映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

ウチヤマユージ『葬送行進曲』

 先日『ダルちゃん』について書きましたが、同じラジオ番組内で紹介されていて、『ダルちゃん』同様、完結している作品だということで手に取ってみました(ちなみに『ダルちゃん』は二巻で完結)。
 

プロが選ぶ2018年ベスト「マンガ」は?【ダルちゃん、えれほん、ほしとんで、見えない違い…】:アフター6ジャンクション
 


葬送行進曲 (コミックDAYSコミックス) Kindle版

 

『葬送行進曲』(ウチヤマ ユージ)|講談社コミックプラス

 

内容紹介講談社ホームページより)
嵐の夜、山道に迷った男は廃屋で一夜を明かす。しかし廃屋と思われたその家には老婆が独りで住んでいた。さらにその家は「よくぞこれだけ!」と思われるほどのゴミに溢れたゴミ屋敷であった。行き場のない男と、どこへも行けない老婆。ワケアリの二人の孤独な魂が共鳴し……。前作「よろこびのうた」では実際にあった事件を題材に日本の問題をあぶりだしたウチヤマユージが、今作でもまた人の心の暗部を優しく掬い、そして救う。

感想
 この作品も『ダルちゃん』と同じくネット上で何話か読めるようになっています。

comic-days.com


 この作品、ラジオでの紹介を聞いた時に興味を持った理由が「ゴミ屋敷」というフレーズでした。
 移動する前のブログには書いたこともあるのですが、伯父(父親の兄)が孤独死し、しかもその家は元々モノが沢山あったのですが(父も兄もモノが多い)、一緒に暮らしていた祖母が亡くなり、伯父だけで暮らすようになると収拾がつかないほどモノが溢れ出し、ゴミ屋敷になりました。

 伯父が亡くなったあと、両親と兄と僕とでゴミ屋敷に踏み入り、業者さんにも頼んで、一緒に片付けました。
 その経験と、父や兄(と僕)は明らかにゴミ屋敷予備軍的要素を持っていることから「ゴミ屋敷」を人ごととは感じられません。

 僕自身はゴミ屋敷の片付けをした経験から、自分の荷物の中で一番多い本を自炊(電子化)することによって、子どもの時から使っている本棚のスペースが余るくらいに減らしたり、何かを買ったら何かを捨てることを習慣化したり、あるいは、なぜ「ゴミ屋敷」になってしまうのかについての本や資料を読むようにしてきました。
 元々の収集性に加え、そこにはセルフネグレクトの要素が加わることによって、ゴミ屋敷になっていくのですが、この作品でも、その様子が描かれています。

 けれど、1冊でまとめているので、全体的に簡潔に描かれすぎているように感じました。
 たとえばゴミを片付ける様子については、単に溢れたゴミを片付けることになっていて、ゴミ屋敷を片付けるということの違いは描かれていませんでした。
 ゴミを片付けることと、ゴミ屋敷を片付けることの違いというのは、例えば、生活に必要の無いゴミが溢れたスペースや部屋は基本的に放っておかれるので、それらのスペースや部屋は簡単に朽ちていくので、ゴミを片付けると、雨漏りだったり、床が抜けたり緩んでへこんでいたりと様々な痛みが現れてくるのです。
 なので、単に溢れているゴミをまとめ片付ける、ということでは、ゴミ屋敷の片付けは終わらないのです。

 あるいは、ゴミ屋敷に至るほどのセルフネグレクトに至っている人は、基本的に人との関係を拒みます。
 自分自身を拒否している、虐待している状態なので、簡単に、人と関わったり、交わったりすることが出来なくなっているのです。

 なので、ゆっくりとその人と関係を築き、セルフネグレクトで大変な状態に置かれているその人をケアしていくことが大切になってきます。
 そのあとで、ゴミを片付けることによって、セルフネグレクトから脱することで、社交的になり、明るくなり、人と関わるようになっていきますが、その最初のセルフネグレクトにある人とどうやって関係を築いていくかが一番難しく時間がかかるにもかかわらず、その点が一足飛びに描かれていたのが残念でした。
 1つの作品としては分かりやすく、「ゴミ屋敷」を扱ったという点でもとても貴重だとは思うのですが、もう少し丁寧に、時間とページ数を使って描かれていれば良かったと感じました。

 ちなみにゴミ屋敷には「ニオイ」の問題もあります。
 ニオイは人は慣れていくので、どんなにひどいニオイの環境にいても、最初からそこにいる本人は全く問題なく過ごせます。
 だから、ゴミ屋敷を片付けるときには、ゴミだけではなく、ニオイとの闘いでもあるのですが、それについても描かれていませんでした。

「マーベラス・ミセス・メイゼル」シーズン2

 先日書いた「マーベラス・ミセス・メイゼル」が面白かったので、続けてシーズン2も観てみました。
 1話毎の時間は変わりませんが、全8話だったシーズン1からシーズン2では2話増えて、全10話になっています。

 


マーベラス・ミセス・メイゼル シーズン2 (字幕版)


作品データIMDbより)
監督・脚本 エイミー・シャーマン=パラディーノ
原題 The Marvelous Mrs. Maisel Season2
放送年 2017年
制作国 アメリ
各60分、全10話

内容Amazon作品紹介ページより)
ガスライトで成功を収めたミッジだったが、ソフィー・レノンを怒らせたせいでコメディアンとしてのキャリアを伸ばすのを妨害されるようになり、漫談で稼げなくなってくる。また漫談をやっていることは家族に隠してきたが、さまざまな影響が出始めたため、いよいよ打ち明けなければならなくなる。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 シーズン1が好評だったこともあり(ゴールデングローブ賞、プライムタイム・エミー賞を受賞)、シーズン2では、物語の舞台をパリに移し始まります。
 数話でニューヨークへ戻りますが、元々主人公ミッジらが着ている洋服が毎回とても品も質も良いものだとかから伝わる裕福な暮らしぶりだとか、製作にお金がかかっていることは分かっていましたが、今シーズンは更にお金をかけていることが伝わってきました。

 その一方、このシーズン2では、ミッジがスタンドアップコメディのコメディアンとして認められていき、初めての巡業にも出て行く様子も描かれます。
 そもそもミッジはニューヨークのアッパーサイドに住む上流階級なので、マネージャーのスージーとのやりとりだとか、地下鉄に乗るだけで大騒ぎしている様子などが描かれていましたが、初めての巡業では、ボロのスージーの車や安宿(モーテル)に驚く様子、つまり、いわゆる「庶民」だとか、駆け出しのコメディアンなので、それ以下の生活も少し描かれています。

 また、シーズン2では、ミッジがコメディアンとして認められていく様子が描かれているので、娘がコメディアンだということを知った両親との関係や、一般社会でも男社会なのに、さらにほとんど男で構成されるコメディの世界でのミッジやスージーに対する「男」の反発が描かれています。

 ラストでは、スージーと仲違いしそうな展開もありやきもきしつつも、続編を期待させる内容でした。

 ちなみに、前回触れられずにいたことがあり、その1つは、主人公ミッジにはジョーン・リバースというモデルとなる人物がいたことです。
 もう一つは、1950年代という時代を反映してか、ミッジやスージー含め女性たちもタバコをスパスパ吸います。
 テレビだとタバコをスパスパ吸うシーンは気を使う時代なので、逆にこのタバコをスパスパ吸う様子を描けるのは、Amazonが動画配信している作品だからなのだと思います。

カーソン・マッカラーズ『結婚式のメンバー』

 久しぶりに小説を読みました。 
 (実際は、他にもいくつか小説を読んでいたのですが、いずれも途中で挫折していました。)


結婚式のメンバー (新潮文庫)

 

カーソン・マッカラーズ、村上春樹/訳 『結婚式のメンバー』 | 新潮社

 

著者:カーソン・マッカラーズ(McCullers Carson)
訳書:村上春樹


内容(新潮社より)
この街を出て、永遠にどこかへ行ってしまいたい――むせかえるような緑色の夏、12歳の少女フランキーは兄の結婚式で人生が変わることを夢見た。南部の田舎町に暮らし、父や従弟、女料理人ベレニスとの日常に倦み、奇矯な行動に出るフランキー。狂おしいまでに多感で孤独な少女の心理を、繊細な文体で描き上げた女性作家の最高傑作を村上春樹が新訳。

勝手に五段階評価
★★★★☆

感想
 この小説を読んだのは村上春樹の翻訳だったからです。
 新潮社が村上柴田翻訳堂と銘打って村上春樹柴田元幸らが新訳・復刊するシリーズを出していて、その中の作品です。
 新潮社の本は昨年の『新潮45』の出来事があってから、買うのを控えているのですが、刊行当初(約3年前)に買ってそのまま積ん読していたものです。

 小説に関しては感想を書くのが本当に難しいのですが、この作品は12歳の少女フランキーが主人公で、読んでいて、絶対に自分には書けない小説だとひしひしと感じました。
 そもそも12歳の少女という存在自体が何を考えているのかを想像することも僕には難しく、僕にも近くに12歳の少女が近くにいたときがあったはずなのですが、物語を読み進めていると、フランキーの行動、言葉に次々に驚かされました。

 村上春樹によるあとがきによると、この主人公フランキーには、著者のカーソン・マッカラーズ自身の姿が強く反映されているようなのですが、そのこともさらにこの小説のすごさを感じせるものでした。

 12歳という、大人でもなく、子どもとも言えない微妙な、思春期と呼ばれる「多感な」ある意味で普遍的なテーマを、一夏の出来事を通して、普遍的なテーマ、題材だけれども、思春期だとか「多感な」時期だかいう言葉でくくることの出来ない様子を描いていました。

 フランキーが、あるいは著者のカーソン・マッカラーズが自分の名前をそれまでの名前から自分自身で名乗った新しい名前にこだわる様子は、最近SNS上で目にした、結婚による改姓によってそれまでの自分から切り離すことが出来たという(主に)女性たちの声(毒親育ちで「親と籍も離れて名字も変わって、1回リセットできたみたいな、生まれ変わったような気分になれた」)と似ているようで、それとの違いも感じました。
 日本での結婚による改姓、改姓によるそれまで育った、生きてきた自分(例えば毒親や虐待など)からの解放は、名前が変わることで「新しい自分」になる、という点では同じなのですが、フランキーやカーソン・マッカラーズはあくまでも自分から選び取り宣言したものです。
 私はこれまでの自分とは違う、だから名前も違う、という宣言は、著者自身の強さだけでなく、アメリカという土壌が育んでいる強さでもあるように感じました。

「マーベラス・ミセス・メイゼル」

 毎週楽しみにしているラジオ番組(赤江珠緒たまむすび|TBSラジオ)での映画評論家の町山智浩さんによるコーナー「アメリカ流れ者」。
 単なる映画紹介・評論だけでなく、特にアメリカの時勢を絡めて作品が紹介されます。
 その「アメリカ流れ者」の2018年最後の回で紹介されていたのが、映画ではなく、Amazonプライムオリジナルのドラマでした。

町山智浩『マーベラス・ミセス・メイゼル』を語る
 


マーベラス・ミセス・メイゼル (字幕版)

 
作品データIMDbより)
監督・脚本 エイミー・シャーマン=パラディーノ
原題 The Marvelous Mrs. Maisel
放送年 2017年
制作国 アメリ
各約60分、全8話

内容Amazon紹介ページより)
1958年、ニューヨーク。アッパーウェストサイドに暮らすミッジ・メイゼルは、夫や子供たち、そして華やかな食卓のある幸せな日々を送っていた。ところがその日常が大きく変わる出来事が起こり、彼女は即座に生き方を変える決心をする。主婦だった彼女が、コメディアンになるという驚きの決断をするのだ。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 1話約60分のドラマ、しかも全8話で合計8時間くらいなので、僕にとっては結構長い話だったのですが、飽きることなく観続けることが出来ました。

 作品の舞台は1950年代のニューヨーク。
 主人公のミッジ(ミリアム)はユダヤアメリカ人で、父はコロンビア大学の数学教員、夫は親戚の会社で副社長をし、4歳になる息子と0歳の娘がいて、「上流階級」の人間です。
 暮らしているマンションのエレベーターにはドアマンがいて、1フロアには1軒で、その家の様子やお手伝いさん(ゼルダ)の存在だけでなく、毎回変わる服装からも、その暮らしぶりが分かります。

 そんな何一つ不自由のない、「恵まれた」生活を送っていたミッジですが、夫ジョールが秘書に浮気し家から出て行ってしまうことから物語が始まります。
 ジョールの趣味(というか夢)はスタンドアップコメディ(字幕では「漫談」)で活躍することで、ミッジも夫が舞台に立つときには一緒に行っていました。

 そして、夫が家から出て行った日(しかもユダヤ教徒にとってはとても重要な贖罪の日)に雨に打たれ、やけになって酒を飲んで酔っている状態で、夫が立っていたバーの舞台にミッジも立ち、スタンドアップコメディを始めます。
 ミッジの話は面白く、しかも、最初はその話の流れから胸を出すので、観客と後にマネージャーとなるバーの従業員スージーに強烈な印象を残します。

 ここからの物語は是非実際に見てもらうとして、僕がとても良いな、とまず思ったのは、町山さんが触れていた「マーベラス・ミセス・メイゼル」というタイトルから分かるように、女性が男性の付属(メイゼルというのは夫の姓で「メイゼル夫人」なので、男性優位ということが分かります)のように扱われていた社会で、「女性」として、しかも女性コメディアンとして認められていくという点だけではなく、上流階級であるミッジとギリギリの生活(僕の家より狭い)を送るスージーとが、その生活の差を埋めないことです。
 スージー金策に駆け回っていることを知っているミッジがスージーにお金を貸そうとすることはないし、ミッジが毎回すごいおしゃれをしていてもスージーは特に何も言いません。
 それは、仕事上の関係だからということもあるのですが、ミッジがスージーと「友だち」になりたいと言ってその関係を迫り、実際に友だちになったあとも変わりません。

 また、もう一つ良かったのは、出て行った夫ジョールとセックスし、復縁するのかという展開になったあとに、舞台でその出来事をネタにするという展開でした。
 その舞台に居合わせたジョールはショックを受けるのですが、セックスするということと、舞台でネタにしてこき下ろすということは、決して矛盾するものではないと思いました。
 一方で愛を語りながら、一方で憎しみを語る。
 人の気持ちというのはそんなに簡単に割り切れるものではないし、それは自分にとって近い存在、重要な存在であればあるほど、その振れ幅が大きいというか、いろんな気持ちが混ざり合うものだと思うからです。

 「男は舞台の上でペニスの話をしても大丈夫なのに、女がセックスの話をすると舞台から下ろされたり逮捕されるのはおかしい」、と指摘するような、ジェンダーを巡る話でもあるのですが、毎回変わるミッジの服装もすごく素敵で、あまり馴染みのないユダヤ教徒の暮らしも分かったり、何よりミッジだけでなく、スージーやミッジの両親エイブ(「名探偵モンク」のトニー・シャルーブ)とローズなど、それぞれのキャラクターも魅力的でした。

 1つ残念だったことがあるとすれば、流れる歌には字幕がなかったことで、多分流れる歌の歌詞から物語に関わるものがあるような気もするのですが、歌だと特に聞き取るのが難しいので、それが分かるともっと作品を楽しめると思いました。

家庭裁判所の待合室で感じたこと

 先日の調停で合計5回目の調停を経験したことになるのですが、多分殆どの人は調停など経験しないでしょうし、そこでの様子が興味深かったので、書いてみたいと思います。
 調停の様子といっても、調停委員と僕とやり取りするときには、一つの部屋で調停委員2人(男女)と僕だけなので、毎回違っていて興味深いなと思うのは、待合室にいる人たちです。

 調停は、調停を申し立てた側の申立人待合室と申し立てをされた側の相手側待合室に分かれています。
 東京家庭裁判所の場合、様々な調停申し立てがある中でも、調停の内容が僕らのように、夫婦あるいは内縁関係に関するものやその財産分与に関しては同じ階になっているようです。
 なので、僕と同じように申立人待合室にいる人たちは、夫婦関係に関するものやその財産分与、あるいは子どもの親権に関して、申し立てを行っている側の人間がいることになります。

 

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 その待合室にいる人たち(大体10組くらい)を見ていて、僕が一番最初に気付いたことは、殆どの人が弁護士と来ている、ということです。
 僕は弁護士に相談することはあっても依頼しているわけではないので、1人で調停に行くのですが、5回の調停で毎回違う人たちが来ている中で、1人で調停に来ている申立人は大体10組中1組か2組です。
 つまり、大体10組くらいの申立人側の人たちがいる中で、弁護士に依頼しないで来ているのは、僕だけか、あるいはもう1人いるくらいです。

 これから感じられるのは、調停自体がものすごくハードルの高いものになっている、と言うことです。
 僕は法律の専門的な知識もなく、学んだ経験もありませんが、調停の申し立て自体は誰もができるものですし、簡単に行えます。
 家庭裁判所内にも相談窓口があり、申し立てに関しての相談をすることも出来るので、どのようにすれば良いのかも(裁判所の場合「無料」で)相談に載ってくれます。
 本来ならば、もっと気軽に行えるはずの第三者を交えての話し合いである調停が、ものすごくハードルの高いもの、経済的にも負担の大きなものになっているような気がしています。
 もちろん、弁護士などの専門家に依頼した方が交渉がスムーズに行くということもあるのでしょうが、申し立て自体は簡単にできるということはもっと知られて良いと思います。

 上に書いたように申立人と言っても、その殆どが弁護士を伴っていることからも類推出来るのですが、そこにいる人たちはある程度の経済的な余裕があるように感じます。
 僕は毎回これから大学でも行くの?というようなカジュアルな服装で行っていますが(ハイキング行くかのような服装の時も)、他の人たちは殆ど入学式の保護者のような格好です。
 見るからにお金がかかっているような服装の人もいますし、なんとなく「公式な場」ということでそのような服装をしているのかも知れませんが、とりあえずそのような「入学式の保護者」のような服装を持っているということがある程度の経済力を反映しているような気がします。

 また、その経済的な余裕と共に感じるのは、自分自身もそうなのですが、時間的な余裕がある、ということです。
 仕事を1日も休めない、あるいは休みがあったとしても、自分の都合通りにはならない、休みがあったとしても、それは本当に身体を休める時間で、とても裁判所に行くことなど出来ないような情況では調停などすることは出来ません。
 調停の場にいることが出来るということは、時間的な余裕がある、時間的な余裕を作り出せるような情況にいる、ということが分かります。

 では、調停に来ている人たちの男女差や年齢はどうかというと、これはまとまってこうだ、というものは感じたことがありません。
 そもそも結婚の経験がある人たちが来ていて、調停になる場合は子どもがいることが多いようなので、年齢のボリュームゾーンは30代から40代のような印象は受けますが、これは見た目なのでよく分かりません。

 また男女比もどちらかに偏っている印象もありません。
 他に印象に残っているのは、とてもきれいなというか、容姿にお金がかかっているだろうと思われる若い女性がいたことです。

 僕自身の偏見でもあるのですが、その女性を見て「こんな人もこの場に来るようなことがあったんだな」と思いました。
 特に申立人待合室はすごく狭い間隔で長座椅子が置かれているので、近くの人たちの会話がよく聞こえるのですが、その女性が隣にいる女性弁護士に延々と愚痴っていたのが聞こえてきました。
 離婚の協議をしているようでしたが、その容姿を保っていられる経済力はどこから出てきているのかな、と考えたりしていました。

 最後に、これは自分の中ですごく重要なことなのですが、申立人待合室は喫煙室の隣にあります
 待合室まで煙が来るようなことはないのですが、待合室の隣ということもあり、タバコを吸いに行く人が多いので、待合室もタバコのにおいをした人たちでくさいです。
 4月から学校や病院、行政機関は敷地内禁煙になりますが、国会議員の圧力によって「官公庁」ではなく「行政機関」になったので、今後も裁判所内の喫煙対策は変わらないと思います。
 タバコのにおいが苦手だったり、受動喫煙が気になる方は、調停内容に関する準備だけでなくタバコのにおい対策もした方が良いと思います。

「死にゆく妻との旅路」

 公開からちょっと時間が経っていますが、Amazonで表示された時に、そういえば観てなかったなと思い、観てみた作品です。
 


死にゆく妻との旅路

 
作品データ映画.comより)
監督 塙幸成
製作年 2011年
製作国 日本
配給 ショウゲート
上映時間 113分
映倫区分 G

あらすじシネマトゥデイより)
平凡な家庭を築き小さな縫製工場を営む清水久典(三浦友和)は、バブル崩壊で工場経営が傾き多額の借金を抱える羽目に。がんの手術をしたばかりの妻ひとみ(石田ゆり子)を残して金策に駆け回るが、金策も職探しも空振りの状態が続く。気の休まらない日々を過ごしていたある日、夫妻はあてもなく日本各地をさすらう旅に出る。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★☆

感想
 観るまでは知らなかったのですが、実話を元にした作品とのことで、本(『死にゆく妻との旅路 』(新潮文庫) )になっていました。
 Wikipediaによると、清水久典さんは1999年12月に妻に対する保護責任者遺棄致死罪で逮捕され、がんを患う妻との逮捕されるまでの9ヶ月に渡るワゴン車での旅路を綴った手記が2000年に発表されたとのことです。


 この手記に書かれた、がんを患う妻との9ヶ月に渡るワゴン車での旅の様子とその後の逮捕までが映画では描かれています。

 前半の日本各地を旅する様子は、はっきり言ってしまえば単調で、日本各地の様子が分かるものの、妻ひとみさんの体調もひどくないので、大きな展開はありません。
 大きく変わってくるのはやはりひとみさんの体調が悪くなってきてからで、元々がんの手術をしてから旅に出ているので、すぐに病院に連れて行くのですが、ひとみさんは拒否して、久典さんと一緒にいることを選びます。

 そして最後、ひとみさんが亡くなり、その責任を問われて久典さんは逮捕されます。
 そのときに警察官から言われる言葉が印象的でした。
 それは、「なぜ病院に連れて行かなかったのか?」ということです。
 けれど、それまで繰り返し描かれているのは、ひとみさんがかたくなに病院へ行くのを拒否する様子です。

 この逮捕される時に、観ている人に、「なぜこの状況で逮捕されるのか?」「なぜ罪に問われるのか?」という疑問を突きつけてきます。
 20年前の出来事だということもあると思いますが、今もし、ひとみさんのように、既に手術をしていて、そこから明確な意志を持って受診を拒否し、夫と一緒に旅に出るということであれば、罪に問われることはないような気がします。
 というか、これは時代というよりは、「手続き」の問題で、明確に本人の意志を伝える、公的に認められるものがあれば、久典さんが逮捕されるというようなこともなかったと思います。

 20年連れ添い、9ヶ月も一緒に旅をし、しかも、ワゴン車という看病するには困難な環境下で最後まで見届けた久典さんの行動はとても真似することは出来ません。
 けれど、最後まで分からなかったのは、なぜそんなにもひとみさんは病院に行くこと、夫久典さんと離れることを拒否したのか、ということです。

 各地を旅する様子を丁寧に描くのならば、出会いだけでなく、旅するまでの20年にどんなことがあったのか、ということを知りたいと思いました。
 出会いと最後はあったものの、その間がスポッと抜けている印象を受けました。

 また、1999年だからこういうことがあったという印象を作品から受けましたが、これからはもっとこういう、家がなく、行き場所もなく、(ひとみさんはちょっと違いましたが)病院にも行けず、治療を受けられずに死んでいく人というのは増えていくと思います。
 もちろん生活保護はありますが、そもそも生活保護の捕捉率(生活保護対象者に対して、実際に保護を受けている人の割合)が低いにもかかわらず、どんどん保護費が削られたり、受けられずにいるのに、保護を受けることが何か悪いことをしているように言われるこの国では、映画で描かれるような死はもっと増えていくと思います。

はるな檸檬『ダルちゃん』

 年末に今年を振り返る内容のラジオ番組を聞いていたら、2つの番組で同じ作品が取り上げられていました。
 最初に聞いた番組はライムスター宇多丸さんのアフター6ジャンクションで(プロが選ぶ2018年ベスト「マンガ」は?【ダルちゃん、えれほん、ほしとんで、見えない違い…】)、もう一つは文化系トークラジオLife「文化系大忘年会2018」です。

 両方で触れられてたのが『ダルちゃん』という漫画で、元々は資生堂のサイト上で公開されていたものが単行本になった作品ということで、ネット上でちょっと読んでみたら面白かったので、手に取って読んでみました。

ダルちゃん | 花椿 HANATSUBAKI | 資生堂

 


ダルちゃん(1) (コミックス単行本) Kindle版

 
ダルちゃん 1 | 小学館

内容小学館書籍紹介ページより)
普通の人に「擬態」しても、生きづらい。
ダルダル星人の姿を隠して、一生懸命に「働く24歳女性」に「擬態」するダルちゃん。
ダルちゃんは「普通」じゃない。そのままの姿だと気持ち悪がられます。
だから社会のルールを一生懸命覚えて、居場所を探します。
誰かに合わせて生きていると、自分が本当は何を考えているのかわからなくなるけれど、それで相手が喜んでくれているのなら、人に合わせることの、何がいけないのだろう――。

勝手に五段階評価(基本的に甘いです)
★★★★★

感想
 
そもそも資生堂で公開されていた作品ということで、主人公のダルちゃんが女性だということも含め、「女性向け」に描かれていると思うのですが、とても良い作品だと感じました。

 主人公の丸山成美は24歳で派遣社員をしていて、実はその姿は「仮の姿」で、本当は「ダルダル星人のダルちゃん」ということで、「本当のわたくし」の時は見た目もダルっとした姿に変わります。
 本当はダルダル星人なのに、なぜ「仮の姿」で過ごしているのかということを、子どもの時からの様子を振り返る中で分かります。

 シンプルに言えば、育っていく環境の中で僕たちは様々な「形」を求められてきていて、その「形」に合うように、合わせることが出来るように求められています。
 その「形」は、例えば、男性である僕が経験したものならば、「仕事するときは、あるいは人に会うときは髭をきれいに剃ってくるもの」だ、とか、そういったものです。
 そういう「形」は様々な所にあって、人が集まるところには必ずあります。

 数人しかいない家族でも、その家族にはその家族に求める「形」があるし、学校には学校の、会社には会社の、あるいは、そういう組織とかではなくても、自分を表すような、例えば25歳の「形」、女性の「形」、派遣社員の「形」があります。

 この作品の良いところは、女性を主人公にしているものの、その「形」に合わせ、「仮の姿」で過ごしているのは、女性だけではないということをまずは描いているところです。

 そして、その上で、「仮の姿」で生きていくのは息苦しく、「本当のわたくし」を見出し、それを誰かに認められるというしあわせも描かれます。
 ここまでなら、まだ今までにも描かれてきたかも知れませんが、この作品はそこから一歩さらに踏み込んで展開されています。

 ネット上ではラストの展開に賛否両論交わされたということで、僕自身は予想外の展開には思わなかったものの、それでもこのラストの展開は、「本当のわたくし」を見つけ出し、誰かに認められるしあわせというものから一歩踏み込んでいて、その点が今までに無い作品だと思いました。