、僕もまだ生きていけるかも、という気持ちにさせてもらえました。

ヤマザキマリ『ルミとマヤとその周辺』と合わせて読むとより内容の背景が伝わってきます。