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映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

時には法律は守らなくても良い、という大人が「善悪」を語るおかしさ

先月起きた川崎市での中学1年生が殺害された事件について、もやもやした気持ちを抱えています。

最初に公開された少年の顔写真はいかにも「無垢」な笑顔で、こんな笑顔の少年が殺されてしまった、と思うと、とても悲しいものでした。

しかも、殺され方が、報道によって伝えられた通りだとすると、先月の「ISIS」による日本人殺害を彷彿とさせるようなものでした。

多くの人たちが悲しみ、加害者に怒りと憤りを感じたようです。

ネットではまだ逮捕される前から容疑者と思われる人たちの顔写真や名前、交友関係が広まり、2ちゃんねるのような所だけではなく、SNSでも堂々と流されていました。

容疑者が逮捕され、少しはこの異常とも言える情況が落ち着くかな、と思っていましたが、逮捕された容疑者たちが「否認」しているという報道の中、さらに堂々とFacebookなどでも顔写真や名前を出して、広めている人たちを目にするようになりました。

その中で僕がみた言葉はこういうものでした。

マスコミが報道しないからこそ、ネットメディアが実名と顔写真を報道するんだ。

社会復帰なんて迷惑だ。絶対にさせない。

人を殺したのだから、極刑になるべき。

僕はこれらの言葉にとても戸惑っています。

なぜなら、これらの言葉を書いている人たちが「大人」であり、誰かの「親」であったからです。

Twitter2ちゃんねるのような匿名の場所なら、今までもありましたし、目にすることはありました。

しかし、今回は、実際に面識がある、誰かの親である大人が堂々と(Facebookなどで)これらの言葉を書き、そして、それらの意見に沢山の「いいね!」がついていました。

時には法を守らなくても良い、という大人が「善悪」を語るおかしさ

僕が戸惑っているのは、少年法という法律を今回のような事件では「守らなくても良い」と言っていたり、直接言わないまでも法を軽視する行動を多くの人が取っていることです。

そして、その一方で、「子どもたちに善悪を教えなければならない」と平然と言っていることです。

法律を軽視する人たちが語る「善悪」とは何でしょうか?

個々の法律を考えれば、個人的に「不平等」「不公平」、あるいは「時代に合っていないのでは」と感じるものもあります。

けれど、日本という国でいろんな考えを持った人たちと、出来るならば争うことなく、穏やかに暮らしていくために法律を守って生活するようにしています。

わざわざこんな言葉を書く必要もないのかも知れませんが、僕が暮らしているのは法治国家ですから。

でも、今回の事件では少なくない大人が「法治国家で暮らしている」ということを忘れているようです。

しかも、まだ容疑者が「否認」をしている時からです。

どんなに疑わしいと思われていても、容疑者であり、否認している情況では、その容疑者が犯人かどうかは分かりません。

そんな人たちが子どもたちに教える「善悪」とはどのようなものなのでしょうか?

「人を殺したかも知れない人は何をされても良いのだ」ということでしょうか。

「人を殺したかも知れない人の家族にはどんな批判をしても良いのだ」ということでしょうか。

そして、もし容疑者の犯行だということになり、罪を償って刑に服したとしても、「一度人を殺した人間なんか生きていては迷惑だ。死ね。」と言うことでしょうか。

法律と裁判所は必要ない、ということでしょうか。

これらの言葉を見て率直に感じたのは、「法律があって良かった」ということです。

時には法など守らなくても構わないという人たちがいて、暴走している情況だからこそ、法律に則って、今回の事件の容疑者が裁かれるように節に願っています。

もう一つ戸惑いを感じた言葉があるのですが、長くなってしまうので、明日書きたいと思います。