映画と本と自分と山

映画が半分、残りは本と自分、時々山登りについて

褒められる喜び

先日、新聞を読んでいたら、一面の片隅にある記事が目に留まりました。

 

digital.asahi.com

 

朝日新聞の朝刊には毎日、哲学者の鷲田清一さんが取り上げる誰かのことばとその解説が載っています。

鷲田さんの前は、詩人・評論家の大岡信さんが「折々のうた」というタイトルで担当していました。

僕は毎回この欄を読む、というほどではないのですが、先日、たまたま目に留まりました。

 

上のリンクだと朝日新聞デジタル版の読者じゃないと読めないかも知れないので、紹介されていたことばだけを引用してみます。

 

褒められた喜びというのは、「ちゃんと見ていてもらった」という喜びでもあった。 苅谷夏子

 

 苅谷さんというのは、国語教育学者大村はまの元生徒で、大村はま記念国語教育の会の事務局長を務めている方とのこと。

 

大人になると褒められることはほとんどなくなり、むしろ誰かを褒める、いかにして褒めるかということを考えることが圧倒的にエネルギーを注いでいくことになります。

誰かを褒めるということが、今の役割なのだ、自分はもうそういう年齢なのだ、ということで、誰かに褒めて欲しいということもすごく気恥ずかしく、中々言えません。

 

ネット上でよく大人(だと思われる人)たちが「もっと褒めて欲しい」ということを書いていて、「なんでそんなに褒めて欲しいんだろう?」と疑問にさえ思っていました。

 

でも、この「褒められた喜びというのは、「ちゃんと見ていてもらった」という喜び」ということばがとても身にしみてきました。

「褒めて欲しい」というのは「自分をちゃんと見て欲しい」ということ。

 

当たり前のように目の前に居るかも知れないけれど、ちゃんと見ているよ、と伝えて欲しいのは、年齢に関係なく、どんな人でも望んでいることなのかもしれない、と思いました。